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ジブリ映画『かぐや姫の物語』 感想とレビュー 「ここではないどこか」へ

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 はじめに
 年が明けてしまいましたが、昨年2013年はアニメーション映画がとても熱かった。特にジブリ映画が一年のうちに二作出すとあり、日本中がジブリアニメに注目したことでしょう。長年ジブリ映画を見て来た人はわかっていることですが、私を含め若い世代というのは、ジブリと言ったら宮崎駿というイメージがあまりにも大きく頭に沁みついています。そのため、ジブリの作品は全て宮崎駿がつくったんだろうと思ってしまいます。私も小さいころまではそうでした。今回、同じ年にジブリから映画が二本でるということもあり、様々なメディアで取沙汰されましたから、スタジオジブリには何人かの監督がいて、それぞれ別に仕事をしているのかということがはっきりと若い世代の人々にもわかったと思います。
 今回論じる『かぐや姫の物語』は沢山の、他のアニメーションにはなかった技法や技術が使用されていて、それだけで沢山論評が書けてしまうのですが、そうしたほかでも指摘されていることはできるだけ少なくして、主に物語面の方をメーンに論じて行こうとおもいます。


 さて、2013年夏を華々しく飾ったのが宮崎駿監督により『風立ぬ』。ジブリ映画としては初めて実在した人物を描いたと話題でしたが、ふたを開けてみればほとんど空想の人物で、実際にいた堀越二郎を下敷きに新しいキャラクターをつくったと言った方がいいでしょう。私個人としてはとても感動した名作でした。ジブリ映画は、初期のナウシカ、ラピュタが最高だと考えを堅くしていた私ですが、ベストジブリ映画は『風立ぬ』かなと心が揺れています。詳しくは以前私が書いた記事を見てください。
映画『風立ちぬ』 感想とレビュー 賛否両論を越えて
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-477.html
映画『風立ちぬ』 感想とレビュー  テーマ探求の言説を巡って
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-478.html

 『風立ぬ』公開時に『かぐや姫の物語』のコマーシャルが映画館で放映されてしました。かぐや姫と思われる女性がものすごい形相をしながら、屋敷から飛び出して、林のなかにぼろぼろになりながらかけて行くというものです。映画公開前にはかなり地上波でも放送されたので見た方が多いのではないでしょうか。
 私はあのコマーシャルを見て、すごく怖いなと感じました。まるでホラー映画のようで、まさかずっとこういう怖い映像が続く映画なのかなと思ってびっくりしたものです。
 私個人の話になりますが、ちょうど『竹取物語』を授業で扱うことになり、原文を読み返したところでした。そして、本やで出会った『かぐや姫の物語』の脚本を小説化したものも手に入れ、読んでからの映画になりました。脚本と映画とで少し異なった部分がありましたので、それについても言及したいと思います。

 『かぐや姫の物語』のテーマは何なのか?
 ジブリ映画は、かなりメッセージ性のつよい映画をずっと世に送り出してきました。ですが、その多くは宮崎作品。高畑監督の作品はどうでしょう。高畑監督が手掛けた主要作品を少し挙げて見ますと、1988年 火垂るの墓 (監督・脚本)、1991年 おもひでぽろぽろ (監督・脚本)、1994年 総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ (原作・監督・脚本)、1999年 ホーホケキョ となりの山田くん (監督・脚本)、といった具合です。
 金曜ロードショーでは、『かぐや姫の物語』公開に合わせて、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』が再放送されました。
 『火垂るの墓』は、テレビでもよく言及されたように、宮崎監督の『となりのトトロ』と同日上映をした作品です。隣町に住むお化けのお話という微妙な物語の『トトロ』の売上が心配だった会社側からの要求で、他の作品も同時上映するように言われたようですが、それに応えて火垂るの墓を作ったら、おばけに墓まで追加する気かと怒られたのだとか。結局どちらも全く異なった意味で名作となりました。トトロはいわずと知れていますが、火垂るの墓も素晴らしい名作です。外国人、特にアメリカ人はこの映画を見られないそうです。我々日本人からしても、アニメーションの映画なのにもかかわらず直視できないような映画です。『火垂るの墓』はとても難しい部分を取り扱った作品なので、いろいろと問題が生じています。特に近年はロードショー等での放送もあまり好まれないのか、再放送がぐんと減ってきていますし、また放送されたとしてもカットが多すぎて表現の自由を侵害しているというのが現状です。特に昨年のロードショーで酷かったのは、清太が死ぬ場面が完全にカットされていたこと。これは本当に酷いカットだなと私は思いました。映画の最後の最後、一番大切なシーンをカットしてしまうことによって、全く映画のイメージが変わってしまう。もはやこれは暴力以外のなにものでもありません。これを見てから、私は特にロードショーで放送される作品はきちんとレンタルしてきて観るようにしています。
 『おもひでぽろぽろ』については別に記事を割きます。『ぽんぽこ』もまた、変わった作品です。これはテーマがはっきりしているのでわかりやすい。高畑監督の作品もこうしてみると、かなりテーマ性が強い作品だと言うことができるでしょう。

