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高畑勲監督『おもひでぽろぽろ』 感想とレビュー 人口と自然、二元論を越えて

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はじめに
 昨年冬に話題となった『かぐや姫の物語』。今回は『かぐや姫の物語』の監督である高畑監督の別の作品を論じます。
私も小さいころにこの作品をロードショーなどで見た記憶があったのですが、なんだか全然記憶にない。どうしてなのだろうかと思い、かぐや姫前の予習ということもかねてこの作品を見直したのですが、この作品、ジブリ作品のなかでも群を抜いて難しい作品でした。
 小学校5年生の頃の記憶がメーンに押し出されてくるので、語っている現在、タエ子(27)時(1982年)がおろそかになってしまうのです。特に過去が唐突に何の説明もなく始まったり、現在と入れ替わりで提示されるので、中学生くらいにならなければわからない程難解になっています。そのために、小学校の時分に見たものですから、自分と感性の近いタエ子小5の時の映像だけが頭に残っていたのだということに気が付きました。

作品の難解さ 二つの時間軸
 この作品が複雑になっている点は、二つの時間軸が流れているからです。一つは、語っている現在、すなわち物語が進行している「現在」です。我々が住んでいる世界の時間になおせば、1982年ということになり、主人公タエ子は27歳ということになります。
 もう一つの時間軸はタエ子が小学校5年生の時。西暦でなおせば1966年になります。評論の用語では、語られている現在となります。
 こうした二つの時間軸が流れる物語というのは他にも数えきれないほどあるのですが、しかしそうした作品には大抵の場合、もうすこし観客にわかりやすいように展開されていきます。例えば主人公の語り。あの時はあんなことがあった、といった語りから徐々に過去の映像が浮かび上がってくる。この作品にもいくつかそうした説明から入る箇所があります。その部分はまだわかる。だけれども、この作品の難解さは、過去がそうした説明によらず、唐突に始まったり、時には二つの時間軸が同時に存在したりすることから生まれます。
 例えば、タエ子が夜行列車に乗って山形へ向かう際、27歳のタエ子が窓の外を見ていると思うと、いきなり列車の中に小学校5年生のタエ子が登場します。これがなかなか難しい。そういうことが何度となく繰り返されるので、観客は今はどっちのお話だろうと、集中しなければならなくなるのです。

 他にこの作品が難解になっているのは、非常に論理的な対話が為されるということ。一種の哲学的な問いがずっと語られているということです。これを簡単に高畑監督の性格だと断じてしまうのは少し短絡的な気がしますが、傾向としては高畑監督は非常に理知的で、理詰めで物事を考える人だとは言えるかもしれません。
 タエ子は、分数の割り算の意味が納得いかず、ずっと考えてしまいます。通常ならば、考えないで、ただ単純に分母と分子をひっくり返せばいいのだと割り切ってしまうところを上手くできない。タエ子の現在がどうであるのかということがあまり語られない映画ですが、彼女の性格は、こうした細部を丁寧に読み解いていくことによって浮かび上がってくると思われます。つまり、彼女もまた物事を自分の頭で考え、それに対して答えがでるまで先に進めない人間なのです。悪く言えば要領が悪い人間でしょう。納得しなければ進めないのですから、おそらくその後の彼女の人生もなかなか一筋縄ではなかったことが予想されます。
 さて、そのようにものごとを論理的に理詰めで考える特徴を持つ彼女がなぜ田舎に行きたかったのかという問題です。この映画の難解さは、無駄な説明がかなり削られていること。いきなり田舎に行くという状況で始まる映画というのはなかなかありません。いきなり展開してくるのですから、観客は路頭に迷うわけです。そのためこの映画が難しいとされているのでしょう。
 さて、タエ子が何故田舎への希求を抱いているのかというと、映画においてはタエ子は自分には田舎というものがなかったから、大人になった今になって田舎に行きたくなったのだと説明します。心理学的に言えば反動形成ですか。このような体験は多くの人があるでしょう。親に禁止されていたことなどを、大人になってできるようになったのでやるということです。私も祖父祖母が全員都内にいたので、田園風景の広がる田舎というものがありません。大人になった今になると田舎というものをよく知りはしませんが、田舎に行きたいという願望があります。
 表向きには、田舎に行きたいというのは彼女が小さいころから田舎に行けなかったということがあるでしょうが、私はもう一つの理由があると思います。それは、田舎=自然、田舎=非論理の世界だという認識がタエ子にあったからではないかということです。つまり、タエ子は、自然:人口、非論理:論理、非合理:合理といった二元論を頭に描いていたのではないでしょうか。


