有島武郎『或る女』に見るジェンダー規範 │ファム・ファタールは如何にして男を殺し、殺されるか│

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はじめに
 『或る女』は有島武郎(明治一一(1878)・三・四ー大正一二(1923)・六・九)によって書かれた長編小説である。初出は『或る女のグリンプス』と題して明治四四(1911)・一から大正二(1913)・三「白樺」に掲載。これを増補改題し、大正八(1919)・三、有島武郎著作集第八輯『或女』、前篇として叢文閣から刊行。同六月には、書下ろしで同第九輯『或る女』後編を同出版社から刊行された。
 ご覧のように『或る女』は、十年ちかい年月をかけて創作された作品であり、有島にとっての十年とは、その作家人生のほとんどに当たる。『或る女』は、有島の代表作と目され、現在の日本近代文学史においては、作品として成功していると髙い評価を受けている。だが、この作品は、必ずしも同時代の人間には評価されなかったようである。石坂養平は『帝国文学』(大正八年十月) でこう評価している。
 

引用

「氏の作品中一番長い労作のやうに思はれましたから、私は、非情な期待をもって手にいたしました。然し不幸&にも私の期待は全く裏切られて了いました。(省略)私が非常にいやに感じたのは主人公葉子その他一切の人物に対する作者の快楽主義者らしい態度を十分に認め得たからであります。(省略)『或る女』には恋のトリックや豊潤な感覚性や生活の浪費に伴ふ快さなどがいかにも巧妙に、そして力強く写されてゐますが、そこに示された作者独自の芸術的世界は濁った不純なものになつてゐます」。

 このように必ずしも現在の髙い評価とは異なった評価がなされていた。本稿では、何故このような評価がなされたのか、また現在においては何故髙い評価を得ているのかに触れ、どのような部分が読者にそう評価させるのかを、細かく見て行きたい。それに際し、当時のジェンダー的な規範とともに、主人公葉子が当時の人びとの眼にどのように写り、また現代の読者にどのように写るのかを考えて行きたい。

葉子の性格
 先ずは主人公となった葉子の性格から考察していきたい。『或る女』は、今までの研究史では、モデル小説としての読みが圧倒的に強く、作品論よりも作者論的な立場から読み解かれてきた。そのため、作品そのものよりも、作品に登場する人物が、実在のどの人物と対応されるのかという方向に研究の関心が向けられてきた。それらの研究はもはや空白の余地はないほどに研究されたように思われる。よって本稿は、言語論的転回に始まり、構造主義の中から生まれたテクスト論的な視点から作品を考察していきたい。
 さて、葉子の性格というと、現代の読者が読んでもぎょっとするようなかなり強烈な感情と、行動の持ち主である。このテクストにおいて、葉子の性格を最も端的にあらわし、また後で触れる事項についても触れられている部分であるため、少し長いが本文を引用する。
 

引用

「葉子はその時十九だったが、既に幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手際よく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは十分に持っていた。十五の時に、袴を紐で締める代わりに尾錠で締める工夫をして、一時女学生界の流行を風靡したのも彼女である。その紅い唇を吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校に這入ってヴァイオリンの稽古を始めてから二ヶ月程の間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を捲かした時、ケーベル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と不愛想に云って退けた。それを聞くと「そうで御座いますか」と無造作に云いながら、ヴァイオリンを窓の外に抛りなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。基督教婦人同名の事業に奔走し、社会では男勝りのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人を全く無視して振舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指と食指との間にちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の眼には凡ての人が、殊に男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男を可なり近くまで潜り込ませて置いて、もう一歩という所でつき放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏み躙るという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても自分との関係の絶頂が何処にあるのかを見ぬいていて、そこに来かかると情容赦もなくその男をふり捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼等は等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。何故というと彼等は一人として葉子に対して怨恨を抱いたり、憤怒を漏らしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者達は自分の愚を認めるよりも葉子を年不相応にませた女と見る方が勝手だったから」。 
 

