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敗者の歌手泉谷しげる レコード大賞と紅白のステージを観て想うこと~1~

 新年あけましておめでとうございます。この記事が今年初の記事となります。様々な方からご挨拶を頂き、真にありがとうございます。本来であれば一つ一つにきちんとご返事差し上げるのが礼儀ですが、ここでの挨拶を以て代わりとさせていただきたく思います。どうか本年もよろしくお願い申し上げます。





 さて、新年を迎えたわけですが、これからの一年を歩み進んでいくにあたり、2013年の最後を締めくくった出来事を考えて、どのようにしていくのかを熟考する必要があると私は感じました。それは、今回のタイトルでもありますように、泉谷しげる氏をめぐることです。
 先ず私の立場を明確にしておきますと、私は泉谷氏のパフォーマンスにおおむね賛成、賛同しているということです。
今回の記事で論じたいのは、一つは、泉谷しげる氏のレコード大賞のパフォーマンスに対するネット上の反応について、もう一つは紅白歌合戦のパフォーマンスに対してです。

 2013年12月30日、毎年の恒例番組である日本レコード大賞がTBS東京放送ホールディングスより放映されました。私はこの中継を生で鑑賞しつつ、Twitterでの反応を観ていました。泉谷しげる氏は、女優である大竹しのぶとともに登場。昨年制作したニューアルバム「昭和の歌よありがとう」に収録された、『黒の舟歌』を唄いました。このアルバムにはタイトル通り泉谷氏の一貫した、昭和の名曲へ対する感謝の気持ちが見て取れると思います。レコード大賞のパフォーマンス時にも、彼は一貫していました。曲はほぼすべて大竹しのぶが絶唱。素晴らしく力強い歌声を披露しましたが、それに対して泉谷氏は声も小さく、ネット上では「聞こえない」「歌う気はあるのか」といった批判が相次ぎました。曲が終わり、泉谷氏は説明を始めます。「この女(大竹しのぶ)はね、なんかバラエティ番組でけらけら笑っちゃってるだけの女になっちゃってるから、やっぱり物凄い女なんだと、やっぱ俺(泉谷しげる)こういうねタイプの男はってのはね女をいかに美しく輝かしせるのが目的だから」と述べました。この説明により、なぜ彼が歌を小声で唄っていたのかということがわかります。今回は泉谷しげる氏が制作したアルバムで「優秀アルバム賞」を受賞しての参加ということになったわけですが、しかし彼はその一貫した姿勢を崩さないために、自分ではあまり歌わずに大竹しのぶを輝かせることに終始したのです。

 ただ問題となったのは、彼の態度です。曲が終わると「カモン、早くこい」と司会者に命令。「この後打ち上げがあるんだから早く帰せ」や捨て台詞の「今日はこのくらいにしておいてやるよ」が少々目につきました。私も番組を見ながら少し言い過ぎかなとも感じたので、ネット上ではどのように反応がされているのか確認してみました。その結果「泉谷しげる」とキーワード検索したツイートが物凄い量流れてきまんした。その内容は主に二つ。一つは泉谷氏を擁護するものと、多くは彼を痛烈に批判するものです。
 私はこの状況を見ていてこういうのが現状なのかと感じました。私も含めてですが、思ったことをTwitterにすぐ呟いてしまうことの愚かさというものを感じました。ですがそれ以上に、泉谷氏を批判する言葉の汚いこと。「やる気あるのかクソじじい」「死ね」「老害」「偏屈じじい」などという言葉が行き交いました。ここで私が述べたいのは、一つはそういうことをすぐに呟いてしまうことの問題なのですが、それよりもそうしたつぶやきをしている人間の傾向です。いくつかそうした酷いツイートをしたアカウントを追ってみたのですが、やはり若い人が多い。私も先日21になったばかりですから、若い人間です。こういう若いとか若くないとか世代でくくって議論をすると、他の世代を批判することがひどく内容空疎のことになってしまいますが、同世代を批評するのならばまだ感覚も近いはずですし、ある程度有意義な批評ができるかと思い、します。

 Twitterをやっている人間自体がスマートフォンなどを持っている若い世代に多いことは確かです。なので、そうしたつぶやきをしてしまうのは若い世代になるのは必然と言えば必然なのですが、特に汚い言葉を使用しての批判をしていたのは十代、二十代と思われるアカウントの人が多かったように見受けられます。
 ここで私が述べたいのは、本当に最近の若い人間の心の狭さです。私自身他人のことを言えるはずもありませんが、しかし自己への反省も込めて批評させていただきますと、とにかく心が狭くなりました。泉谷しげる氏があのようなパフォーマンスを行ったことに対して、それがゆるせないのです。あのパフォーマンスをやっただけで「死」ななければならないのです。若者がこのような言葉を使ってしまうのには、一つには語彙の少なさがあります。ゲームやケータイに囲まれて育った私の世代は、本などの活字媒体に触れることが少なく育ちました。そのため、人間が通常の言語活動をする際に使用する基本語彙、基礎語彙といったものが圧倒的に不足しているのです。語彙や言葉が不足するとどうなるか。自分の知っている数少ない言葉を多く使用しなければなりません。少ない語彙を補うために同じ言葉を何度も使用するのですから、言葉ひとつひとつの価値が下がります。言葉のインフラのようなものです。同じ言葉を使用しすぎてしまって、その言葉の重みがなくなってしまうのです。そうすると、少し批評したいだけなのに、「本当に」と前につけたり(これは私もしてしまいます)、もっと言葉が崩れれば「マジで」「ガチで」というような装飾語が付いてきます。そのようなことは例えば友達同士の会話であれば、本当かどうかなどということはわかります。しかし、それが本当であるのだ、マジなんだということを付けなければ説得力を増せないのです。それもそのはず、「マジで超ウケルんですけど」しか使用するボキャプラリーがないのですから、本当に本当なのか使っている当人たちにももはやわかりません。
 そのように語彙が少なく、自分の気持ちを表現する言葉が足りない。そのため極端な表現に走り、自分の表現したいことを何とか主張しようとすると、すぐに「死ね」などといった命に関わることまで口にしなければならなくなるのです。人間の死というのは重いものです。そんな簡単に口にして良いものではありません。私はこのように泉谷氏のパフォーマンスに対してそのような反応しかできない人間に対して深い哀しみを感じました。