 さて、「かぐや姫」はどうか。結論から申しますと、今回の記事のタイトルにもしたとおり、「ここではないどこか」への希求がテーマと言えるでしょう。「ここではないどこか」というのは実はとても大事なことなのです。この視点は主にフェミニズムから生まれて来た視点、考えです。60年代、70年代にさかんになってきてフェミニズムの運動は、次第に性差別という問題だけにとどまらず、時代を経るごとに社会的弱者や少数派言語の権利拡大などの運動に発展します。
 このような支配的なものからの解放を目指す中で、特に文学などで重要視される視点は、今ある状況ではない別の状況を想像すること、考えることです。様々な角度から抑圧された女性が何を思い、何を書いたのか、それが文学におけるジェンダーの研究ですが、そのような研究を私もしておりますと、現状から逃れるために抑圧された女性たちができた唯一のことは、現在ある状況ではない別の状況を想像することだったのです。人間は体や行動を支配することはできても、こころだけは支配できない。これがとても重要なことなのです。ジェンダー論が社会的にも認められるようになって、差別は少なくなりました。もちろん残っているという研究者の方が沢山おられるわけですが、私たち若い世代、男女雇用機会均等法が制定されてから生まれて来た世代は普段の生活においてはそれほど性差別を意識しないで生きていられる世界になりました。
 ですが、平安時代の物語である「かぐや姫』はどうでしょう。

 キーポイントになる二つの逃避
 今回の『かぐや姫』の物語は、もちろん「かぐや姫」の物語です。国文学が専攻であり、『竹取物語』を一応なりとも専門的な知識を少しは知っている人間としては、原作である『竹取物語』の主人公は竹取の翁であると言いたい。あくまであの物語は『竹取』の翁の物語であるのです。それは作者の視点が翁の側に寄り添っていることからもわかります。タイトルも『かぐや姫』ではなくて、『竹取物語』ですし、別名『竹取の翁の物語』とも言いますので、『竹取物語』の主人公は翁なのです。それが、次第におじいさんが主人公じゃちょっと面白くないということで、子供向けに改編されて「かぐや姫」が物語の主人公になってきたということなのです。
 今回の『かぐや姫の物語』は『竹取物語』解釈の新しいフェーズを見せてくれたと感じました。高畑監督はとても論理的に物事を考えるひとですし、かなりの勉強家であり、完璧主義者であることが知られています。なので、今回の映画を作る際にも、かなり古典の勉強をしているだろうことが予想されます。最後にずらずらと無情にもかぐや姫を連れて行ってしまう天人達も、きちんと絵巻物を研究しての表現であるとテレビで放送していました。『竹取物語』はやはり日本最古の物語ということもあり、解釈が多数存在しています。それらを比較研究するたけでも立派な論文になりますが、いくつかの解釈ルートがあるのもまた事実です。今回映画を見て思ったのは、おそらくそうした過去の解釈を高畑監督はきちんと踏まえているなと感じたことと、この作品のテーマがそうしたフェミニズム的な視点から、こころの解放なのだなということです。
 『竹取物語』を扱ったこともあり、丁度タイムリーだったので、映画館には私の国文学の友人と教授を連れて鑑賞に行きました。作品解釈を専門に勉強してきた人間十人程で行きましたので、その次の授業ではかっぱつに議論したものですが、そこで解釈がわかれた部分があります。それは、映画でのかぐや姫の逃避シーンです。