 『或る女』二章で、語られ始める葉子の性格を表した部分である。ここからすでに、葉子は若いころから何人もの男性と交際していたことが伺える。この時代にそうした男女の交際というものは、控えられるべきことがらであったが、葉子はそのような不文律には頓着しない。一種の爆発的な感情のエネルギーを持って、自分にふりかかるそうした不文律、社会的規範というものを破壊していくのが彼女の性格なのだ。音楽学校でのケーベル博士とのやり取りは、今現在聞いても驚くべき事柄である。通常ならば、たとえ男性であっても教員から叱られれば時には反抗的な態度になることはあっても、程度がしれている。それを葉子は、何と博士の眼前で当時高級な楽器であったヴァイオリンを半ば壊すようにして放り投げ、そのまま退学してしまうのである。葉子の性格からは、一つには、葉子の行動を規制してこようとする社会的が外圧、女性とはこうあるべきだといった不文律に対する破壊的な衝動が浮かび上がってくる。二つ目には、他人の人心掌握術である。一見かっと感情的になって後先考えないように行動しているかのように思われる葉子であるが、反面非常に緻密な計画者であることが浮かび上がってくる。恋の駆け引きというものは、通常頭で考えてもなかなかうまく行かないものであるが、それを葉子はいとも簡単にやってのける。「直覚」という言葉に示されるように、葉子は、頭脳で考えるというよりも、こうした表現が赦されるのなら感情で考えるといった感じであろう。大人びている葉子が、自分よりも年下の男性と付き合っていたとはあまり思われない。もちろん幾人とあるから、その中で数人は自分より肉体的にも、精神的にも年下の男性と付き合っていた可能性は十分にある。だが、葉子が恋愛対象として、手駒にとって遊ぶのではなく一人の女性として付き合えたのは、彼女より年上の男性であったろう。それは後この作品で、登場する唯一の恋愛対象となりえた男性倉知を想像すれば良いことである。
 葉子にとっては、一度結婚し、子供まで設けた木部孤笻にしても、母親の言いつけで婚約者となった木村貞一にしても、親身になってくれる古藤義一にしても、皆恋愛対象ではなく、自分より低い人間、手玉にとって遊べる玩具のような存在でしかないのである。
 葉子にとっては、一種女性的ヒエラルキーの価値観を有しているように思われる。

引用

「岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
  とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇やみの中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
  しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手うわてを行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。」
 

 ここからは、恋愛対象というよりは、更にその下である純粋無垢な岡という青年に対する葉子の眼差しが見て取れる。葉子は子供っぽいとか、幼いといった意味を表す「おぼこさ」という言葉を用いて岡を表現している。葉子にとって岡は恋愛対象以前の、子供という認識なのである。そして、岡の上にもう少し成長し、恋愛対象になりうべき、先に挙げた木部、木村、古藤がいる。葉子の認識では、その三人の男性の上に自分が居るということになるが、更に倉知は自分の上を行っているように思われて仕方がないのである。
 アメリカにつく以前の部分では、葉子は倉地に対しては恋愛というよりは、その裏返しとも取れる憎しみに近い感情を有していることがわかる。葉子にとっては、何が何でも自分の支配下になければ気が済まないのである。自分より上にあるもの、自分の行動を規制するものというのは、彼女にとっての外敵でしかない。その認識によれば、葉子は当初倉地を憎んだということが理解できるだろう。


葉子のジェンダー規範
 さて、今葉子の性格を簡単に見た。次は、葉子のジェンダー規範について視点をずらして考えてみたい。『或る女』は前篇と後篇とに分けられている。前篇では、アメリカに行くまでの話がそのメインとなり、アメリカに到着しそこで倉地と共に帰る決心をして帰ってきてしまうという所までが描かれている。アメリカに行くまでで、葉子はかなり自分の境涯について悩む。葉子は亡き母の遺言によって木村と婚約させられてしまっているのである。しかし、葉子自身は木村のことを愛してはいない。葉子は、なまじ「昔の女」でなかったばっかりに苦悩するのである。その苦悩する部分を取り上げ、考察していきたい。

引用

 「まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表うらおもての見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。(省略)こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細ささいな話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近みぢかには見当たらなかった。」(傍線部引用者) 