論理、非論理 
 タエ子が田舎=自然であり、合理的でない世界だと認識していたことを伺える部分があります。
 田舎についてから。案内するトシオが次のようなことを述べます。
 以下トシオとタエ子のやりとり
「都会の人は森や林や水の流れなんか見ですぐ自然だ自然だってありがたがるでしょう。でも ま 山奥はともかぐ田舎の景色ってやつはみんな人間がつくったもんなんですよ」
「人間が?」
「そう 百姓が」
「あの森も?」
「そう」
「あの林も?」
「そう」
「この小川も?」
「そう 田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこのヒイじいさんが植えたとか、ひらいたとか、大昔からタキギや落葉や、キノコをとっていたとか」
「ああ そっか」
「人間が自然と闘ったり自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうぢにうまいこと出来上がってきた景色なんですよ これは」
「じゃ 人間がいなかったらこんな景色にならなかった?」
「うん 百姓はたえず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょう?うん だから自然にもねずーっと生きててもらえるように百姓の方もいろいろやって来たんです。まあ 自然と人間の共同作業っていうかな、そんなのが多分 田舎なんですよ」

 ここには重要な視点が隠されていると思います。田舎や自然というものは、あくまでもそれ単体としては存在しえないのです。人間や人工という私たちの主観、主体があって、初めて私たちとは別のもの、人間、人工とは別のものという意味でしか自然や田舎という概念は出てこないわけです。すると、自然という概念すらも人間が作り出した人工的なものだと言うこともできます。また反対から考えて、人間だって自然の生き物なのだから、自然の一部ではないかと言うこともできるのです。自然対人間(人工)という二項対比は今まで何の問題もないようにまかり通ってきましたが、本当によくよく考えると、果たしてそんなに簡単に考えることができるのか?ということになると思います。
 タエ子はこのやり取りをしている際に、始終新しい発見であるかのように驚きます。その驚きに嘘がないとすれば、自然はあくまで自然であり、それは彼女のいた都会、人工と対立するものだと考えていたということになるでしょう。彼女は論理的に、理詰めで生きて来た人間なので、おそらく都会での暮らしに息が詰まっていたのだと私は解釈します。
なので、田舎への希求は、ひとつには彼女の反動形成。もう一つには都会、人工、論理からの逃避であると言えるでしょう。

 高畑監督の作品は『かぐや姫の物語』を見ても感じたことですが、何か一つのことを言うにも、きちっと弁証して答えを導き出さなければ気が済まないということです。「かぐや姫」では、生はいいものなのか、いや悪いものだ、つらいものだ、と物語を展開していくなかで、最後にまだ地上に居たいという気持ちまで丁寧に描き、生の在り方というものを薄っぺらい提示ではなく、きちんと弁証して見せています。
 この作品も彼のその方法論が垣間見れると思います。すなわち、単に最初から、自然と人口というのは二項対比できるものではないのだという答えを提示するのではない。その二元論を信じていたタエ子に、トシオが時間をかけてそうではないのだということを、身をもって徐々に教えていくのです。


 この映画の謎
 この映画はジブリ映画でも飛び切り謎が多い作品です。ジブリを代表するもう一人の監督、宮崎監督の作品にも謎がいっぱいありますが、宮崎監督の作品の謎が感覚的な謎と表現できるのならば、高畑監督の謎は論理的な謎と言えるでしょう。理詰めで説明しているのですが、そのなかにどこかぽっかりと意味が通らないところがある。説明が抜けおちているところがある。それを少し考えてみましょう。
 まず一つ目にここはどういうことだろうと私が思ったのは、小学校5年生のタエ子を父親が殴った場面。後にも先にも父が手をあげたのはあれっきりだったという説明が後にされます。そのため、やはりタエ子にとっては衝撃的な、おそらく父にとっても衝撃的なことだったことでしょう。
 通常ならば、ぐずぐず文句を言い、バッグはお姉ちゃんのでなければ嫌だとか、だだをこねていたことに対する父の怒りです。私にも現在小学6年生の妹がおりますので、この父親の気持ち、あるいは姉の気持ちというのがよくわかります。子供はどうでもよいことが気に障ってしまうものです。ひとつが上手くいかないと、その感情が私は何が上手く行っていなくて、こういう感情になっているのだということがまだはっきりとわかりませんし、コントロールできませんから、他のこともすべてが嫌になってしまう。大人でもこういうことは多々ありますが。それで、だだをこねていたタエ子を殴った。これならわかるのです。
 ところが、問題が生じます。ただの怒りならそのまま理解できるのですが、タエ子を殴る直前に、父親は傍白(心の声)で「裸足で」というセリフを呟いています。これがわからない。黙っていてさえくれれば、そのまま見過ごせたのに。なぜ、この父は「裸足で」ということを心のうちで呟いたのでしょう。積もり積もっていた感情が、最後に「裸足で」出て来たという目に見えやすい形をとったので、ぷつんと糸が切れたということでしょうか。ただ、少し無理があるような気がします。「だだをこねるんじゃない」とか「わがままをいうんじゃない」と言ってくれればわかりやすいものを、「裸足で」ですから、まるで父は、タエ子が裸足で出て来たことに対して怒ったように見えてしまいます。そんなことは製作者は当然わかっているはずですから、敢えてこの部分を謎めいた言葉のままにしておいたのは、謎のままです。今の私には明確な答えは導き出せません。ぜひ一緒に考えてください。