 一回目の逃避
 一回目の逃避は、かぐや姫が大人になったことを祝う儀式、裳着と言われるそうですが、酒に酔った京の人々が、翁が成金であることを低く見て、かぐや姫のことを直接見てやろうと言う暴挙に出る場面です。当時の貴族の女性は家族以外の男性には顔を見せません。顔を見せることは結婚することを意味しますので、御簾で囲って、襖をたてて、顔を隠したのです。そういうところに入ってきてしまう男性というのは『源氏物語』などにも描かれていますが、そうすると女性は手にある扇で顔を隠し、それを奪われたら自慢の長い髪で顔を隠すのです。そのくらい直接見るという行為は今よりも格段に意味が重かったのです。
 ですからかぐや姫にとっては、あのようにずかずかと入って来て見ようとする男性陣の行為は極めて屈辱的な行為だったということを前提にしておいたほうがいいでしょう。かぐや姫はこんな場所には居たくないと思い、何もかも放り投げて飛び出していきます。あのコマーシャルで流れていたホラーシーンです。京の町を駆けていくかぐや姫の十二単がばらばらと宙に舞うのはとても美しいシーンの一つでもあります。
 ただ、走り抜けた最後には、小さな妖精が現れてきてかぐや姫を元の場所に戻してしまいます。この場面をどう解釈するかということでまず揉めました。夢だったのか、夢でないのか。あるいは夢と一口にいってもどのようなレベルでの夢なのかといった感じです。私の解釈は、並行世界と言ってもいいですが、一回はあり得たことでしょう。一度確かに姫はあの場から逃げて走ったのです。しかし、かぐや姫がなぜこの世に居るのかということをよく思い起こさなければなりません。それは、彼女の犯した罪の罰を支払うために来ているのです。ですから、この世での辛いことから逃げてはいけません。天人たちにとっては罰なのですから、きちんとその罰を履行してもらわなければならないわけです。あの小さな妖精は、その点からも月からの使者、月の力の働いた妖精であることがわかります。と、思い出してみればあの場面はかぐや姫を照らす満点の月が極めて大きく表現された場面だったことにも気が付くわけで、やはり月からの監視、月から逃げることができないということが浮かび上がってこないでしょうか。
なので、私は一度はあのように逃げたのですが、しかし逃げることを赦されないかぐや姫は、月の力によって逃げる直前の時間にまで戻されたのだと考えます。私は夢というよりは、一度は起こった現実だけれども、強制的に時間を越えて連れ戻されたのだと考えます。だから夢か現実かで言えば、現実ということになります。

 二回目の逃避
 二度目の逃避をどこにもってくるかというのも難しい。帝から逃げる場面がありました。身体が消えてしまう場面です。確かにあれも逃避と言えば逃避である。かぐや姫が初めて、ここに居たくないと願ってしまった重要な場面であります。
 あの場面についてはいろいろとツッコミどころも多くて、なぜ帝があのような顔をしているのかということがもうおかしてくしょうがない。僕はいくらなんでもネタに走り過ぎたろうと、少し批判的に見ています。帝がいかにすごいかというのはあの顎でしか表現できなかったと友達は冗談半分に言っていましたが・・・。
 一応これも逃避としておきますが、私が重要視しているのは最後の逃避。捨丸兄ちゃんと出会ってから、天空を舞い上がる場面です。この場面が一番もめました。多くの友人があの場面は余計である、あの場面さえなければよかった、等々のかなり厳しい評価をしました。ところが、私は反対にあの場面で一番ぐっときてしまったのです。
 この映画で最も重要なのは、映像の表現です。高畑監督は昨今のアニメーション映画の表現に意義を申し立てていたそう。CG技術が進む中、背景は実写のように美しいのにもかかわらず、キャラクターだけセル画のようなままで浮いてしまっているという現象は、特にここ数年顕著でした。アニメーション映画を研究している者として、細田守や新海誠などの映画監督を私は応援しているのですが、『おおかみこどものあめとゆき』や『言の葉の庭』などは、背景が美しすぎる分、キャラクターだけセル画のままのようでとてもミスマッチな感じがしました。2012年後期に公開された『009 RE:CYBORG』は、新しいCG技術を駆使して、CGで作った映像をとても複雑な過程を経てできるだけ日本人が慣れて来たセル画のように見せるという手法で注目を浴びました。ただ、まだまだ研究の余地がある表現です。
 そのようなCGをいかにセル画に似せるかという時代のなか、高畑監督はほとんどCGを使わずに絵巻物がそのまま動いているかのような表現を出すために苦労したのです。制作に8年間もかかったというのは、一枚一枚原画を丁寧に書きあげていったからです。どうしても動いているものと動かないものの画面上での差異というものを取り除きたかったのでしょう。
 あの飛翔する場面は、今迄ずっと絵巻物のようにほとんど動きらしい動きもない映像の中で、一番の盛り上がりだと私は思ったのです。初めてCGっぽい映像が出てきましたし、ジブリっぽい動きだなと感じました。本来漫画やアニメというの動きを求めるものです。最近は日常ほのぼの系といったものなどがあるので、そうでもなくなってきましたが。特にジブリ映画というのは縦の動きが激しいアニメーションとしてアニメ映画では解釈されてきました。なので、縦の動きに強いジブリがあの場面にかけた思いというのは並々ならぬものだったと私は思ったわけです。それに徹底したリアリズムのなかで、姫の成長等不可思議なことはあるにはありましたが、本格的に現実離れした飛ぶという技を使用したのはあの場面が最初です。
 今迄の様々な自分を縛るものから一気に解放されて、捨て丸兄ちゃんと大空を飛ぶ。やはりここが一番の盛り上がりだと私は思うのですが・・・。あまりにも唐突すぎたというのが批評の対象になったのでしょうか。
 