 さて、ここで葉子は二つの女を対比して見せて、自分の苦悩を語っている。今までの研究論文では、この「自由の女」というのを、作品の冒頭に引用されているホイットマンの詩のローファーと関連付けて考察しているものもある。だが、本稿では論旨から離れるのでその部分については割愛したい。
 ここでの葉子の価値観というものは、そのまま葉子のジェンダー規範になってくると思われる。「昔のままの女であらせようとするもの」とは、その前後で登場する親戚や、五十川女史が直接的には言及されているであろうが、より象徴的に考えれば、社会全体といったように捉えることができるだろう。一人特別な存在として生まれついてしまった葉子にとっては、「新しい女」になろうとすればするほど、周囲の人間が「昔のままの女」になろうと大手を振ってやってくるのである。葉子はその性格の上で、そのように自分を規制するものを極端に嫌う人間であることは先に述べた通りである。では、そうした外圧がやってきた際に葉子はどのように対応したのか。先ず葉子は自分の理想の状態を想像している。アメリカには、木村が居て、木村との関係は母親のいいつけであるから、木村に対して恋愛感情はない。そのため葉子にとっては木村の居るアメリカに行くことは気が進まない筈であるが、しかしここでは、アメリカにはもしかしたら自由でいられる女というものがあるのではないかという、希望のほうが上回っている。しかし、そのアメリカの自由な女を意識する際の葉子自身は、「古い良心」に縛られた「古い女」でしかないということが、ここで露見してしまうのである。
 さらに、次の行では、「葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った」と、決して「新しい女」が思ってはいけないことを思ってしまったのである。葉子にとっての新しい女が、経済的に、精神的に男性から独立していて、しかも男性と対等な立場にある女性のことを指すのであれば、このように思ってしまった時点で、すでに葉子は「新しい女」ではなくなってしまっているのである。これはまったく当時のイデオロギーを反映している。時代は下るが、芸妓の恋を描いたことで知られる廣津柳浪の『今戸心中』(明治二九)では、同時代表として『早稲田文学』同年八月に次のようなことが書かれてある。

引用

「男女の情交の自然にして自由なる成立およびそが発展を狭斜以外にて見るは甚だ稀なり、何となれば、儒教主義に基ける家庭の規律、社会の制裁は男女の交際を杜絶し、自然にして自由なる情交をば罪悪視するが故也」  

 いわゆる自由恋愛というものが、現在のようにはいかなかったのが『或る女』や『今戸心中』の時代である。当時は専ら個人の意思よりも、家制度においていかに子孫を絶やさずに残しておくかということと、家長制度のなかで親の意見が絶対視されていたのである。もし、葉子が「新しい女」になりたいと希望し、またなろうと努力するのならば、芸妓の恋愛を羨んでいてはいけないのである。それは既存のイデオロギーの枠組みを離れていないからである。これを西垣勤氏は「このキリスト者社会への反抗プロセスで生い育ったはげしい自我意識は、以前としてキリスト者社会の俗物共の圏内からの脱出を可能にしない。男性に依存する生活態度にぴしっと規定され、枠組みの中にはめこまれているからである」 と述べている。この部分からも、葉子はこの規則によって自分を縛りつけているイデオロギーに対抗したいと考えながら、しかし完全に脱却することなく物事を考えている人物だということが出来るだろう。孫悟空がお釈迦様の掌中のなかで騒いでいたのと同じことである。
 このようなことから、葉子の悲劇性とは、まさしくこの部分にあるのではないかと思われる。すなわち、葉子は、この時代に生まれてきてしまったから悲劇的だったのだということではなく、もちろんそうした面も多分にあることはあるが、それ以上にイデオロギーから脱却したいと願っていてもできていない自分がいることに気付けなかったという点にあるのではないだろうか。
 
