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毎日書道展の感想 ―シロとクロ―

 シロとクロ

 はじめに
 私が毎日書道展へ行ったのは夏休みが始まる前、24日のことだった。私は美術部に所属しているので、よく美術館に足を運ぶ。書道展へ行くのはほぼ初めてであったが、六本木の新国立博物館へは足しげく通っている場所だった。高校生の頃から新国立美術館は私の美術の先生の絵が飾られたりしていたのでよく行っていたのだ。日本を代表する建築家、黒川紀章氏のことが思い出される。国立新美術館のあのうねるようなガラス張りの建物は彼が設計したものだ。都知事選が思い起こされる。彼は最後に何を思ったのか、都知事選に出馬したのだ。しかし、都知事選が終わるや否や、まるでそれに合わせていたかのように彼もまた没した。岡本太郎とまではいかないまでも、彼の人生も最後は華々しかったので、芸術家とはかくのごときものかと思ったものである。
 もう少し私の話をさせて頂くと、私は高校の頃から美術部に所属している。子供のころから絵を描いたり何かを創ったりするのが好きだった。それで高校からはきちんとした先生のもとで教えを受けたのである。一応新聞に名前が載るくらいの賞は得たことがある。絵画と写真においてだ。私は絵画も描けば、写真も撮るし、彫刻や立体造形も行う。それらをミックスして、表現の仕方というメディアに縛られるのが嫌なのだ。大学に入ってからは、文字にも興味を持ち始めた。特に古文書などを読んでいると、全然私は文字の読解が出来ないのであるが、単純に美しいと思った。そして大学では書道的な要素を取り入れた作品も制作している。絵画のなかに墨を入れたりしている。私はアクリル絵の具を普段使用するのだが、アクリルの黒絵具では出せない美しい黒を墨は出してくれる。
 ただ、書道という、仮にも「道」が冠する分野であるから、私のような訓練もしてこなかった人間には文字の良し悪しというものはよく判らない。ある程度他の学生たちよりかは普段からそうしたものに触れてはいるだろうが、この年齢の差であるから、五十歩百歩である。どういう文字が素晴らしいのかということは私にはちっともわからない。なので、今回は私が普段から触れている美術的な分野の視点で書道展の感想を述べようと思う。先ずは書道におけるシロとクロの表現から。

 書道の世界は面白い。私が普段から触れているのは西洋絵画の分野であるが、これも確かに面白いには面白いのだが、書道は絵画とは全く異なった面白さがある。何が面白いかというとその表現手法の狭さである。こんなことを言うと怒られるかもしれないので、言い方を変えよう。表現の仕方がシンプルである。絵画はある意味複雑で面倒な手段を踏む。キャンバスを張って、下地を塗って、時にはサンドペーパーで削ったりして、それから絵具を混ぜて、ジェッソやらメディウムやらの薬品を混ぜて書く。絵具も自分の色を出すために様々な調合を試みる。そして何層も何層も塗っていく。大体私の場合は、三層以上塗ってから形を整えていく。
 絵画の手順はかなり入りこんで居て最初はそれを覚えるので大変である。だが、それだけ手法が確立されていて、手段が決まっていると、一端覚えればある程度のものが仕上がる。少なくとも仕上がりやすい。人間様々な指示を出されれば出される程、大体のかたちにはなるものである。絵画の分野はそうした側面があるだろう。芸術の中で最もシンプルなのは写真だと私は思う。基本的にはただ撮るだけ。撮る対象を創るまではしない。そこまでする人も居るが、基本的にはシャッターを切るだけだ。だが、写真が奥深いのは、その表現手段がシンプルなために、表現できる幅が人によって大きくことなることである。つまり何も決められていないに等しいので、表現できるのびしろが広いのだ。殆ど何も決められていない状態というのは、想像力のない人間はそのままだし、想像力のある人間はいくらでも伸びることができるという側面があると思う。
 書道はまさしく写真に近いのではないかと私は感じる。表現手法としては極めてシンプルなほうであろう。墨をすったりする手順はさておき、基本的なスタイルは書くだけである。凝ればいくらでも細かい部分が出てくるだろうが、基本的には下地を塗ったり、絵具を混ぜたり、薬品を混ぜたりといった部分はない。そのかわり、一度書いたらそれで終わりという、極めて難しい表現手段である。一回きりなのだ。絵画はミスをしても何度も塗りなおすことができる。ところが書道はそれが出来ないのだ。たった一回きり。本番一本の勝負。その点で書道がスポーツになっているというのは理解できる。一回きりの勝負なのだ。おそらく自分との戦いなのだろう。数年前書道ガールズといったものが流行ったのを記憶している。様々な音楽や踊りに合わせて、一回きりのパフォーマンスをするのだ。書道は、単純。一回きりの勝負である。だからこそ、一つの作品を捏ね繰り回せる絵画とは異なった面白さがある。
 書道は絵画と異なり、色は一色だ。黒だけ。もちろん、他の色を溶いているものもある。実際に今回の書道展ではカラフルな作品が沢山あった。だが、基本は黒だけである。その黒をどのように表現するのか。たった一色であるぶん、その表現の幅が広くなる。どう表現するのかが作者に問われることになる。これは大変難しいことだ。絵画ならば、ある程度絵具を混ぜれば色ができるし、描く対象だってこれだけの色を使っていいのだから、ある意味簡単だ。風景を描こうと思ったら、目に見えた色と似た色を使用すればいいのであるから。それに対して書道はたったの一色。全てを一色で表現するというのだから大変だ。しかも、もともと書道は文字を書くところから発展している。最初から抽象的なものを扱う分野の出発であるだけ、現代書になると絵画的なものも多くみられるが、やはりそれは写実というよりは抽象的なのである。


