『風立ちぬ』再論 宮崎駿『風立ちぬ』にみる科学技術と倫理 何故宮崎監督は引退したのか、『風立ちぬ』隠されたメッセージ

レポートとして提出したものなので、だ・である調で書いてありますが、そんなに堅苦しく思わないで読んでいただけると幸いです。
はじめに
去る2013年7月20日。ジブリ映画『風立ちぬ』が公開された。「実在の人物を初めて主人公にし、戦闘機への長年の憧れと、それと矛盾する反戦の心情を色濃く映し出」(1) した作品であると、メディアには取りざたされた。同じ記事から、この作品のごくごく簡単な概要を引用すると、「主人公で飛行機の設計技師、堀越二郎のキャラクターは、後に零戦を設計する堀越二郎(1903~82年)と文学者・堀辰雄(1904~53年)という実在した2人のエッセンスを混ぜ合わせて作り上げた」作品である。こうした作品紹介はどの新聞記事やテレビ番組を見てもされていたが、作品解釈を専門とする私から言わせると、かなり誤解を招く恐れがあるのでやめた方が良いと感じる。というのは、下敷きとされた堀辰雄の『風立ちぬ』とはかけ離れた作品であるし、また実存した堀越二郎の人生からもかけ離れているので、この作品は宮崎駿監督による新たな創作と考えたほうがいいだろう。
国文学科に所属している私の専門分野は、近現代文学である。だが、特に現代文学を扱う際には、周辺メディアへの視野が不可欠になる。映画、演劇、映像といった媒体から漫画、アニメ、ネットなどのサブカルチャー要素まで研究対象に及ぶ。ただ、あまりにも広範囲に及ぶため、いくつかの部分に的を絞るのが通例である。私の専門は近現代文学と、主にアニメーション映画が専門である。アニメーション映画を専門にしている人間にとって、当然ジブリ映画は押さえておかなければならない作品である。なので、私の専門分野であるジブリ映画を題材に、今回は特に宮崎駿の科学技術と倫理について考察したい。
なお、今回の考察にあたり、角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって 〉(2)http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6884/1/63-2-zinbun-06.pdf
を下敷きにした。そこで導かれた考察をさらに発展して、『風立ちぬ』に応用したい。この論文は非常に優れていると私は感じたが、発表されたのが2013年の2月である。同年7月に公開された『風立ちぬ』はその時点で公開されていなかった。なので、この論文が発表されたその後、宮崎駿監督の科学技術と倫理の思考が現在どのように変遷したのかを『風立ちぬ』を題材にして考察したい。
反戦映画なのか、戦争賛美映画なのかとの論争
現在の高度情報化社会においては、ネットの世界についてもその視野を広げ考察する必要があると私は感じている。最近では、NHKのニュースでさえ、一般市民の声を掬い上げるという使命のもと、何の監査もないただの感情的な声をそのまま垂れ流しにしている現状である。私は一般市民の声をニュースに反映させるという理念こそ正しいものの、その実態が非常に残念なものになっていると考えている。やはりニュースには、できるだけ事実を客観的に伝える姿勢が必要であるから、個人の意見をそのまま垂れ流しにするのはよくない。そのニュースに対してどのように市民が反応したのかという声を何らかの形でアクセスできるようにするのはまだ視聴者の主体的な行動によってのみその情報にたどり着けないという点で良いと思われるが、何の推敲もない感情的なメッセージをそのまま放送するのはニュースの本来の姿を極めて歪めてしまっていることだと思う。
この点に関しては、論旨がずれるのでここまでにしておくが、最近の作品は、ネットで批評の対象となることが多い。評論家や批評家と呼ばれた知識階級の人々が積極的にネットを使用してその評論活動を広めているからということもある。ただ、第三者の目が向けられないネット上の情報は、一方できちんとした情報を発信している人も居れば、他方であられもない嘘を振りまいている人もいる。そのような玉石混淆のなかで、よい情報を取捨選択していく力もまた問われる。こうした現状を取り巻くメディア事情を踏まえた上で、本論に入りたい。