 また、使用している言葉もそうですが、態度も問題だと思います。私は批評には批評をする際のルールがあると思います。それは決闘のルールに似ているかもしれません。批評はできればしないほうがいいことでしょう。円満に平和に暮らせればそれは一番です。しかし現実問題としてそうはいかない。悪いところは悪いと言わねばならぬところが出てくる。そこで批評が登場するわけですが、例えばただ「ダメだ」と繰り返すのでは批評にはなりません。それは文句です。文句ばかり言っていても何もなりません。もし、泉谷しげる氏のパフォーマンスを観て、それに対してそうではいけないと思ったならば、どこがいけなかったのか、どのようにいけなかったのか、なぜいけないと自分は思うのか、そしてできればどうすれば良くなると思うか、こうした手順を踏まなければならないと思います。ただただ罵倒しているだけではいけないのです。
 現代のネットという匿名性のなか、自分の言葉に責任を持たなくてもよいというアナーキーな環境では、人間は何も省みることなく他人を罵倒しあっています。私には2ちゃんねるはとても見られません。あそこは人間のもっとも醜い部分を結晶化させたような場所です。私は匿名性のなかでも人がきちんと人であり、何かに対して異議申し立てをする際にも相手が人であるとして、最低限の人としての尊厳を守るべきだと思います。

 そしてレコード大賞の泉谷氏への反応をみていて思ったことの最後は、現代人の人を認める力の衰退です。これは今日に始まった問題ではありませんが、今回の出来事が再び私にそのことを思い起させたので少し論じます。私は友人知人などと普段生活していても、とにかく相手を認めることができなくなってきているなと思います。それは同世代の人間に対してもそうなのですが、他の世代に対しての認める力というのがもはや皆無なのではないかと驚くほどです。私たち現代人は、核家族化し、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らすという時間を所有していない世代です。おじいちゃん子であった私は、祖父とは今でもよく話しますし、一人暮らしをしている祖父の家を訪ねて手伝いなどもします。なので、老人の時間というものがごくごく僅かですが、ほんの少しは分かるのです。私が子供のころの祖父と比べると、ここ数年は特に体の筋肉が衰退してきて、杖をもってとてもゆっくり歩きます。お茶を淹れたりする際にも手つきがだんだん怪しくなってきましたし、動作も緩慢です。さて、いざ視点を家から出て町へ持っていきますと、老人のリズム、時間というものに対して、現代の社会というのは物凄い目の回る速さで回っています。車がビュービュー走り、信号も速くかわる。このような環境で老人が暮らすのは無理です。例えば町をあるいている老人がいるとします。道が狭く、真ん中をよろよろと歩いているとします。現代の若者、それは私の友人でも、そうした人の後ろに立つと瞬間的にかっときてしまうのです。老人がとぼとぼ歩いているのが邪魔でしょうがない。自分の時間がそれによってほんの数秒でも削られるのが我慢ならない。
 さて、そうした精神状態が正常だと言えるのでしょうか。今、例として、老人の時間と我々若者の時間が違うという話をしました。ですが、これは他のことにも言えることです。今の問題は、我々は老人の時間を理解することができないということを示しているのです。ここではわかりやすくするために時間にのみ絞って述べましたが、我々はほぼ自分たちと異なる世代の感覚や価値観、考え方などというあらゆるものを理解することがもはやできなくなってきています。そしてわからないものに対して、人間が取る態度は、興味をもつかそれを排除しようとするかの二つに大抵分かれますが、多くは後者です。もはや異なった世代間の交流というのが不可能になっているくらい、私は知人友人を見ていましても、他者、他世代と交流をはかろう、理解しようという姿勢が無くなっているのを感じます。

 問題を戻します。確かに泉谷しげる氏の態度は大変悪いものでした。私も少しいらっとしました。ですが、それはパフォーマンスなんだ、キレ芸なんだと許容することもできるわけです。あるいはそう解釈しなくても、世の中には変なおじさんもいるんだなと認めてあげることもできるのです。もし、泉谷氏の言動が気に食わなければ、先に提示したように、どうして駄目なのかということを述べることもできます。ですが、まったく自分が理解できないから、あるいは目障りだから、気に障ったからという理由で、「死ね」という言葉に結びついてしまうほどの短絡的な回路ではだめだと思います。私はとにかく、そうした短絡的な暴力が少なくなるよう自分にも周りにも働きかけていくことが重要だなと思います。

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