 姫が犯した罪と罰
 しかし、残念なことに感動的な飛翔のシーンも、夢だったことになってしまいます。あの場面も私は現実であったのだと解釈しています。一度は確かに飛翔したのです。この飛翔という人間離れした行為ができたのは、すでに月に帰るという約束をして、月の力をある程度使用することができたからだと私は考えています。月に帰りたいと願わなければまだこれだけの力を使用できなかったことでしょう。ですが、やはり罰は罰。捨て丸とのあり得たかもしれない未来は、夢見ることはできても現実では実現できない。ふたたび月の妖精たちがやってきて、ここではなかった未来に分岐する前に戻してしまったのです。
 さて、姫が犯した罪と罰という衝撃的な文句が予告編では象徴的に流されていました。確かに原作の『竹取物語』にもかぐや姫が罪を犯してこの世に流罪となったことが記されています。なので、そこに注目して、それを明かしてくれるだろうと思って劇場に足を運んだ人は多かったでしょう。私も少しは、高畑監督の解釈ではどのような罪を犯したのかということを言及してくれるだろうと思って観に行きました。ところが、二時間ほどの映画のなかでは、かぐや姫が一体どんな罪を犯したのかということが語られません。多くの人がこの映画に、どことなく肩透かしをくらったと言うのは恐らくここに原因があるのではないでしょうか。
 さて、原作『竹取物語』の罪は何だったのかという研究は、様々な論文で言及されています。多くは婚姻関係の問題だったのではないかと指摘されています。月の世界は感情があってはならない清浄な世界ですから、穢れでもある恋や新しい生というものがあってはこまるのです。月の世界は不老不死の世界ですから、人工も増えてはならないはず。なので、恋愛や出産自体がタブーとなり、それを犯したから罰せられたのだということです。
 ただ、高畑監督の解釈はどうもそうではないのではないかと私は感じています。脚本をノベライズ化したものには、かぐや姫が興味を持ったのが罪だということが書かれています。月の世界には、かぐや姫のようにかつて地球に送られて帰ってきた人が居たのだと書いてあります。そして、その人が地上の歌、あの子供たちが唄う、「あめ、つち、けもの~」という歌を唄っているわけです。それをかぐや姫は聞いて覚えていたので、地上で唄えたということです。ですが、その歌を習った人はきっともう少し時代が前の人でしょうから、少し歌が異なっている。これは脚本では書かれているのですが、映画ではわからなかった。映画だけを見た限りにおいてはそういう解釈は生まれないようになっていた。隠していたといってもいいかもしれません。
 脚本では、月の世界で感情が無いにもかかわらず、涙を流しながら地上の歌を唄っている天人の女性に興味を持ってしまったことが罪になったと書かれてあります。が、映画ではそのような解釈にはなっていないのではないでしょうか。より抽象的に、ものごとに興味を持つこと自体が罪だったと考えているように思われます。あめ、つち、けもの・・・、この世に存在するありとあらゆるもの。それらに心をやること自体が月の世界の住人にとっては罪なのです。

