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言葉を大切に  「頭のいい人」・「悪い人」という言葉を例に

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 最近読んだ本で、林望先生の本があります。はやしのぞむと読みますが、世間では音読みしてリンボウ先生という愛称で親しまれている方です。作家であり、大学教授であり、書誌学者であり、と様々な肩書きを持っているかたで、『イギリスはおいしい』などの代表作があります。斉藤孝先生のように、ひろく日本語についての啓蒙をしている方と言っていいでしょう。
 私は『日本語の磨きかた』(PHP新書)を先日読みました。この本もかなり刺激的で面白い、日本語についてよく考えさせられる本でした。その本を紹介してもいいのですが、今回は私なりのエッセイを書こうと思います。

 リンボウ先生の著作に触れて日本語にさらに敏感になっていたということもありましたが、先日友人の口からこんなことばが出てびっくりしました。「落語家は頭が悪い人でもできるそうだね」。私は唖然としてしまいました。ちょうど日本の伝統文藝、歌舞伎や狂言、能、講談などについて話が盛り上がっていた酒の席だったのですが、落語家の話になった際に、いきなりそのような言葉がでてきたのです。私は、ああ、またそのようなものいいをすると、少しがっかりしました。しかしもっとがっかりしたのは、この発言をした友人が私と同じ、国文学科に所属し、言葉については人一倍注意を払って使用しなければならない立場にあった人間だということです。言葉に対して人一倍注意を払っているはずの国文学科の学生でもそのようなものいいをするのかと残念になったわけです。
 それに私は言いました。君の頭の悪いっていうのはどういうレベルのものを指示しているんだいと。例えばそれは落語家を連れてきてセンター試験でもトエックでも受けさせてみたら大変な点数をとるだろう。彼等にはそういう知識はないだろうからね。明石家さんまなんて人も、きっとそういうことになるだろうけど、しかし彼の話術は日本一といってもいいくらいの天才的なものだね。反対に、世間一般には頭が良いとされている東大の教授なんかを連れてきて落語をやらせてごらんよ。きっと恐ろしくつまらない落語をやってくれるだろう。頭のいい、悪いというのは、一体何をもってして云うんだい?とこう切り返したわけです。
 それでその友人は、試験とかがオール1とかだった人でも落語家はできるって聞いたんだともう少し正確に言い直しました。これで議論が進みます。彼が言った頭の悪い人でも落語家になれるというのは、単に受験勉強的な知識を指示していただけなのです。

 頭のいい・悪いという言葉は実に簡単で、使用がってもよく、我々も小さいころから使用している言葉です。しかし、実際にその言葉が一体どのような様子や状況、概念のことを指示しているのかということになると途端に誰も答えられなくなる。
 頭がいいとはどういうことだろうかと問いを立てたとする。様々な回答が飛び交います。ある哲学の授業でこの質問が出された時には、最初に知識が多いことという答えが出ました。しかしそうでしょうか。その教授はこう返しました。僕が知っていなそうな分野で君のとても詳しい分野について今ちょっと話してみてよ。それでその生徒は自分が詳しいマイナーなバンドについての知識を見事披露してくれました。もちろん先生はそんなこと全然知りません。知識が頭の良し悪しを決めるのかというと、そうではないということです。いくら知識があっても頭の悪い人は沢山います。知識の量は確かに多少なりとも頭のよしあしに影響はするでしょう。考えるためにはある程度の知識が必要です。ですから、全く関係がないとは言えませんが、しかしそれが全てだとも言えません。
 次に答えたのは、トライアンドエラーが上手い人という答えです。どこの学科の人でしょうか、そのような単語が出てくるのはなかなかすごいなと感じました。心理学科ですかね。トライアンドエラーというのは云わば要領の良さといったものです。試行錯誤して、ものごとをクリアしていくということ。失敗から学び、同じ轍を踏まずして、成功に導いていくことです。なるほど、これは確かに頭が良さそうだと私も思いました。しかしその教授はこう切り返しました。例えば東大で教えている教授、彼らが一応頭が良いひとだということにすると、東大の教授なんていうのはトライアンドエラーはあまりしなかった人達だと。そもそもトライをあまりしない人達だというのです。ふむ、確かにそうかもしれない。特に明確な答えを出さないまま、その先生は頭の良い、悪いという話を切り上げてしまったので、後は私たちが勝手に考えるしかありません。
 東大の教授というのは、確かに自分の専門分野ではあれこれ試行錯誤して論文や本を書いているかもしれませんが、あまりエラーというものを出さないタイプの人間でしょう。ほぼ成功だけをしてきた人間と言えるかもしれません。
それでは論理的な思考ができる人かなと私は思いました。ものごとを論理的に考える力。これがあれば、例えば何か問題が生じた際に、その問題が初めての問題で答えなどない場合には役に立ちます。論理的に考える力があれば、どのような問題に対しても考えることができるわけです。これは一応の頭のよさになるかなと私個人は思っているのですが、しかしそれも全てではない。
 東大出身の人が知識量もあり、論理的思考にすぐれている場合でも、ちょっと普通ならそういう行動や言動にはならないよねということはしばしばあります。世の中にも東大の学生は使えないので取りたくないといった趣旨が書かれた本はわんさかあります。では、頭の良さとは何なのか。
 最近よく使われたKYという言葉。空気読める・読めないという言葉があります。その場の雰囲気を感じ取ることができて、この場ではこういうふうに行動しなければならないとか、ここではこれをしていいとかそういう場にあった適切な行動ができるという考えです。確かに知識が少なくて、論理的に考えることが苦手であっても、その場の雰囲気がわかっていれば、その場に応じた話題を提供したりすることができます。それを人はあの人はよくわかっているとか、頭のいいひとだとかいいこそすれ、頭の悪いひとだなとは言わないでしょう。でもそれが全てかと言うとそうでもない。

