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映画『風立ちぬ』 感想とレビュー  テーマ探求の言説を巡って

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-テーマはあるのか-
 この作品は、意味がわからないとか、ストーリーが薄いとか、何を描きたかったのかわからないといった意見が多くありました。それは、一つにはこの作品が今までのジブリ映画とはかなり異なる作品だったからだと思われます。
 例えば、今までのジブリ映画というのは、物語メインで描かれてきました。それに対してこの作品では物語やストーリーの流れといったものはあまり重視されていません。一応堀越二郎という実在した人物の半生が描かれます。一つには、戦争へ向かっていくというなかでの堀越の飛行機設計者としての流れ。もう一つは、ヒロイン里見菜穂子との出会いと、短い恋の物語です。
 一つ前提としなくてはいけないのは、この作品は完全なるフィクションであり、堀越二郎という実在した人物を描いたというよりは、堀越二郎という人物と、堀辰夫という人物、二人の人生にインスピレーションを受けて、宮崎駿監督が独自に作り出した物語だということです。
 多くの人は、この作品から反戦のメッセージといったものを一生懸命受け取ろうとしているようですが、私にはそのようなメッセージ性はほとんどないと思いました。主人公である堀越二郎は、飛行機の設計者ですが、戦争へ向かうという流れのなかで、否応なしに戦闘機の設計をさせられるようになります。しかし、堀越は、別段それに対して思うことはないように描かれています。堀越は時代の流れという仕方のない大波に対して、ただ流されるしかないのです。自分の仕事が殺戮の機械へとかわっていくというのは、飛行機をつくるものの望まない宿命であります。イタリア人設計者カプローニとの対話は、しばしば堀越が苦難に陥っている際に夢のなかに表れ、その道の先輩として堀越にアドバイスを授けてくれます。
 自分が一生懸命作り出した「美しいもの」は、それを使用する他人の手によって、「呪われたもの」に変換されてしまいます。しかし、それは仕方がないことなのです。それに反発して飛行機の設計をやめることもできなければ、設計を変えてしまうこともできない。時代の流れと言ったものに対して人間とは、おそろしく非力な存在でしかないのです。そこで、ただ「生きなければならない」ということになってくるのだと思われます。
 そのような生きることに困難な時、己の目指すことが出来ない時、ましてや自分のつくったものが、他人を殺す道具になってしまうような時、それでもただ生きなければならない。この作品のメッセ―ジはたったのそれだけなのです。ただ、生きなければならない。そこに何を見出すのか、そこからどのように生きて行くのか、それはこの作品では描かれません。テーマなどないに等しいのです。それは勝手に観客が決めればいいことなのです。
 たとえどんなに自分が頑張って作ったとしても、その映画は自分の意思とは関係なく、観客によって様々な形に変えられてしまう。そうした宮崎監督の思いもうかがえるのではないでしょうか。だからといって、そこで宮崎監督が、この作品はこうこうこういう思いで作ったとか主張し始めるのではなく、ただ、つくるという行為をつづける、そこに意味があるのだということなのだと思います。

 堀越二郎はゼロ戦の設計者ということで歴史上有名ですが、その知識を持って作品を見始めると、観客はきっとゼロ戦の話がたくさんでてくるだろうと思い込んでしまいます。しかし、ゼロ戦はこの作品ではほとんど登場しません。ラストにほんの数十秒出てくるだけ。
 二時間というジブリ映画ではまれにみる長さの作品のなかで、ゼロ戦はほとんど登場しません。ラストシーンではこのような対話がカプローニと堀越の間にあります。「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あのだね、君のゼロ戦は」。
 自分が創ったゼロ戦が一機も戻ってこなかったということが、一体製作者にとってどのような感情を抱かせたのか、それはこの作品ではわかりません。堀越はただ、自分の夢、美しい飛行機をつくりたいということだけに生きた人物なのです。たとえそれが人殺しの道具になってしまったとしても、それは製作者のもとをすでに離れています。
 このように、堀越にとってゼロ戦とは、大きな意味を持つものではないのだということが映画では描かれます。彼は戦闘機として最も有名なゼロ戦をつくった製作者ではなかったのです。ただ美しい飛行機を作りたいという思いの中で、時代の要請によってそのようなものを創らざるを得なかったということだけなのです。ですから、自分の作品がたとえ戦争の道具に使われてしまったとしても、それを後悔したり、責任を感じたりして、死ぬわけにはいかないのです。ただ生きる。そこに意味があるのです。

