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デュマ・フィス『椿姫』 感想とレビュー 物語の構造と読み解く視点

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はじめに
 デュマ・フィスは、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』などを書いたアレクサンドル・デュマの私生児。父のアレクサンドル・デュマと区別するために、父親を大デュマ、子を小デュマと呼び分けたりもします。ややこしいもので、デュマ・フィスも、本名はアレクサンドル・デュマなのです。フィスというのは子という意味だそうです。
 『椿姫』はデュマ・フィスの代表的な作品。フランス文学のなかでも有名な作品のうちの一つです。デュマは、『椿姫』をもとに様々な戯曲を書いたりと、戯曲で多く活躍したそうで、当時のフランスの文人たちは、小説家というくくりというよりは、戯曲や詩なども書くいろいろな分野に活動していた人が多いようです。
 ポスト構造主義や、記号論、言語学など1900年代後半を賑わせた新しい学問は、その多くがフランスの論客によってリードされてきました。フランスには、アカデミー・フランセーズといって、国立の学術団体が存在したり、国語教育にかなりの力を入れています。そうした土壌のうえでは、素晴らしい文人、知識人が生まれてくるわけで、フランス文学というのは文学を勉強するうえでは欠かせない重要な分野になっています。

物語の構造
 父大デュマが壮大な物語を長大な分量で書いたのとは反対に、小デュマは小さな物語を小説一冊程度の分量で書きます。この物語もどこにでもあるといえば、どこにでもあるような話。ある一人の少年が、高級娼婦に恋をして、その娼婦と一時期同棲生活までするも、父や周囲の圧力によって非業なわかれを遂げるというもの。有り体といえば有り体です。
 また、訳者の新庄嘉章氏も述べているように、デュマ・フェスはモラリスト的な側面がぬぐえず、ややお説教小説のようになっていなくもないという点は重要な指摘です。しかし、新庄氏は、その面を踏まえた上でも、「作者の人間味豊かな情緒」がこの作品の欠点を補っていると述べています。私もそう思います。ちなみに、この新庄嘉章氏というのは、日本のフランス文学者で、多くの実績を残された研究者です。
 物語の内容は有り体ではありますが、しかし、私はこの小説を読んでいてページを繰るのが止められないほど夢中になりました。その原因は、新庄氏が述べたように、人間味豊かな情緒のためです。これだけそこに描かれている人たちが生き生きとして働きかけてくるというのは、そうあるものではありません。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のようにおもしろく読めました。
 物語は1847年、書き手でもあり語り手でもある「わたし」がある売り出しを見付けるところから物語ははじまります。その競売にかけられた素晴らしい家具や宝石などの持ち主は、少し前ならだれもが知っていた高級娼婦のマルグリット・ゴーティエのものだったのです。
 「わたし」は、マルグリットの競売品から誰かからの贈り物らしい『マノン・レスコー』の本を購入します。それからしばらくして、死んだような顔をした若者、アルマン・デュヴァルが本を購入したという情報をもとに、「わたし」のもとを訪れます。この本をマルグリットに送ったのはこのアルマンだったのです。そして、アルマンはもうすでに死んでしまったマルグリットの死体をもう一度見るために、奔走します。この当時は、一度墓に埋めた死体でも、墓を変える際には遺族の申し出があればできたようで、アルマンは彼女の死に立ち会えなかったがために、また彼女への愛情のために、別の墓地を見付けだしそこに埋葬するために、彼女の遺体を移動させてもいいか彼女の遺族のもとに出向きます。
 そして、彼は彼女の遺体を移動させると、その後「わたし」とともに自宅に帰り、今迄何があったのか、自分とマルグリットがどのような関係だったのかを話し始めるのです。この物語は「わたし」が見て、聞いたものを「わたし」が書いているという構図のもと、その多くはアルマンの語りで構成されています。アルマン宅で、ずっとアルマンは「わたし」に対して、自分とマルグリットとの二年ほどの関係をずっと話し続けるのです。その語りが終わると、マルグリットのアルマンへの手紙が引用され、マルグリットの晩年の世話をしていたジュリー・デュプラの引用も少しされ、「わたし」のわずかなコメントがあり物語は幕を閉じます。常に「わたし」が見て聞いたものを「わたし」が書いているという構図になっているという点に注意しておきたいですね。