葉子の謎の行動、その裏にあるものとは
 今見て来たように、葉子は残念なことに自分を支配しているイデオロギーから逃れたいと思っていても、その思っている段階がすでにイデオロギーに支配された思考であったため、根本的な脱却へたどり着くことが出来なかった悲劇的な人間であるということが判明した。さて、そのような矛盾、自己撞着のなかで葉子はどのように行動したのか。
 葉子の行動はその奇抜さ、非論理的な行動が目立つことから、今までの研究史においても多くの研究者が色々な論を展開して理解に努めて来た。葉子はこの時点ですでに空回りをしていたということになるが、あまりにも突飛な行動の連発には、作中のほかの男性も翻弄されるし、また読者も葉子に翻弄されるという構造が浮かび上がってくると思われる。余談を言えば、その葉子に翻弄されることが読者の愉しみでもあるし、翻弄されることによって、作者である有島の苦悩を疑似体験できるということにもなろう。
 だが、しかし、葉子の行動は何もすべてが全てその時の思いのままに行われていたのではない。八方塞がりになりながらも、彼女なりの理論で行動していたということが、次の引用箇所からわかる。

引用

 「小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪のろわれているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通とおって行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方しかたも知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人ひとりで崕がけのきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活いきながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦わぼくを示そうとしているのだ。」(傍線部引用者)

 ここは、葉子の行動がどのような動機付けをもって行われるのかということと、これから行くアメリカでの木村との関係について語っている部分である。木村とは、母親の言いつけであるから、本当は行きたくない。しかし、行く。行けば別の何かが開けると思ったからであった。この一連の行動は、その外面だけを見れば、嫌がって見たり、急に行くようになったり、また今度は上陸せずに帰ってくるというあまりにも非常識な行動に思われよう。しかし、葉子は木村のために自分の考えを二転三転させていたのではない。葉子が常に念頭に置き、求めていたものとは、いわばお釈迦様の掌中から救出してくれる白馬の王子様であろう。環境打開者と言っても良いし、ある意味葉子以上の破壊力を持った人物を探し求めていたのである。このような目的があっての行動と考えると、木村のもとへ行くのを嫌がったのは言うまでもない、社会への反抗である。アメリカに行きたいと思い始めたのは、アメリカに行けば自由の女になれる、社会から自由になれると想像したからである。しかし船上での田川夫妻との壮絶なやり取りによって、アメリカに上陸しても田川夫人の影が付きまとうと悟った葉子は、丁度同時に自分より破壊力を持つ倉地という男を見つけており、今度はアメリカという土地ではなく倉地という男に自由を求め帰国したのである。


同時代作家とファム・ファタール
 ここで一端作品から離れて、大きな視点から作品を考察してみたい。すなわち今回副題にした、ファム・ファタールについて作品の外から俯瞰してみたい。
 ファム・ファタール(Femme fatale)とは、フランス語で男性にとっての「運命の女」と言ったような意味を持つ言葉である。原義では男性の運命を変えるというような意味しか持たないが、転じて男性の運命を狂わせる悪女、といった意味を含むようになる。代表的なファム・ファタールは例えば、メリメの小説に登場するカルメンや、聖書に登場し、後ワイルドによって戯曲家されたサロメなどがあげられるだろう。
 文学の歴史とは、ある一つの側面を切り取ればこのファム・ファタールの文学と呼ぶことが出来るのではないだろうか。これは何故人が物語をものがたるのかという根本的で、諸元的な問題にもかかわってくるのだが、論旨から著しく外れるので割愛する。ごくごく簡単に述べさせていただくと、人は何か運命や宿命と言った自分の力ではどうにもならないような大きな力、存在に相対したときにものがたりたくなるのではないだろうか。
 同時代作家を見てみると、夏目漱石や森鴎外、小泉八雲、有島武郎といった当時の人気作家たちは、いずれもこのファム・ファタールを作品の中に登場させているように考えられる。夏目漱石におけるファム・ファタールは、まさしく近代の「新しい女」の役割を背負わされた虞美人草の『藤尾』が典型例であろう。藤尾もまた、「或る女」の葉子のように、最終的に作者によって殺されてしまうという類似した構図を指摘できる(葉子に関しては彼女の死が描かれるわけではないが、恐らく死へ向かっていくであろうという読みの上での指摘である)。漱石においては、『三四郎』の美禰子、『草枕』の那美などもまた、「新しい女」であると同時に、主人公の男性を惑わすファム・ファタール的な存在として形成されている。森鴎外は、言うまでもなく『舞姫』のエリスである。主人公である太田豊太郎は、まさしくエリスのために翻弄されて、憔悴しながら日本に帰国しなければならない状態にまで陥る。小泉八雲に関してもファム・ファタールとの連関性が言える。八雲は日本人ではないが、日本の伝承の中に彼が好んだファム・ファタールの典型を見出したという点でここに挙げた。八雲は、「雪おんな」に代表されるような(これは八雲の創作であるという見解が現在の学説であるが、下敷きにした似たような話があることからも、完全な創作とは言えないだろう)、日本の古来から存在する男性の運命を変えてしまう恐ろしくも美しい女性を作品に描いている。
 かなりおおざっぱで独断的なことではあるが敢えて言わせていただくと、これらの作者には、ある共通したものがあると感じられる。それは、運命や宿命といったものが他の人間よりも激しく彼等の人生において現出したということである。鷗外に関しては立派に出世して素晴らしい地位も得たではないかという反論はあろうが、しかし、鷗外もまたかなり苦悩を感じていたようである。このように運命に翻弄されたような人物が、その作品において運命を象徴づけるような女性を登場させるのには、何かしら連関性があると考えられるとは言えないだろうか。
有島の『或る女』に関しても、このファム・ファタール的なイメージが付加されていると感じられる。有島に関して多少述べれば、彼は厳格な父親との間で葛藤し、子供を多くして妻を亡くしたことなどから、なかなか創作に時間がさけなかったりと、苦悩が続いた。最終的には、波多野秋子と心中をし、当時の社会に大きな影響を与えている。
 このように運命に翻弄された作者から、運命を翻弄する女性が生まれてくるのは何か因果のようなものを感じずにはいられない。