 もうひとつの謎は、これは有名な謎なので他にも多くの論者が指摘していますが、ラストシーンの問題です。ラストシーン、一見すると、トシオとタエ子が結ばれたとあって、ハッピーエンドになります。通常であれば、そう解釈したいところ。ところが、最後の最後に、車で立ち去っていく二人の後を見つめる小学生の子供たちの表情を良く見てください。みんな笑っていないのです。真顔。特にタエ子だけが背景が消えたあとも、数秒間画面に残りますが、そのタエ子の顔が無表情なのです。
 これは少なからず観客に衝撃を与えます。ハッピーエンドだ万歳と思っていたら、真顔でこちらを見つめてくる小学生のタエ子がいるわけですから。では、バッドエンドなのだろうかという意見もあります。確かに、27歳のタエ子は、トシオ宅でおばあちゃんからトシオと結婚するように勧められてからの独白で、次のようなことを述べています。
 「農家の嫁になる、思ってもみないことだった。そういう生き方が私にもありうるのだというだけで不思議な感動があった。“あたしでよかったら…”いつか見た映画のように素直にそう言えたらどんなにいいだろう。でも言えなかった。自分の浮ついた田舎好きや物真似事の農作業がいっぺんに後ろめたいものになった。厳しい冬も農業の現実も知らずに“いいところですね”を連発した自分が恥ずかしかった。私には何の覚悟もできていない、それをみんなにみすかされていた。いたたまれなかった」
 この部分に重きを置いて考えれば、田舎で暮らすことの覚悟ができていなかったタエ子が、そのまま結婚した場合に田舎の辛い面を体験して、田舎も楽ではないということに気が付き、単に田舎賛歌で終わることができなくなってしまったということが予想されます。世の中、完全に善なるものというのはないのです。どんなものにも善悪の二面がある。タエ子は都会人として田舎の良い部分だけしか見なかった人間ですから、田舎の辛さや苦労を感じたあとどのような行動を取るかわかりません。最悪の場合、トシオとの仲が悪くなり、都会に戻るということも考えられるのです。
 バッドエンド説の論者たちは、このような想像をここからしています。

終わりに。ハッピーエンド;バッドエンドの二元論を越えて
 私も当初はバッドエンド説なのかなと思っていました。彼女の真剣な独白は、先に引用した部分の後、トシオとの車のなかで最後にトシオについて少し言及するのみ。田舎のことについては先の部分が最後です。そこだけをとって考えると、やはり田舎の辛さに耐えられなくなっていくことが示されているのかなとも思いました。
 ですが、自然:人口の二項対比、二元論を越えることがこの作品のテーマであるとした場合、ハッピーエンド、バッドエンドの二項対比、二元論も越えていくことが示唆されていたのではないかなと考えを変えました。世の中のものごとっていうのはそんなに簡単に言えるものではない。そういうメッセージがこの作品の根底には流れている気がします。とすると、やはり終幕にあたっても、バッドかハッピーかというわかりやすい対比ではなく、良くも悪くも、これからの未来が続いていくのだということを示していたのではないでしょうか。それを示唆させるために、小学生のタエ子は笑いではなく、また哀しい顔でもなく、ニュートラルな真顔をしたのでしょう。

終わりに。高畑監督の音楽
 この映画の見どころは徹底したリアリズムです。なかでもそのリアリズムを強固にしているのが、音楽のチョイス。音楽にはその当時の記憶とともに人間の記憶に残るものがありますが、高畑監督の音楽のチョイスは、まさしくずばっと、その当時に連れて行ってくれるものです。私は若い人間ですから、当時のことはわかりません。しかし、そこで流れている音楽を聴いてると、ああこういう時代なのだなとわからないままでも想像ができます。タエ子は、現在大学生を子に持つ母親くらいの年代の人です。ですから、丁度私の母もタエ子とほぼ同じ歳ですので、随分共感していたようです。
 特に最後のエンディングテーマが素晴らしい。私はもうこのエンディングを聴くためだけの二時間だと言ってもいいくらい、このエンディングが好きです。アマンダ・マクブルーム作詞・曲(ベット・ミドラー歌)の「The Rose」を高畑勲が日本語に訳し、都はるみが歌った「愛は花、君はその種子」という曲です。


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No title

たえこさんのお父さんの怒りの理由が解らないとの部分で私が思った事ですが。
恐らくは、子供に対して怒ると叱るの違いではないでしょうか?