様々なメディアでの批評の嵐は、『風立ちぬ』も例外ではなかった。この作品の批評が始まったのはテレビやラジオといったメディアよりも、ネットメディアであった。そもそもジブリ映画は、アニメーションということもあり、比較的若い世代に人気がある。ネットで言論を述べているのも若い世代であるから、以前からジブリ映画に対する様々な書き込みが見られた。公開されるやいなや、通称「ネトウヨ」と言われる、ネット上で右翼的な発言をしている人たちが、この映画について過激な批評を繰り出してきた。この映画が「戦争賛歌」だという解釈である。
また、この作品は公開前から問題視され、韓国のメディアは「(ゼロ戦を製造した)三菱重工は朝鮮人を強制連行し、労働力を搾取した」「(映画に登場する)関東大震災で朝鮮人の大虐殺があった 」(3)とかなり厳しい批評を寄せた。ただ、同記事によると公開前に批判的なコメントの多かった韓国メディアは、公開されると特に作中に問題場面が見当たらないのか特に問題は生じなかった。
『風立ちぬ』は当初、韓国や中国、アメリカといった戦争をめぐる関係国からは歴史認識を問う問題が発生すると思われたが、公開してみるとそうした問題はほとんど生じなかった。その代わり、国内からの批判が相次いだ。本論にも関わってくる指摘をしている佐藤優氏は精神科医の斉藤環氏の「宮崎駿の最大の問題が、彼の敬愛するサン=デグジュペリや宮沢賢治にも親和性が高い生命論的ファシズムである」という部分を引用し、この作品を「堀越二郎が開発する飛行機全体が生命体であり、この飛行機を制作するチーム自体が生命体であることは、このアニメから容易に読み解くことができる」(4) と述べている。宮崎駿が機械を生命体と考えていることについては私も賛成するが、詳しくは後で述べる。ただ、その考察をしたうえで、佐藤氏は「この作品において、重慶で爆撃される側の人々が完全に捨象され、爆撃機を制作する技師たちの美学に吸収されている。「風立ちぬ」を見て、爆撃される側の気持ちを追体験する人がどのくらいでてくるであろうか」と評価している。私はこの点には賛同しかねる。
さて、これまでの批評は批評としてどれもある程度理解することができるものであるが、私は宮崎駿の倫理観を考察することによって、さらにこの問題が何を示しているのか考えてみたい。先の引用で、宮崎駿が機械を生命体と考えていることが指摘された。本稿では、その宮崎駿の生命観が倫理観に直結するものとして、考察する。
宮崎駿の生命観
宮崎駿の倫理観を考察した、角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって〉は大変素晴らしい論文である。氏は論のはじめに「科学技術は文明間と密接にかかわり、また、倫理問題とも密接な関係を持っている」と述べ、その具体的な論証に入っている。氏の論は初め『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』を題材に考察が進められている。この二つの作品に共通するのは、「かつて圧倒的な科学技術力を有していた文明が滅びたという物語」と「人類を含めた生命にとっての土の重要性」(自然からの逸脱という意味)であるとして、「高度な科学技術によって生み出された者は、人類にとって有用なものばかりではなく、人類にとって脅威となるものでもあった」と一端結論づけている。だが、宮崎駿の科学技術に対する視野は映画からのみではうかがい知れない部分がある。角氏は、ナウシカが漫画版と映画とがかなり異なった展開をしていることに注意しつつさらに考察を続けている。漫画版のナウシカでは「生まれたばかりの巨神兵は恐れおののき、恐怖心からビームを吐き散らして地上のあらゆるものを破壊していく。背景に描かれたキノコ雲は、それが核爆発であることを想起させる。コミック版ではさらに、ナウシカの身体が変調をきたし、嘔吐感などの症状を呈するようになることから、巨神兵の力の源泉が原子力エネルギーであることを示唆する。巨大な力を持ちながらその精神レベルは赤子並みで、暴走をコントロールできない存在」として巨神兵は描かれている。機械はある意味では「エゴがない分、機械は人間以上に倫理的である」とし、「滅びの原因は、本質的には科学技術あるいは機械にあるのではなく、それを利用する人間にあると宮崎は考え」ていると考察している。