欲望の三角関係から見る『或る女』
 さて、葉子という主人公が、どのような性格で、どのような価値観を持ち、何によってその行動が規定されているのかということを、丁寧に見て来た。またファム・ファタールとして、男を弄び、男の運命を変えてしまう存在というような意味が込められているのではないかと考えた。これらの考察を踏まえたうえで、いよいよ本論の目指すところへ踏み込んでいきたい。それは、ファム・ファタールたる葉子が、如何にして男性を殺し、反対に男性に殺されたのかということである。この殺すというのは、何も物理的な殺害や殺人といったものではない。象徴的なレベルでの殺しである。
 もちろん葉子は実際には人を殺してなどいない。だが、木部にしろ、木村にしろ、古藤、岡、いずれも男性としては女性に殺されたようなものである。少なくとも木部や木村に関してはその度合いが酷く、精魂を葉子に吸い尽くされたような印象をテクストからは受ける。
 葉子がどのようにして男性陣を相手に戦い、また敗れたのかをどのように分析するのか。私はここで、フランスの文藝批評家・哲学者・人類学者であるルネ・ジラールの『欲望の現象学』で示された「《三角形的》欲望」の理論を駆使して考察してみたい。
 三角形というと、私たちは普段から恋の関係などにおいてあのカップルは三角関係だなどというように使用する。では、この三角関係というものが一体いつから存在するのか。三角関係という言葉が使用されて、その概念が広く普及されたのはここ一世紀にも満たない期間の話ではあるが、その構図自体は物語が語られている時点から存在している。つまり、三角関係というものははるか昔から存在していたのだ。我々はそれをルネ・ジラールが明文化したことによって知るようになったに過ぎない。とすると、この構図は以前から成立していたということが判明する。これはすなわち制度的なものではないだろうか。
 ルネ・ジラールは論文でドンキ・ホーテを実際に分析しながらこの三角形を論じている。なので、三角形だけを最初から論じているわけではない。氏の論旨をできるだけ忠実に、かつ簡潔になぞってみたい。ここで示されるのは恋愛関係ではないのだが、それを応用できると思われるのでここに書くのである。通常恋というものは、主体となるものと客体となるもの二人からなるように思われる。しかし、実は違うのである。もちろんそのような一直線上の関係もなくはないが、それは本質的なものではない。「一見、直線的に見える欲望の上には、主体と対象に同時に光を放射している媒体が存在するのである。こうした三十の関係を表現するにふさわしい立体的な譬喩といえば、あきらかに三角形である」 。この媒体というのは、実は主体におけるモデル、手本になっているのである。例えば、ある女性を男性二人が奪い合うとしたら、男性Aと男性Bはライバルであるが、同時にAはBの手本となり、BはAの手本となっているという構図である。
 夏目漱石の『こころ』はこの構図が非常に上手く当てはまる作品である。作中の先生は、テクストから推測するに一年ほどは、Kがいない状況でお嬢さんと三人で暮らしていることが判明している。もし、先生がお嬢さんに何かしらの感情があったなら、その一年間なぜ何もしなかったのかということになる。そして、Kが同宿するようになってから、先生もお嬢さんに対する恋の感情を抱き始めたのである。それは先生がKのお嬢さんに対する感情を感じたからである。ここでは、Kは先生のモデルになっている。
さて、この三角形の理論を転用すると何がわかるのか。それは、葉子が恋をする際には、必ずこの三角形が出現しているということである。三角関係という言葉を使用してはいないものの、武腰幸夫氏もまた同じ結論に達している。氏の論文から引用したい。
 「木部を激しく愛するようになったのは、その母を意識したときである。母がこの結婚に反対するや、彼女の心は逆に燃えることになる。また、船中、倉地を意識するのも、田川夫人という「女」に対する反発がその契機になっている。そして、倉地夫人の写真が、葉子の倉地に対する気持ちを高めていることになっていよう。倉地夫人の存在は、帰国してからも執拗に葉子につきまとい倉地執着への大きな要因となっている。さらに、後半、半狂乱になったのは、愛子やその他の女と倉地との関係妄想が大いに与って力があっただろう。(省略)葉子の心の動揺は、かように同性に対する「嫉妬」を根底とするといってさしつかえないと思われる」として、以下、女性同士の関係について非常に綿密な研究をなされている。