 クロとシロだけの表現
 黒のみしか使用しないということになると、必然その裏返しの発想が生まれ、余白の白を使おうということになるだろう。それは黒をどのように使うかということと同じことだろうが。そして私はその時、黒はクロに変わると思う。単なる文字を伝達するための墨の色、黒から、余白のシロと一緒にその場を彩るクロに変化するのだ。墨の色から、色の色(表現が難しいが)のクロになるのである。

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 中尾遥香さんの作品である。非常に抽象的で、もはや何を書いたのかはわからない。おそらく何も書いていないのだろう。ただ墨の形の美しさ、余白のシロのあそび、そうした部分がこの作品には上手く表れているのではないかと思う。これ以上クロとシロは、決してどちらも多くなったり少なくなったりしてはいけない。その絶妙なバランスを捉えている。シロのために、クロが引き締まって見えるし、クロの合間にシロが顔を出していることによって、クロにも風が通っている。クロの合間のシロを塗りつぶしでもしたら、大変窮屈でつまらない作品になったことだろう。

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 クロとシロという色は、中国の陰陽のように実は相反するものとしても、同時にその二つで一つになるという考えを体現した作品がある。この二つの作品は、よくクロとシロという一種対極にあるようでありながら、同時に相互を補完し合っているのだということが現された作品だと思う。
 左の豊田法子さんの作品は、その良し悪しは別として、逆説的にクロとシロの関係を示している。我々が一般的に考えるのは、書道においてはシロの中にクロがあるという構図である。当然紙がシロなのだから、そこにクロを入れると、クロの方が割合的には少なくなると考える。その考えを揺さぶろうとして、クロでほとんどを埋めてしまい、シロをほんのわずかしか残さないという構図もまま見られた。だが、これはさらに発想を展開している。クロのなかに、シロを塗っているのだ。クロの上にシロを塗るというのは、絵画でも結構難しい問題である。どうしても下のクロが出てきてしまうからだ。ジェッソに似たようなものを使用していると思うのだが、真っ黒ななかにシロの墨が浮かび上がってきているのは、シロとクロの関係を反対から捉えたものである。ただ、発想は素晴らしいが、作品はもう少し面白味があってもよかったと思う。
 それに対して右の眞鍋智浩さんの作品は対極図のようである。この作品の面白いところは、シロのなかにクロがあるのと同様に、クロのなかにシロがあることである。このような絵をパソコンなどで作成するのは簡単なことだ。色を反転させればいいだけのことである。ところが、実際に書で行おうとなるとなかなか難しいだろう。一瞬クロとシロが反転しているのだなと通り過ぎようとしたが、その不思議さに思わず気を取られた。クロの中にあるシロは恐らくジェッソか何か、かなり厚みのある絵具である。クロがすけないところを見ると、濃厚な液体を垂らしたようだ。このシロのなかにあるクロと、クロのなかにあるシロは一見するとどこかつながりがあるように思われる。この軌道を追って行けばどこかにシロの世界とクロの世界とがつながっているかと思う。だが、実際に辿ってみると違うのだ。シロのなかのクロはそれだけで独立していて、クロのなかのシロもそれだけで独立している。シロとクロの世界の交流はないのだ。私はこの絵がたまらなく不思議でならない。構図や図柄をもう少し変えた方が良いとは思ったが、この発想の豊かさは、シロとクロの世界の関係をよく表している。