また角氏は宮崎駿の言葉を引用し、次のように結論づけている。宮崎駿の言葉を孫引きする。
「人間が機械を作るというのは、道具というと手の延長という感じがするけれども、機械というのは自分に対する、無制限の献身をする何かを作っているんですよね。それは生きものというとあまりにも単純だけれども、でも生きものの原型にあたるものを作っているんだという気がするんです」(宮崎駿、1996『出発点1979~1996』:547)
これに対して角氏は「宮崎にとって機械は道具以上のものであり、生命に近い存在でもある(巨神兵が生物として描かれたのには、こうした考え方が影響していたのかもしれない)」と言い換えている。また宮崎は「機械のもっている不思議さに、一種アニミズム的な力を感じ取る人間の方が好きですね」(同)と述べており、この発言はそのまま宮崎も機械に対してアニミズム的な視点を持っていると言えるだろう。
では、宮崎駿の思い描く人間と機械の関係とはどのようなものなのであろうか。角氏は次のように論文に示している。〈それどころかドーラは「また作り直しゃいいんだ」とすら言う。自分たちの手でいつでも作ることができる、そのような水準の技術こそが人間の幸福をもたらす。このようなメッセージが、これらの一連のモチーフに隠されている〉とし〈シューマッハーは、最先端の技術が必ずしも最適の技術ではなく、むしろ、相対的には劣った技術であったとしても、総合的な観点からはより優れた成果をもたらし得ると考え、「中間技術」という概念を提唱した〉という指摘をしている。
私もこの論に賛成である。氏の論はその後、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『猫の恩返し』(2002年)、『ハウルの動く城』(2004年)、『ゲド戦記』(2006年)『崖の上のポニョ』(2008年)を踏まえて宮崎駿の視点が科学技術から魔力へと移行していったと述べている。魔力にしても、科学と同じく、巨大な魔力ではなく、等身大の魔力を自分のためではなく、他人のために使用することによって救済されるというパターンを見出し、それが宮崎駿の倫理観であろうと結論づけている。
『風立ちぬ』の倫理観
角氏の見事な考察は宮崎駿が監督を務めた『崖の上のポニョ』までで終わっている。宮崎駿は巨大な科学技術と小さな科学技術への考えを深めた後、科学技術というあからさまなモチーフをやめ、魔力というアニメ向けされたモチーフへ移行していった。そこには、アニミズム的な視点が強くなったのではないかと私は考える。人工的な科学から、自然的な魔力への移行もそうであるが、宮崎駿監督の作品は徐々に西洋的な合理的な思想から離れて行っていると私は考える。というのは『崖の上のポニョ』が特に顕著だが、ポニョでは機械的な線がない。これは公開時にも話題になったが、今まで機械が登場する作品ではどうしてもリアリズムを出すために定規で引いたまっすぐな線を使用していた。その宮崎監督がポニョではまったく直線を引かなかったのである。途中「千と千尋」を通して、より日本的な東洋的なアニミズムに近づいたのであろう。
さて、では『風立ちぬ』はどうか。私は引退を表明した宮崎監督はここに自分の思想の完成をみたために引退したのだろうと考えている。
『風立ちぬ』では、飛行機のエンジン音などを人間の声で表現したという点が取沙汰された。この情報は公開前から話題になっていたが、実際に劇場で見るとかなり違和感があった。作品にあれだけこだわりを見せる宮崎監督が、いくら自分がやりたいからと言ってその違和感を残しておくはずがない。違和感を残したままでもゴーサインを出したのにはさらに深い理由があるだろう。すなわちそれは、機械の音に人間の声を与えるということによって、機械が単なる冷徹なマシーンではなく、生きた存在であるということを示したかったからである。