 終わりに
 映像を作った後から声を録音するアフレコという手法ではなく、音を先に撮って、それに映像を合わせると言うプレスコという手法を今回高畑監督は用いました。そのため、昨年亡くなった地井武男さんの声が聴けたというわけです。地井さんの声が聴けるというだけで、かなり涙ものなのですが、地井さんは生前、高畑監督にこの映画は今の世の中を否定する映画なのではないかと心配になって相談したそうです。高畑監督はその問いには否定しています。
 天人がかぐや姫を迎えに来る場面は極めてショッキングでした。まったく空気を読まないあの音楽。他の場面がずっと抑えられていたぶん、あの場面のいきなり感は度胆をぬきます。人のこころなど全く頓着しない、こころない人達です。
映画評論家の宇多丸氏は、YouTubeで高畑監督の表現の仕方は弁証的だと述べています。単に最初から答えがあって、いくら不老不死といえども感情がなければね、というテーマを最初から示されては興ざめです。そのようなテーマは示さない。ただただ弁証法的に、あめつちけものと生きていくかぐや姫の姿を描き、最後にそれとは異なった感情のない世界の住人を連れてくる。そして証明するのです。
 苦しくも愛おしい生というものが提示される。やはりこの映画は生を肯定しているのだと思います。
 しかし、この映画を見て、ああよかった、すっきりした、生きる希望が湧いたとはならない。これが高畑監督の悪く、そして良いところです。『おもひでぽろぽろ』についても、ラストは最大の謎として今でも議論が続けられています。『かぐや姫の物語』もとてもハッピーエンドとは言えない。一応生を肯定はしていても、ハッピーかバッドかと言われれば、バッドエンドでしょう。かぐや姫は結局感情やこころを失ってしまったわけですから。宇多丸氏はエンディングであの曲が流れなければ、きっと深い絶望感に襲われただろうと述べています。私もそう思います。なんとか二階堂和美の透き通った歌声で「いのちの記憶」が流れるために、なんとなくこころが洗われたように感じられているだけです。
 高畑監督の映画は、深く自分たちについて反省させられるようにできているのです。ですので、この映画を見ていると反省しなければならない部分が出てくる。地井さんが声を担当した、翁なんかもまさしく観客に反省を促す装置になっている。田舎者が金を持ったからといって無理に上品ぶってみたり、貴族たちの仲間になろうとしてみたり。そして貴族たちも、いちおう立場上偉いということが決まっているから偉いだけであって、人間としてはどの人物も酷い人ばかり。そういう人間のエゴを隠さずに描く。
 かぐや姫は、結局彼女自身と、まわりの人々によって月に帰らなければならなくなってしまったのです。かぐや姫も、まわりの人間も誰も望んで居なくても。そしてそういうだれも望んでいないことに物事がすすんでしまうということは現実にも多々あるのです。そうした部分に気づきつつ、やめられない。
 「ここではないどこか」を希求することはだれでもできます。でも、その希求を希求だけに留めずに、行動に移してかなければならない。そうでないとかぐや姫のようになってしまう。けっしてハッピーでもなんでもない終わりだけれど、何となく生きて行かなければならないのかなと観終わって思うのは、こうしたメッセージをこころで受け取ったからではないでしょうか。

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こんばんは。

これほど分析し、文字を書き連ねて言い表すことができていらっしゃることに驚嘆いたしました。

Re: こんばんは。

hajimeさん、御久し振りです。
いや、こんなのただの駄文です。もう少しうまくまとめられるよう努力しなければいけません。読む人の苦痛にならぬよう、まとめるつもりでしたが、語りたいことが沢山あるとこうなってしまいますね・・・とほほ

No title

勉強になります。

石野さんの「おもひでぽろぽろ」に関する別の記事で、テーマとして
「二元論の超越」というのを挙げていらっしゃいましたが、
この映画も同じ様な所があるのかな…というような気がしました。

気になったのが、木地師の子供等が歌っていた
「鳥 虫 けもの 草木 花」という唄なのですが、
かぐや姫に対する求婚のエピソードで貴公子達が挙げ、また持参した
「燕の子安貝」「竜の首の玉」「火鼠の皮衣」「蓬莱の玉の枝」「蓮華の花」に
歌詞が全て対応しているという点です。
自然への賛美を歌っているようで、後の都会生活における象徴的なシーンへの
暗喩が込められている、つまり自然は~、都会は~という二元論を越え、
生きる喜びや苦悩をもまとめて「地球賛歌」として
歌い上げているように思いました。


映画自体はそのような楽観的なものではなく、
社会生活における苦悩、過去(特に子供時代)への憧憬、
「生きている手応え」の喪失など、
かぐや姫の生き様全てを現代の人々に対する鋭い風刺としつつ
哲学的な意味での人間の在り方や生きる姿勢を問うたようで、
厳しくも突き動かされるような感じがあり、個人的には物凄い名作を
見た気がしました。

長々と失礼しました。新しい記事 お待ちしています。
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