 氏の論文では、女性同士の関係について考察がされているが、異性間の関係については左程触れられていない。私はこの異性間の三角形にこそ注目したい。確かに一つには、葉子が恋をする際には、同性の存在が浮上している。だが、葉子が男性から他の男性に、言葉は悪いが乗り換える際には、男性が二人浮上しているのである。これは当たり前のことのように思われる。乗り換えるのだから、二つの男性が存在しなければならないのは当然だ。だが、二人の男性が現れてから、葉子の気持ちが変化したとしたらどうか。あるいは葉子が意図的に乗り換えるために自分の心の内部において、二人の男性を対比しているとしたらどうか。
 木部から木村への移行へは、更に複雑な古藤という媒体を通して段階的に移行している。先ずは木部から古藤へ。しかし、古藤と葉子の関係は、他人が見れば恋仲かと思われるようには演じられているが、実際のところ葉子がどのような感情を抱いていたのかはわからない。「紺の飛白に書生下駄をつっかけた青年に対して、素性が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情を湛えたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすら牽かずにはおかなかった」とあることからも、二人が恋仲に見えたことは確かであろう。また葉子は演技の名人であるから、そのように演出していたのは、葉子の力だったと考える方が自然だと思われる。一端古藤に乗り移った葉子は、そこからさらに木村のもとへと移り変わる。すなわち乗船である。ここで田川夫人の役割とは、古藤という異性の媒体が居ない間に、何とか媒体となる男を探させないで木村のもとへ届けてくれというものだと、三角関係を駆使すれば理解できる。しかし、古藤や親戚一同の望みは、ことごとく打ち砕かれてしまう。一端古藤とも木村ともつかない空白の関係に陥った葉子は、その空白を埋めるために、乗船中の乗客を片端から手中に収めて行きます。「葉子は一等船客の間の話題の的であったばかりでなく、上級船員の間の噂の種であったばかりでなく、この長い航海中に何時の間にか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた」のである。葉子は、決して異性と二人の状況では、それ以上の恋愛には発展しないのである。であるから、この船においても、倉地とは最初決して近づかなかった。むしろ憎んでいた。だが、そこへ岡という純粋な青年が入ることによって、三角形が形成され、葉子はどちらかの男性と親密な関係を選べるようになる。そこで葉子は、自分の手玉になる岡ではなくて、自分を手玉にしてくれる倉地へと未知なる自由を求めたのだ。
 だが、葉子はこのようにたとえ付き合っている男性が居るとしても、他に男性が居なければならない存在だったのである。常に男性の比較対象を求めたのだ。だから、後半に入ると、倉地と二人暮らしをするが、そこにはただただ閉塞していくだけの関係しか描かれない。そこへ葉子は倉地の妻を入れたり、自分の妹たちを介入させたりして関係の維持を図ろうとするが、いずれも破滅への道を早めるだけであった。一応木村とは、金銭を通じて繋がってはいたが、しかし、小説中からは木村の影はすっかり消えてしまっている。
葉子が倉地との関係を維持するためには、倉地と比較対照する別の男が必要だったのだ。それに気が付けなかった葉子は、余計に「嫉妬」を掻き立てる同性を配置してしまい、自分で生んだ女性としての「嫉妬」に体内から焼き焦がされてしまうのである。
 このような関係を見ると、ファム・ファタールとは、男性と男性を常に比較して、二人を競争させるような女性であると同時に、同性である女性からは恨まれた存在であるということが出来るだろう。葉子が、ファム・ファタールとして死ぬのは、比較する男性がいなくなってしまったからともいえないだろうか。

