スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『ザ・マスター』 感想とレビュー 精神の回復、そして独立

b2f6388f.jpg


はじめに
 『ザ・マスター』(The Master)はポール・トーマス・アンダーソン監督・脚本・共同製作による2012年のアメリカ映画です。
 舞台は第二次世界大戦後のアメリカ。タイトルにもなっているマスターというのは、フィリップ・シーモア・ホフマンが演じるランカスター・ドッドというカリスマ性を持った壮年の男性です。この人物は思想家として、戦後アメリカで活躍します。このランカスターが創設した新興宗教は実在する団体であるサイエントロジーが参考にされているそうで、フロイトの夢診断などの心理学的な知見を応用した一種のサークルといったようなものです。

新興宗教批判ではない映画
 この映画は、製作陣の一人であるジョアン・セラーは「これは第二次世界大戦を描いた物語であり、大戦後の社会を漂流する人々を描いた物語なんだ」と述べているように、この新興宗教を批判した映画ではありません。もちろんそれを表現するということは、必然的に批判の視点を持つことになりますが、それが主題ではないということです。むしろ、その新興宗教の創世記の部分を描きつつも、ホアキン・フェニックス演じるフレディ・サットンという青年に主眼が置かれています。
 このフレディという青年(残念なことに私には青年には見えなかったのですが・・・)は、第二次世界大戦で多くの日本人を殺したことに精神的にショックを抱えています。直接そのことが精神的にショックを与えたのだという描写はありませんが、彼等の対話を通して、それがかなり深く傷をあたえたことがわかります。しかし、どうやらフレディにはそれ以外にもいくつか問題があるようです。彼は、この映画でいつも不思議な酒を持っています。フレディ特製の酒で、一体何が配合されているのかわかりませんが、おそらく当時市場に出回っていた麻薬性のある医療品などを組み合わせて、一種の麻薬のような酒を作り出していたのでしょう。
 アルコール中毒とも、麻薬中毒とも取れないような状況のなかで、フレディは周囲のものを破壊していきます。更生しようと本人なりには頑張っているようですが、それが周囲の目にはそう映らない。そして、あるとき些細なことでかっとなって、すべてを破壊し、その場にはいられなくなってしまうのです。
 そんな時に出会ったのが、このドットという男性。彼は、カリスマ性を有し、周囲の者を魅了します。ドットは自分のことを医者でもあり、科学者でもあり、作家でもあり、論理哲学者でもあると紹介します。
 その時点では何かよくわからないのですが、彼は自分の考えに基づいてあるメソッドを打ち立てます。そのメソッドにそって、人間の精神の奥深くにある記憶を呼び覚まし、トラウマを解消、人間を自由にできると考えているのです。
通常こうした新興宗教を扱った映画をみると、その新興宗教への批判で終始してしまいますが、この映画が優れているのは、そうしたことに終始しなかったという点です。やはりどこか奇妙な点はあります。特に日本人には、新興宗教に限らずに、宗教全般に対して何か醒めた視点があります。そして私もまたそれに影響を受けているであろう人間の1人ですから、この映画を見ていて、変な人たちだなと思いました。
 しかし、この映画はその新興宗教について、ただ単に良いとか悪いとかの判断はしていません。あくまでドットとフレディとの交流がメーンになります。

フレディの人間的回復
 この映画はフレディ回復の映画だと私は思うわけです。恐らく多くの人がそう感じると思いますが、それとはまた私のいう回復は少し違うような気がします。というのは、フレディの回復というのは、ごくごくわずかな部分というか、やっとある段階に達したというだけで、今後また破壊衝動に駆られたり、また回復しなければならないかもしれないという不安が付きまとった中での回復だということです。だから、これで人間的に回復したんだ万歳、よかったよかったということとは違うのだろうと私は思います。
 そして興味深いところが、このドットの使用したメソッドが全く役に立たなかったわけではない、むしろフレディの回復にある程度役立ったのだという点です。新興宗教を取り扱った映画などでは往々にして、それは全て幻想であるとか、ものすごい否定的なメッセージを観客は受け取ることになりますが、この映画が不思議なのは、そうしたネガティブな感情を受け取らず、なんとも言えない晴れやかな心持ちになるということです。
 例えば劇中に、まどと壁の間を行ったり来たりして、目をつぶりながら壁なり窓なりを触り、それから感じられることを述べていく訓練。あれはいかに自分のなかでイメージをコントロールするかという訓練でしょう。ペギー・ドッドによる口述の訓練では、見えているものそのものを意識でコントロールするという訓練。相手の瞳の色が緑に見えても、それを黒だと思い込むことによって黒に見ようという意識の訓練です。クラークとの罵倒し合う訓練では、いかにネガティブな考えをコントロールするか。すべて、怒りや破壊衝動を抑え、自分をコントロールする訓練です。
 そして、実際にそれはフレディにある程度の効果をもたらすのです。だからといって、完全にこのドットのメソッドを称賛するわけでもない。そこには批評として、このメソッドは宗教ではないかと指摘する人間の姿や、勝手に治療行為をするのは違反だという警察官が登場します。
 何はともあれながい訓練の末、ドット自身による目標訓練、その目標まで行って帰って来るという、荒野での訓練を受けて、フレディはそのまま姿を消します。しかし、一見姿を消したように見えるフレディも、かつて恋心を抱いていた彼女のもとにきちんと戻って約束を果たすという意味においては、目標にたどり着いていたのです。

おわりに
 最後のドットとの対話は感動的。お前は初めてマスターに使えない自由な人間になるのだと、ドットはフレディに述べます。大きな視点で見れば、フレディは精神的に子供な状態、自分をコントロールできない状態から、一端ドットを信じることを通じて、独立した精神を持つようになるという、人間の独立を描いているとも言えるでしょう。特に、途中ドットの思想にのめり込み、またそこから疑問を抱いて道を逸れるという部分の描写はとても上手い。
 私はここに、信じることの二面性を感じました。信じる者は救われるという言葉もありますが、ものごとすべてに二面性があるように、信じることにも二面性がある。ドットのような人間のいうことを信じているのは倖せでしょう。そこには確固たるものがあるので、アイデンティティは確立され、自信に満ち溢れ充実した毎日が送れるようになる。ながいことキリスと教が支配してきたこの数百年ですが、その間、狭義の対決があったのは別として、個人それぞれの不安というものは今ほど深刻ではなかったように感じられます。しかし、信じることのいけない面は、それを信じることによって、他のものは否定しなくてはならなくなってしまう点。フレディはドットを信じるあまり、ドットに反抗する者やドットの考えに従わないものに暴力を振ります。これはまだ一個人の問題ですから、まだかわいいもので、全員が全員例えばキリスト教を信じれば、他の宗教は駄目だということになる。宗教戦争が教えてくれるのは、いかに信じることが危険かということ。
 しかし、では信じることはいけないのかというとそうではない。何も信じることができなければ、人間生きていけません。だから、何を信じればいいのかということを、取捨選択していくなかで、また自分が信じているもの以外を否定しないように、独立した精神が必要になるのです。それを描いた作品だからこそ、この映画には普遍性があるように思われます。

コメントの投稿

非公開コメント

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
201位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
15位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。