それに、この作品ではどの飛行機も直線的な線は少ない。かなり写実的に描写している場面はあったが、それは飛行機が格納庫に格納されている時など、生命体として眠っている時のみである。飛行機が空中を飛ぶ際の描写は、どれも飛行機が生きているかのような有機的な線で描かれ、かなり伸縮性があるように描写されていた。宮崎駿はこの作品において、やっと機械にも完全な生命を灯すことができたのである。
また表現技術の問題であるが、ジブリ映画はほとんどCGを使用しない。私はここに、宮崎駿の技術の倫理観を見ることができると考える。すなわち、CG技術というのは確かにすばらしい技術かも知れないが、問題はそうした素晴らしい技術があればいい映画ができるのかということだ。よく考えればわかることだが、あらゆる分野においてすぐれた技術があれば良いものができるのかというとそうではない。確かに善いものには、すばらしい技術が使われていることがあるが、しかしその反対はそうだとは限らない。たとえいくら技術があっても、その技術を何に使用するのか、どのように使用するのかという使用者の心がなければ意味がないのである。宮崎駿は生涯を通じて技術と機械について考えて来た。そのような人間であるからこそ、技術を乱用することなく、自分に見合った技術を使用したと考えられる。
なので、この映画が戦争賛美だという批評は的が外れていると私は考える。宮崎駿が描き出したかったのは、技術それだけでは無である。機械は少しは命を持っていると宮崎駿は考えているが、しかし、技術にしても機械にしてもそれを操るのは人間である。その使用方法を間違えればどうなるかということを問うているのであろう。
『風立ちぬ』は宮崎が、どのように機械に命が込められていくのかという過程を描いた作品であり、それを使用して戦争に向かって行った歴史に対しては何も述べていない。沈黙しているというのはただ無批判だということではなく、無言の抵抗だと考えたほうがいいだろう。
またシューマッハーの「中間技術」こそ現代のわれわれが持つべき倫理観ではないだろうか。私は原発反対の人間であるが、原発推進派の人間は「それではどのように日常生活していくのか」とか「原発をやめたらエネルギー供給ができなくなる」などと言うが、原発をやめない限り私たちに未来はないだろう。明らかにオーバーテクノロジーであり、人間が扱える技量をはるかに越えている。ジブリ映画で言うならば、巨神兵やラピュタのようなものだ。人間はともするとエゴの塊になって、自分達が一番偉い生物だと考えてしまうが、人間もこの地球を前の代から譲り受け、そして後の代に引き継がなければならないという使命を負っていることを認識しなければならない。そうすれば、今の生に終始することやめ、自然と未来のことを考えて行動するようになるだろう。
もう一つの問題。たばこ問題
近年の喫煙志向は、健康志向も相まって、相当強い働きを見せている。私自身はたばこを吸わないし吸ったこともない非喫煙者であるが、喫煙者である友人のたばこの箱などを見ているとかなり仰々しい健康被害を訴える文句が書かれているのをよく目にする。
確かにたばこは人体に悪影響を及ぼすかも知れない。よく引き出される事象としては受動喫煙が多いだろう。フィルターのある主流煙よりもフィルターのない副流煙のほうが毒性が何倍も強いという主張である。私も禁煙が叫ばれたここ⒑年で、よくそうしたデータを耳にした。だが、いくら毒性が低いからといって、毎日何本も吸っている喫煙者と、ほんの数分間副流煙を吸ってしまった受動喫煙者とどちらの肉体に毒性が強く影響するかと言われれば、よく考えれば喫煙者のほうであろう。このデータは副流煙のほうが毒性が強いということを主張しすぎるあまり、副流煙をたまたま吸ってしまった人の方が喫煙者よりもダメージを受けるように受け取られる節がある。授業ではこのようなことを学んだと思うが、ここには、極度のたばこ嫌いの思想が受け取れるだろう。
その極度のたばこ嫌いは、もはや個人の意思決定のみならず、他人の表現の自由まで侵害してきている。今回の『風立ちぬ』で問題となったのは2つの問題である。1つは先に述べた戦争問題。歴史認識をめぐる問題なので、非常に複雑化した。そして、もう一つは思わぬところから切り込まれたたばこ問題である。