様々な要素。デュマの視点、「からだ」と「こころ」
 さて、この小説は、モラリストとしてデュマから読み解くこともできます。彼は、自分が私生児で生まれたということにずっとコンプレックスを感じていたらしく、まさしく文学者らしい文学、このように社会の悪によって虐げられた人々の代弁をする文学を書き上げました。当時は娼婦というのはひどく社会から嫌われたものだったようです。もちろん、金持ちの爵位を持った人々や社交界に出入りする若者たちはそのようなことを気にせずにマルグリットのような高級娼婦と交際をしたようですが、世間一般からみると娼婦というのは酷く迫害された存在であったようです。語り手の「わたし」は最初と最後に自分がなぜこの物語を書くのかということを示しています。
 「わたしはなにも悪徳の使徒ではないが、気高い心を持つ不幸な人びとがあげる祈りの声を聞けば、いつでも、みずからそのこだまとなって、それをそのまま世に伝えたいと思うのである」
 悪徳の使徒というのは、娼婦を美化したことによって、娼婦を認めていると糾弾されるおそれがあったからでしょう。現在ではフェミニズム、ジェンダー研究が発展してきましたから男女平等はまあ、ある程度はかなえられるようにはなってきてはいますが、まだそうした意識のない150年前のフランスでは、娼婦は悪であって、それを擁護すれば、周りの人間に糾弾されること必須だったわけです。
 ひとつにはこうした側面から、デュマが社会によって虐げられた人々を救いたいという気持ちがうかがい知れます。
他には、純粋な恋愛小説としても読めます。もちろん、それだけで消費されるものではないと新庄氏も述べているように、それだけで終わるものではありませんが、本編の多くはアルマンとマルグリットの身を燃やすような激しい純愛の物語です。
 思うに、西洋の身体論に支えられたこの小説に登場する人々は、よく「体」と「こころ」を切り離して喋っているように見受けられます。
 「あたしたちのからだは、もうあたしたちのものじゃないのよ。あたしたちはもう人間じゃなくて、品物なの。」といったマルグリットのセリフから、自分達の「からだ」が商品であり、それを売っていることがわかります。当たり前と言えば当たり前ですが。しかし、だからといって、「きもち」まで売っているのかというとそうではない。「からだ」を売っても「きもち」までは売らないということで、彼女たちは彼女たちなりのプライドを保っているのです。しかし、アルマンにとっては、マルグリットは娼婦ではありません。アルマンは、アルグリットを娼婦として金で買うのではなく、金という媒体を介さない恋愛をしようとしたのでした。そして、マルグリットにとってもそれは、こんな商売をしている人間にとってはもう人生で一度きりしか起こりえない本当の愛だということで、二人は恋に落ちて行きます。「からだ」と「こころ」を切り離した考えというのは、明治に日本にも導入されます。現在では、恋愛の対象、結婚の対象、性生活の対象は、一人のパートナーとするのが良いとされていますが、これはじつはここ数十年に作り上げられたロマンチック・ラブ・イデオロギーというイデオロギーなのです。明治時代の吉原を描いた小説などを読んでおりますと、とうじの見合い結婚は恋愛がありませんから、結婚していても、恋愛と性生活を求めに吉原へ行くということになり、それぞれ独立したものであったことがわかります。
 この小説にかぎっても、マルグリットは自分のからだは金にしばられているので、こころはアルマンにやるが、からだはしばしば伯爵などに売らなければならないと最初は述べます。しかし、それで許せるようなら男も楽ですが、現実はそうはいかない。女性は、「からだ」と「こころ」を別ものにして考えますが、男性はそれを一緒に考えます。「からだ」を売るということは、すなわちその人の「こころ」も売られてしまうということで、とてつもなく男性にとってはつらいことなのです。

まだまだ楽しめる沢山の視点
 他にもこの小説を読み解いていく視点はいくつもあります。
 なんといっても男と女の駆け引きを楽しむという読み方は、現在でも通用するものがあります。マルグリットはこの小説では玄人女ということで、恋愛にはかなりのエキスパートとして描かれます。しかし、その嘘の恋愛には慣れた彼女も、アルマンのひたむきな純粋な愛情に打ち負かされて、まるで処女のように恋愛をするのです。と、アルマンは自分の語りでそう述べているということになります。半面はたしかにそうでしょう。マルグリットにとっても、これは本当の愛なんだ、いままでとは違うのだということを意識していたことは読み取れます。しかし、半分はやはり恋を商売にしていた女性ですから、そこでの経験値があります。かなり論理的に恋愛論を述べるところなどから考えても、彼女は彼女なりの恋愛観を有していて、恋の駆け引きもかなりの術を知っているようです。押したり引いたり、二人の恋愛論の掛け合いというものは、恋愛の勉強になります。