 見も蓋もないことを述べてしまえば、頭がよい・悪いというのは結局のところ定義などできないのだろうと私は思います。知識、試行錯誤、論理力、環境適応能力、様々な視点から見ることは可能です。世の中で頭がいいなと思われる人は、大概このどれも持ち合わせていて、総合的に頭がいいと言われているのでしょう。
 自分の話で恐縮なのですが、私はこのようにレポートや論文を書く、文章を論理的に書くということが人よりも得意なので、学校では一応成績優秀者として、頭がいいレッテルを貼られています。しかし、これが困ったもので、私自身は本当に自分は馬鹿な人間だなと思っているのです。確かにレポートを書くのは得意ですが、人間として本当にいかんなと思う。いわゆるトライアンドエラーであれば、臆病な性格ですからトライをしない。本当にダメな人間だなといつも思っている。知識面で言えば、本当に恥ずかしいのですが、日本の都道府県全部書け、県庁所在地を言ってみろなんていわれたらできない。暗記が本当に苦手で、英語もぼろぼろ。人間には得手不得手があるものなのです。
頭がいいと言っても決して一重にはそのようなことは言えない。頭が悪いというのもそう。頭の悪い人でも落語家になれるではなくて、知識を暗記することが苦手な人でも落語家になれると言わなければなりません。

 今回はたまたま頭がいい、悪いという言葉がわかりやすかったので、この言葉を例に出しましたが、他にもこうしたあいまいな言葉を使用して平気で議論をしていることが多々あります。中学や高校の授業で議論をしたり、あるいは友達どうしで少し議論っぽくなってきた際に、なんだか全然議論がかみ合わずにすすまないのは、このことが原因としてあるわけだと思います。もちろん、まだ論理的に考えることや知識の量が圧倒的に足りないということも要因としてはありますが、相手の使用している言葉と、自分の使用している言葉が同じではないということが原因なのではないでしょうか。
 学園祭は皆で楽しくやったらいいと思います、なんてことが議題にあがって、そうだそうだなんてことになる。だけれども、何をもって楽しいとするのかというのは、もうそれこそ定義づけなんてできない。だから、できるだけ具体的に、よく詳しくみんなが同じイメージを共有できるように言葉の使用というのは注意しないといけないのです。それで、そういう場にいる先生もなんだか全然不干渉で、そうした言葉の使い方をちっとも注意しない。やはり我々は言葉だけでコミュニケーションをとるわけではありませんが、言葉が主要なツールになっているのは事実です。その言葉をいかに大切に使用するか、ということがこれから求められるでしょう。そして、大人になっている私たちはそのような指導を受けませんから、自分で改善していかなければなりません。その言葉をどのような意味で使用しているのか、ということを答えられるようにしてから使用するか、時にはこういう意味でこの言葉を使用しているんだよと説明を交えながら言葉をつかっていかなければなりません。
 ただ、なんでもはっきり言えばいいってもんでもないですよ。小説なんかは二義的にも三義的にもとれたほうがいい。恋人との駆け引きだって、どういう意味なんだろうとわからないような言葉を使うことも多々あります。ただ、そういう場合でもしっかりとこの言葉にはどのような意味があって、どちらにもとれるようにするにはどうしたらよいのかということを考えなければなりません。なので、言葉と真剣に向き合うというのは誰でも、いつでも必要になってくることなのです。
 言葉を大切にすることは、人間の感情や心の細やかな動きまで大切になることに繋がります。言葉を大切にしつつ、人間のこころを大切にして、豊かなコミュニケーションを図っていきたいものです。

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生活言語におけるなにかについて言葉の意味を定義しろ、といわれたら、

「そこには家族的類似性がありますから」と答えて逃げることにしてます。

ウィトゲンシュタイン先生は天才だなあ。
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