〈作中に喫煙シーンが多く登場することから、禁煙を推奨する学会が「国際条約に抵触している」(5)と要望書を提出したのだ〉 。同記事によれば、〈医療関係者など全国約3千人でつくる日本禁煙学会が8月、「喫煙シーンが多く、メディアによるたばこ宣伝などを禁じた国際条約『たばこ規制枠組条約』に違反する」とし、法令順守の要望書をスタジオジブリに提出した〉とのことである。誰もがまさかそのような思わぬ伏兵から刺されるとは思っていなかった。私個人としてはもはや呆れたとしか言いようのない感情でいっぱいであるが、この論争はなかなか収まらず、ヒートアップしてきている。
同期時には、次のことが書かれている。〈主人公が結核の妻に遠慮し、外でたばこを吸おうとするが、妻の「ここで吸ってください」という一言で思い直し、手をつなぎながら紫煙をくゆらせる―という描写を問題視。同学会の宮崎恭一総務委員長は「あまりに非常識。夫婦の絆を描くにしてもほかに表現方法があるはずだ」と猛反発している〉そうであるが、私はこの宮崎氏の指摘こそ「非常識」だと考える。実際にそのようなことをしている夫婦に対して、医師としてそのような指摘をすることは問題ない。ただ、現実ではない作品の世界にまでそのたばこ嫌いの倫理を持ってきていただいては困る。このようなことになれば、何も表現できなくなってしまうからである。むしろ、作品鑑賞の視点から見れば、この場面は非常に「泣ける」場面の一つであった。結核で苦しんでいるはずの妻が、たったひと時でもそばを離れてほしくないという思いが伝わって来る感動的な場面であった。このような場面にまったくお門違いの嫌悪感を持ち込むのはナンセンスである。
ちなみにこの問題に対して喫煙文化研究会は次のように反論している。『ルパン三世』で知られる次元や、「友情」「努力」「勝利」をテーマとして掲げる『週刊少年ジャンプ』の代表的な作品『one-piece』に登場するサンジなど、マンガではたばこをくわえたキャラクターが多い。日本禁煙学会はこれらの作品には「風立ちぬ」と同様の要望書は提出していない。それに対する宮崎委員長の回答は「架空のキャラクターであれば、たばこを吸ってもゴムの体がのびても(引用者注:『ワンピースの』主人公ルフィは体がゴム質でできている)仕方ないという面はある」(同)というかなり見苦しいものである。もはやこの回答が矛盾に満ちていることは本人も承知の上だとは思うが、そうすると、宮崎氏の主張によれば『風立ちぬ』は架空、フィクションではない、ノンフィクションの作品ということになるだろう。そうした解釈は成り立たないと私は考える。
たばことQOLは確かに重要な問題ではあるが、現在たばこへの敵愾心があまりにも強く作用しすぎていると感じる。現代の日本人は傾向として、正しいものはよくわかっているのであるが、正しくないものを見付けるとよってたかって攻撃するという、非常に危険は倫理観、正義感を身に付けていると私は感じている。フィクションであると誰もがわかる、とても現実としてそのまま受け入れるとは思われない作品においてさえ、先のようなクレームがつく時代である。私は別の授業の課題で「はだしのゲン」の規制問題についても追っていたのであるが、ここ一二年の表現規制への流れはますます加速している状況にある。
確かに間違っているかもしれないが、そのささいな間違いを糾弾する正義の振り回しが私は今一番倫理的に問題なのではないかと感じている。
1 日本経済新聞 2013/07/27 朝刊40ページ 宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」、反戦の心、戦闘機に乗せて(文化)
2 角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって〉
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編 63(2), 69-82, 2013-02
3 毎日新聞 東京夕刊 2013/09/21 1頁 政治面 チェック:「風立ちぬ」公開 韓国、波立たず
4 毎日新聞 2013/11/19 エコノミスト1頁第91巻第51号通巻4316号3頁〔討論席〕佐藤優
5 産経新聞 2013/09/24 大阪夕刊 スポーツ面 【インサイド】「風立ちぬ」喫煙論争 ヒートアップ