 堀辰夫の原作を読んでいた私にとっては、菜穂子(小説では節子)との恋愛がメインになるかと思っていましたが、それもこの作品では一応描かれるものの、そこまで重要ではないように描かれています。あくまで物語のメインやテーマといったものは、生きるということ。菜穂子とは、途中電車で東京へ向かう時に初めて出会います。ちょうど、電車で出会った直後に、関東大震災と思われる地震が起こります。
パンフレットに書いてあったのは、ちょうどこの地震の場面を描いた直後に3,11が起こったということです。 宮崎監督はそのため、この場面をどうしようか考えたそうですが、結局何の変更もなく使用したと記されています。この作品には、今まであったジブリの世界観というものがあまり表れません。作中のほとんどは現実世界が舞台となっていますし、しかも主人公が非常に寡黙な人間で、行っている仕事も地味、アニメーションにする必要があるのかという謎が生じますが、しかし、アニメーションでなければできない表現というものが、この映画には存在しているのです。関東大震災の場面も、アニメでなければできない、日本アニメ史に残る素晴らしい場面だったと思います。
 地面に波が生まれて行くという描き方は、かなり誇張されてはいましたが、それが何を表現したいのか、どのような感覚だったのかを伝えるのに効果的な映像だったと思います。


-ただ生きること 残された生のなかで-
 宮崎駿監督は、現代の閉塞された時代と、当時の閉塞された時代が、同じ状況であるとして、この映画をつくったと述べています。多くの人々が、この映画を見て、そこから何かしらのテーマを引き出そうと躍起し、それを満たされないと駄作だという結論を下す中、そのように評価されることを恐れずにこのようなジブリらしくない作品をつくったのにはどのような意味があったのか、そこを考えてみたいと思います。
 この映画が反戦映画ではないということは、作中ほとんど戦闘場面がないことからもわかるでしょう。飛行機が攻めてくるという場面もありませんし、一か所だけの例外を除いて、飛行機同士が打ち合うという場面もありません。戦争の描写はないのです。
 そして、恋愛もまた描かれてはいますが、それは映画の後半からの部分だけで、恋愛がメインでないこともうかがえます。また主人公の寡黙さを印象付けるかのように、観客には、今がどのような時代で、どのような流れになっているのかという説明的なことは、一切排除されていて、パステル調で描いた淡い水彩画のような印象を受ける映画です。時には、ジブリが得意とする、気が付くと幻想の世界に入り込んでいたといったような描写が、堀越の夢という設定で描かれます。さらには、架空の上の堀越ではありますが、その半生を追っているために、かなり時間的な跳躍がいたるところであり、それがまた作品を難解なものにして、観客を混乱させていることは否めないでしょう。小説で言えば川端康成の『山の音』のように、一応一連のストーリーはあるものの、それぞれが独立した短編としてもよめるといった、短編の寄せ集めといった印象を受けます。
ここからも、私が述べてきた、「空白」がいたるところに存在していることがわかることでしょう。