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 これまではクロとシロとまさしく白黒つけてきたわけだが、クロとシロは本当に対極する二つの異なるものなのかという謎はある。クロとシロは色においては無彩色と呼ばれるが、私は本当に色が無いのかと疑問に思う。それから、クロとシロは普段は反対の色のように思われるが、しかしそれも書の世界に浸っているとだんだんと怪しく思えてくる。というのは、シロとクロは段階によっていくらでもその表情を変えるからだ。本の少しシロが入ったクロもあれば、ほんの少しクロが入ったシロもある。人間はそれを知覚できる範囲において灰色などという名前をつけているが、そうだとすると、本当のクロや本当のシロというものは果たして存在しえるのかという疑問が浮かぶ。完全にシロが入っていないクロもなければ、完全にクロが入っていないシロもない気がするからだ。全部実は灰色なのではないかとさえ、だんだん思われてくる。そのような哲学的な難しいことはいいとして、これらの作品は、シロ、クロという二分法を乗り越えて、様々な段階の墨の美しさを見せてくれる。
 大抵の場合、書を鮮やかにしたいと思ったら色を入れればいいのである。印鑑一つにしてもその朱が入っただけで、うんと書の表情が引き締まる。特に書には、緑や青、金箔などが相性がいいようだ。だが、そのような色を入れなくとも、墨の可能性がまだまだいくらでもあることにこれらの書は気が付かせてくれる。
 左の堀井海如さんの作品は、最初海の白波のように思われた。岩肌などにぶつかって細かい泡をたてる海のように見える。本人の名前も海の如きとあるのだから、おそらく海や水に関係したものが好きなのか、それを表そうとしているのだろう。なんだか細かい葉っぱのようにも見える。海綿かなにかを使用してトントンと叩いて制作したのであろうが、この表現方法は他の作品には見られない独創的な手法であった。これも、構図や図柄がもう少し工夫されると良い作品となると思う。
 右の清水桜幻の作品も面白い。随分高くに掲げられていたものだから、じっくりとみられなかった。何を表しているのかはよくわからないが、何かうねっているウミヘビのようにも見えるし、妖怪や化け女の類にも見える。荒波や嵐を表現しているようにも思われる。この作品の素晴らしいところは、色相段階の異なった灰色を使用して、立体的な効果を得ているところである。どうしても平面的になりやすい書の作品において、この作品はとりわけ立体的に見えた。余白の使い方も素晴らしいし、とてもみずみずしい作品であると感じる。

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 榛葉壽鶴さんの作品はモダンアート的である。他にもいくつかモダンアートのような作品があったが、私はとりわけこの作品が気に入った。稲妻のように墨が外へと飛び跳ねて行っているのが面白い。なんだか近寄ったら感電しそうな作品であるが、コンクリートの打ちっぱなしの部屋などに置いたら空間が引き締まるだろう。そのような力ある作品だと私は感じた。墨の絵が水墨画を越えて世界に理解されるためには、このような分野が開拓される必要があるかもしれない。

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 この二つの作品は墨の流れというものを感じさせる。西洋絵画においては、スパッタリングと言われるが、絵具を吹き飛ばして半分自然にできた模様を作品に取り入れる手法である。左、岡本蛍光の書は、記号的で絵に近い。右でまるまっているのは、ムカデかなにかの虫のようでもあるし、左の三角の痕は鳥の足跡とも、葉っぱのあとのようにも見える。全く何を表現しようとしているのか、凡俗な私には理解できないが、中央を上から来て、ぐるりとまわって再び上へ帰っていく墨の軌道が鮮やかである。スパッタリングの技法は、水分の少ない絵具ではなかなか難しい。筆に水を多く含ませて、指ではじいて絵具を飛ばすのがこの手法のやり方であるが、それでは規模も小さいし、水増しされた絵具であるから絵のしまり具合の調節も難しい。墨の最大の利点は、水々しくてもきちんと色が出るということである。ぱたぽたと垂れたはずなのに、力を感じさせる。この墨の利点の活かし方は、西洋の絵具を使用している人間からするととても新鮮で恰好が良い。
 右の国竹雨杏さんの作品は、クロとシロと題して論じて来たこの文章で初めての色を使用した作品である。写真ではわからないが、大変鮮やかな藍色であった。だが、水分をたっぷりと含んだ文字の外側は黒の墨なのである。どうも成分の重さが異なったようだ。墨は外側まで浸透したが、藍の絵具は文字の真ん中にとどまったのである。これもまた、文字の軌跡を描いた墨の飛び方の美しさと、クロとシロの割合の美しさを感じたので取り上げた。「祭」と書いてあるようにも思われるが、ここの部分は自身がない。

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 最後は塚本真由美さんの作品。クロとシロという二項対比で論じてきたが、最後はこの素晴らしい作品で終わりにしたいと思う。この作品は上手く説明できないのだが、やはり秀作賞を取るだけのことはある、「みごと」と言わざるを得ないのだ。まるで枯山水の庭園を見ているような心地さえしてくる。非常に力強い墨だ。大地そのもののようにも感じられるし、大きな岩、あるいは山々のようにも見える。それでいて、この力強い墨は水が多かったのか、淵際になるとふっとぼけてくる。それが山にかかる霞のように思われて非常に美しいのだ。力強さと優しさが同時に並立している。枯山水くらいの大きさから、山のような大きさまで、感じ方によって変化する素晴らしい書である。






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