終わりに
 ファム・ファタールは、男性を他の男性と戦わせることによって殺す。しかし、男性が別の男性と戦わない状況になってしまうと、その男性に殺されるか、あるいは同性によって殺されることになってしまうのではないだろうか。
 このように生まれついてしまったのは、果たして社会が悪かったのか、葉子が悪かったのか、これは永遠の謎であるが、どちらにも原因があったのだと考えるほかないだろう。
『或る女』は、自由奔放に生き、男性を弄んだために自業自得で処罰される訓戒的な意味があるのだという読みが一般読者の間で少なくない。あるいは、新しい女であった葉子が、時代や社会に殺されたのだという読み方がかなり流布している。
 しかし、私はそうした時代や社会によって殺されたことに悲劇を求めるのではなく、葉子がイデオロギーに相対しながら、実は相対することができていなかったという空回りの状態が悲劇なのであり、それを自覚できなかった葉子が、己の力を誤って使用したことによって自らを破滅へと導いてしまったということへの語り手の憐れみがあるのではないかと考えた。
 葉子は、自我に目覚めた女ではなく、あくまでも目覚めかけようとした女にとどまり、目覚めてはいない。葉子を越える存在として前篇と後篇ではうってかわった印象の変化をする妹の愛子は、自我にめざめかた女くらいにはなれるだろう。しかし、それでもまだ自我に目覚めるのには時間がかかる。『或る女』は、そうした自我に目覚めかけている黎明期の狭間で、苦悩し、その狭間のなかで殺されざるをえなかった悲劇的な女性たちのこと全般を指しているのではないだろうか。
 ファム・ファタールとは、その狭間の期間を生き延びるために生まれた、運命の女、ある意味そうしなければならないと逆に運命づけられていた女なのではないだろうか。
 もし、『或る女』が、自業自得の説教的な話であったり、ただ新しい女が時代に殺されたというだけのことであれば、評価することは難しいだろう。しかし、私にはそれ以上の見方が出来ると思い、その一端をここに示せたと思う。まだまだ触れられていない部分も多々あり、このようにどのような見方からでも変容し、別の答えを出してくれる非常に強力なテクストであるということが言えるだろう。テクストの持つ力がものすごく強いのだ。このテクストはそのような点で高い評価ができるだろう。

 石坂養平は『帝国文学』(大正八年十月)
『早稲田文学』明治二九年八月
西垣 勤 『有島武郎論』有精堂出版, 1971年
ルネ・ジラール 『欲望の現象学:ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』古田幸男訳 法政大学出版局 1971年

《参考文献》
『或る女(上・下)(新潮社)』
『増補改訂 新潮日本文学辞典』 新潮社 1990年
『日本現代文学大事典』明治書院 平成六年
有島武郎『或る女』について 山本容子
『或る女』論 衛藤浩美
『或る女』全編の内部構造│内部衝動と世界的幸福との間の不安│
『或る女』論 武腰幸夫




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