 テーマを求めること自体、あまり重要なことだとは私は思っていませんが、強いていえば、ただ「生きること」でしょう。そうして、主人公の堀越は、どのように生きたのかが描かれているのです。堀越は、映画のなかで何度も表れるように「美しさ」を求めて生きています。
しかし、その美しさというものは、カプローニも言っているように、呪われたものでもあるのです。あまりにも激しい美しさを求めるということは、やはりそれなりに負の面も負わなければならないのです。堀越は、自分の作ったものが、破壊され、人の命を奪うものになることに耐えられません。自分の作ったものが空中分解してしまった事故では、しばらく療養のため軽井沢の避暑地に籠ります。このようにぼろぼろになりながらも、でも生きるということ、それが重要なのではないでしょうか。
 また、生きるということについても、この作品ではある条件が付加されています。それは、限られた時間のなかでということです。菜穂子は、結核という当時の死の病に侵されており、死にゆくのがわかっているのです。その中でも、二人は愛をはぐくみ、最後の生を美しいものであろうとするのです。堀越二郎もまた、一見生きているようには思われますが、カプローニのいうように、創作的人生は10年限りであり、その限られたなかで、美しく生きるということが描かれているのです。
 ラストの場面では、堀越二郎が夢のなかでカプローニと菜穂子に再会する場面がありますが、これは堀越もまた死んだのだという解釈もできますが、菜穂子が「生きて」といっていることと、カプローニとの10年という創作的人生の話を踏まえると、創作的な人間としての人生は終わったということなのだろうと解釈できるのではないでしょうか。その後も堀越二郎はただ、生きたのだということなのだろうと思われます。


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No title

そうかそんな見方もあるんだなと感心しました。
しかし私は映画はやはり娯楽性が必要だと思っています。色々な知識と見識がないと楽しめないのはやはり作品としてはいかがなものかと感じます。
映画館に勉強しようと思っていく人はいないでしょう。見たことによって学ぶことはあるでしょう。
何かテーマが無いと行けないというのはおかしいと思いますが、少なくとも居眠りせず、ワクワクと展開を楽しむ作品がいいです。
私のような凡人には高度すぎた作品でした。

テーマなき生

読み応えのあるレビューをありがとうございました。
全面的に同意です。私も批判も数多く見ましたが、私にはかえって美点に見えるものも多く、不思議なものだと思っていました。
主役の棒読みも、いつしか技術者特有の朴訥さに聞こえ、
時間の飛び方も、なんの時間的説明がないことも、かえって夢と現実があやふやになっているようで引き込まれ、
完全な悪人も善人もいない、戦争を否定も肯定もしない、ただ夢に従事して巻き込まれていく主人公の立ち位置も、リアリティがあってよかった。
そんな意味では、とてもリアリティがありました。私の人生にはテーマはない。仕事に生き、恋愛に生き、人ともめ、仲間と楽しく飲む。その全体があって、生きることに特定のテーマはないのです。
そして矛盾だらけで、ツッコミどころの多い生き方をしている。
そんな自分をいい意味で投影し、生きようと思える映画でした。
派手な冒険はないけれど、人を愛し、自分の中に風が起こった瞬間をまざまざと思い出させてくれる、そんな映画を、アニメという手法が可能にした、しかも絵本のようなジブリ特有の絵柄で!というのが衝撃的でした。
私も間違いなく、これはアニメ史に残る傑作だと思います。

Re: テーマなき生

コメントありがとうございます。
「テーマなき生」、実に簡潔なお言葉です。ジブリ映画は確かに冒険活劇のようなものを今までやってきましたから、それじゃなければいやだという意見も最もですが、だからといってそれでこの映画を否定することはやはりできないと思いますし、また不自然ですよね。
それに、人の人生というものにテーマなんてものはありはしません。人間はそんな一貫したことなどできませんからね。そうした部分を描いたからこそ、リアリティがあったと私も思います。
それに、アニメだからできたということもある。同じような見方をしている方にコメントを戴けて私も嬉しいです。

今やご存知かもしれませんが、絵コンテによればラストシーンでの二郎は亡くなっています。しかし、庵野監督の提案により絵はそのままに台詞だけ「きて」を「いきて」に変えた為、観客を混乱させる結果になったようです。

私は今作のテーマを「矛盾」だと思っています。美しさと呪いであったり、愛とエゴイズムであったり、理想と現実であったり、生きていく上での矛盾を描いた作品だと感じました。
喫煙シーンが問題になりましたが、あのシーンはまさしく矛盾そのものです。(左手で菜穂子の手を握り右手で煙草を吸う二郎のシーンです)
人は外にも内にも矛盾を抱えながらそれでも生き抜かねばならない、そう言われている気がしました。
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Author:幽玄

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