舞台としての都市
 「都会の喧騒から遠く離れていますと、人目をさけて、恥も恐れもなしに、思うさま愛することができるのでした。そこでは娼婦の面影は次第に薄れていきました。今わたしのそばにいるのは、ひとりの若い美しい女です。マルグリットと呼ぶその女をわたしは愛し、わたしも彼女から愛されていました。過去はもはや影も形もなく、未来には一片の雲もありません」
 文学研究において、「舞台としての都市」という概念があります。都市というのは、例えば原宿の奇抜なファッションをする人がいる。そういう人がいわゆる舞台の上の人であって、観客はそれを見ることによって、真似をしたりするということです。この小説も、この理論を応用できます。パリというのは、この小説では「うわさの都」と呼ばれていますが、華々しい社交の世界です。その都市にいる間はマルグリットは自分の生命をけずるような不摂生や、乱れた生活を送るのです。パリでは彼女は一番の美人、花形の高級娼婦。彼女が役者となって、パリの文化をけん引していきます。しかし、それは同時に彼女の生命をけずるものでもあるわけです。本当の恋愛をしたマルグリットとアルマンは、舞台としての都市パリを離れ田舎に離れます。残念なことにパリに戻らなくならなければならなくなりますが、しかし、田舎でくらした数か月の二人は非常に落ち着いた環境の中で健康も回復し、お互いに愛を深め合うのです。

様々な端役 現実家のプリュダンス 社会としての父
 この小説が「人情味豊かな情緒」と言われたいくつかの理由として、個性的なキャラクターが挙げられるでしょう。キャラクターが個性的というか、それぞれの役割を担っていると言った方がいいかもしれません。マルグリットの友というか、同僚として登場するプリュダンスという年増の娼婦は、現実家として登場します。マルグリットもそうとうな手練れのはずでしたが、まだ彼女は若かった。その若さゆえに、自分が本当の恋に落ちればどのような未来がくるかわかっているにもかかわらず、その恋に猛進しなければならなかったのです。そんな若い二人を見て、それをやめるように助言するのがプリュダンスの役割。彼女は自分もかつては娼婦として第一線に立っていたからこそ言える助言を二人にします。二人の恋は、金銭的なバックがついていてのみ成り立つのであって、二人で田舎に引っこんでしまったらそれは成り立たない。いずれは不幸に陥ると注意するのです。プリュダンスは、自分の経験と、また飽くまでも二人の事をおもって述べている点が彼女を独立したキャラクターとして際立たせています。
 この二人の恋を邪魔する存在としては、もう一人。アルマンの父です。このアルマンの父は、「社会」といったものを体現化したような存在で、自分の息子がパリの高級娼婦に肩入れしているという噂を聞いてアルマンを田舎に連れ戻しにきます。
 後にわかることですが、この父は、アルマンに内緒でマルグリットと会い、そして、自分の娘が結婚する、そのためには兄のアルマンが娼婦と関係していてはいけないのだという理由でどうか手を引いてくれるように懇願したことがわかります。この父は、「わたし」も最後に会い父性性の象徴のような人だとして、評価しています。この父は前半は「社会」のルールとしてアルマンを取り戻しに来て、後半では優しい、息子想いの父として描かれます。こうした、キャラクターが存在するからこそ、この物語が単なる恋愛小説で終わらず、社会性を持ち、人間の深い心理を描いた小説として成功しているのです。

終わりに、愛すること
 「あたしが愛したのは、ありのままのあなたじゃなくて、実は、こうあってほしいと思ったあなただったのね」
この小説のもっとも素晴らしい点は、この小説自体が一つの恋愛論になっているという点です。マルグリットやアルマンの口を通して語られる恋愛についての様々な言葉は、恋愛の深い真理をついた名言としていずれもはっとさせられるものばかり。
 特にマルグリットの口から出る恋愛論はすばらしい。彼女は自分がアルマンのことを自分の中に抱いていたイメージで愛していたと告白し、あやまります。他にも、男性たちがなぜ自分達高級娼婦を買うのかというと、それは見栄のためだというのです。けっしてマルグリットのためではない。もしかしたら、自分達は相手のためだと思い込んでいるかもしれないけれども、結局は自分のためなのです。このような美しい女の旦那になっているという、見栄があります。他にも、娼婦を養っている自分というものに酔っているものもいます。金を出して誰かを生活させるというのは、かなり人間にとって、プライドを慰めてくれるものらしいようです。人は常に幻想を抱いています。その人を愛しているといっても、その人のある一面や、自分のなかのその人のイメージを愛しているにすぎません。そのなかで、いかに本当の相手に近づけるのか、自分のためではなく、相手のために愛せるのか、そうした部分が問われるのだと思います。
 特に嘘の恋ばかりをしてきたマルグリットから本当の愛が芽生えた時、我々読者は本当に美しいものを見ることができるのです。

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