わがままばかり言いやがってと叩くのは、怒っているだけですが、裸足で外に飛び出したことを諌めるのは叱っているのです。躾です。
怒るということは、怒っている(この場合は、お父さん)人の感情に任せるということだと思います。
叱るということは、その子の躾という目線にたつということだと思います。

結果は、同じ叩くという行為に結びついたかもしれないけれど、叱られた子供という者は意外に親の真意を空気で読むものじゃ無いだろうかと思います。
だから、同じ叩くなら感情任せに怒るよりも、行儀の悪い行いをしたことに対して叱った方が良いと思います。

そんな感じに私は捉えました。

No title

すみません、先程のコメントに追加なんですが。
管理任さまの分析される通り、子供に限らずだけど自分でも気に障っている根本の原因が判らずに、グズってしまうという現象はよくわかります。
だから、お父さんはその事についてはむしろ怒ってなど無いのだと思うのですよ。
誰にでもあることだと。
その意味では、非常に穏和で寛容なお父さんだと思うのです。
でも、そういうお父さんが我慢ならないのは恐らくは、女の子がはしたない行いをするという事だと思うのです。
寛容だけど、躾に厳しいというか。
それと、時代背景もあると思います。

Re: No title

ケシさん、詳細な分析のコメントありがとうございます。
そうか、なるほど怒りとしかり=しつけの違いという考えがありましたか。私はそこまで考えていなかったので、なるほどと納得しました。
たしかに、時代背景を考えると、家父長的な性格がまだ残っていた時代ですし、父の威厳というか、娘のはしたない行為に対してしかるという行動がなんとなく理解できてくるように思われます。

No title

タエ子の父親がタエ子を叩いた理由ですが、
「裸足で出てきた」というのもあると思いますが、
「“行かない”と意地を張っていたのが急に“行く”と言いだした」
というところだと私は思います。

別の場面、ヤエ子のハンドバックを“要らない”と宣言した後で
“やっぱり欲しい”と父親の肩たたきをしながら言った時、
父親は“余計な意地を張るな”ではなく、
“欲しいと言ったんだから我慢しなさい”と返していました。

おそらく、「意地を張るなら最後まで貫き通せ」という
父親なりの「男の美学」(?)があったのではないでしょうか。
タエ子のことを“ター坊”と呼ぶあたり、
もしかしたら男の子も欲しかったのかな?


最後の子供たちの表情ですが、
私には少し寂しそうな顔をしているように見えました。

寝台列車の車内でのモノローグでも
 “私にサナギの季節が再びめぐって来たからなのだろうか”
とありましたが、この映画のテーマの一つとして
 「過去の自分=“サナギ”からの卒業」
というものがあったように思います。

タエ子は27歳の今も小5の自分をどこかで引きずっていて、
なぜ過去の思い出が鮮明に思い出されていたかといえば、
そのかつての自分に現在のタエ子自身と重なるところが
あったからであり、それが旅という非日常の中で普段の自分を
相対化して見つめなおすことによって、よりハッキリと
浮かび上がっているのです。

山場のモノローグのシーンですが、
タエ子は、“私には何の覚悟もできていない”ということを
あべくんのエピソードにおけるかつての自分の偽善さと重ね、
“子供の頃からそんなだった”と言っています。
今の自分も“サナギ”のままであると痛烈に自覚したのです。

最後の引き返すという決断は、厳しい農業の現実から逃げずに
ちゃんと向き合おうというタエ子の決意を示しており、
それはすなわち“サナギの季節”からの卒業ということです。

そうなれば、今までタエ子自身のなかで引きずっていた
かつての記憶は、完全に単なる過去の思い出となり、
懐かしむことはあっても、当時の感情まで鮮明に思い出される
ことはもう無いのだと思います。つまりは「過去の自分との決別」
である、と。(その背中を押したのが他でもないかつての
タエ子自身だった、というのが面白いところです。)
それで子供たちが寂しそうな顔をしていた

― と私は解釈しましたが、如何でしょうか。
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Author:幽玄

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