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映画『風立ちぬ』 感想とレビュー 賛否両論を越えて

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-はじめに-
 多分にネタバレを含むので、まだ見ていない方、ネタバレがダメな方は読まないようにしてください。
今年の夏は、金曜ロードショーでジブリ祭りをしていて、ジブリ映画への熱が高まってきているかと思います。さる7月20日に公開した、ジブリ映画最新作『風立ちぬ』は、公開以前から話題となっていました。
 ネット上でも、今作の主人公が、トトロで出て来たサツキとメイのお父さんと同じだとか、ラピュタのムスカと同じだとか、キャラクターの類似性が指摘されてきました。日本の漫画、特に手塚治虫などは、似たキャラクターを別人物として描くことを多用した作家ですが、ジブリ映画にも、今までどこかで出て来たようなキャラクターを使用するということをしているようです。
 現在ネット上では、賛否両論に極端に分かれています。その点を踏まえたうえで、何が評価できるのか、何が評価できないのかととともに、作品への考察をしていきたいと思います。

-風立ちぬ、賛否両論-
 『風立ちぬ』の原作は堀辰夫の中編小説です。しかし、小説と映画とはまったく異なります。ほとんど別の作品と考えた方がいいでしょう。この小説『風立ちぬ』にさらに堀越二郎の人生の物語を加えて、かなり大胆に変更をしたものが『風立ちぬ』です。宮崎監督は、2009年から、漫画として『風立ちぬ』を公開しており、今回の作品はその漫画の映画化です。2008年の『借りぐらしのアリエッティ』からやく五年ぶりの映画になります。

 さて、映画はすでに賛否両論に激しく分かれ、厳しい意見の攻防が続いています。私の立場を先ず明確にしておくと、今までのジブリ映画の最高峰と言っても良いくらいにすばらしい作品だと感じています。
 一つ前提としておきたいのが、商品などは賛否両論に激しく分かれた方がいいものであるということです。また文学の立場から見ても、賛否両論、多様な読み方ができるというのは、テクストに力があるからだということになります。ですから、この作品が賛否両論を持っているということは、ある人には、とても感動を呼び、ある人にとっては、ものすごくつまらない作品に感じるということになるのだと思います。好きな人はとても好きになり、嫌いな人はとても嫌いになるということだと思います。
 多用的な解釈ができるということは、それだけ人によってどこを受け取るのかということが別れるのだと思います。酷評する人たちの意見をいくつか考えて、映画の見方といったものを考えてみましょう。

〈初期の才能はもう枯れてるので、ああいう冒険活劇は宮崎はもうとっくに無理だよ  今回は単純に泣かせに来てるんだろう〉
http://sonicch.com/archives/29416763.html
〈人物の描き方が浅く感情移入できませんでした。何に焦点を合わせて描きたかったかはっきりせず、全体に散漫な感じを受けました。2時間がこんなに長く感じたのは、しばらくぶりでした。初期の宮崎作品の大ファンなので残念です。期待が大きすぎたかも。それと子供さん向きではないかもしれませんね。〉
〈実在人物を参考にはしてるけど実際はフィクション、なのに話は淡々と進むだけ。飛行機設計の才能があっても現実的すぎるレベルで、映画やアニメらしい過剰さも無く驚けない。ちょくちょく出てくる夢のシーンで何とか現実離れを演出しようとしてるけど、段々しつこくなってくる。
主人公の庵野さんは普通に素人の棒読み。何が狙いなのか不明、肝心の告白シーンであの棒読みはきつかった。
戦争の悲惨さを伝えようとしたわけでも無さそうだし、中途半端感が否めない。子供と観たけど終始つまらなそう、可哀想すぎて早く終わって欲しかったほど。絶賛してる人は自分が通だと言い聞かせたいのかな。
ジブリにはやっぱり、空飛ぶ城や猫バスや魔女、顔無し、ファンタジーな話の上で細かい描写で更に驚かせる、それに徹して欲しいな…
これ、ジブリじゃなかったら売れないでしょ。ジブリ大好きだけど、今回はさすがにTVでも退屈なレベルの内容でした。平坦で真面目すぎ、残念。〉
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id344584/s5/p0/or1/ds2
と、このような酷評が目立ちます。

 こうした反対意見の人に共通するのは、『ナウシカ』や『ラピュタ』といった冒険もの。私たちとはことなった不思議な世界の冒険を通じて、主人公たちが成長していくような物語を求めているということです。主人公たちは完全に善いものであって、悪役がでてきて、最後にはやっつけるなり、和解するなりしてハッピーエンドがある、そうした黄金的な物語を求めて観に行っているのです。そのように激しい思い込みがあってから見るのでは当然作品を最初から受け付けないわけです。彼等は、自分の理想を満たしてくれないものはすべて駄目な作品、駄作になるわけですから、そのような個人の理想を勝手に持ち込んで、勝手に裏切られて勝手に酷評するという態度は、ある意味かなり傲慢のように感じられます。それは、個人に責任があり、作品に責任があるようには思われません。最初からこういう作品でなければだめだと思い込んで行くのですから、当然自分の理想以外の作品はつまらなく感じることでしょう。これは自分が作品をつまらないものにしているのだということに気が付かない限りずっとつまらないままになることでしょう。
 次に、主人公の庵野氏が下手くそだという意見。これは私も賛成です。確かにものすごく下手でした。それは当然です。声優経験などない素人ですから。
 庵野氏は、『ナウシカ』や、『ナディア』で宮崎監督のもとでアシスタントをしており、30年ほど前から師弟関係を築いてきたといってもいいでしょう。庵野監督独り立ちして、『エヴァンゲリオン』のようなヒット作を出してから、今さらになって声優に関しては素人の庵野氏を起用するというのは、ただの身内での自己満足に終わっているようにも思えます。
 しかし、映画が公開される以前から地上波放送などでたびたび放送されていたジブリ映画特集の番組などでは、しばしば宮崎監督と庵野氏の映像が流れていましたが、そこで一貫していることは、宮崎監督の庵野氏への評価が何十年と変わらずに「真面目であること」ということでした。そうして、宮崎監督はこの映画を作る際に庵野氏以外には思いつかなかったと語っていることなどから、宮崎監督がこの映画で登場させたかった主人公は、今までのような冒険をしたり、様々な登場人物と多様な会話をして成長していくような、明るい好青年ではないということです。
 大学で去年からエヴァンゲリヲンを研究していた私としては、庵野監督の人間性というようなものは、例えばゲンドウやシンジの両方にそれぞれ表れているのではないかと感じています。庵野監督というのは、とても繊細で、生真面目で、ある意味でくの坊のように融通の利かない人なのかもしれません。人との距離感もうまくつかめないような、今の言葉で言えばコミュ障(私はこの差別的な表現を非常に嫌悪しています)のような人物であるのかもしれません。しかし、そのような人とのコミュニケーションを上手くとれないような人物だからこそ敢えて彼が起用されたということには意味があったように思われます。酷評のなかには、主人公の声が庵野氏だということを公表しなかったほうがよかったのではないかという意見もありましたが、それを敢えて映画世界でのキャリアが長い宮崎監督が公表していたということを考えると、技術的な面というよりは人間性というものを重要視したのだといったことを伝えたかったように思われます。

-技術と空白-
 スタジオジブリは確かに日本のアニメーション映画の頂点に立つようなグル―プですから、相当な技術を持っているはずです。しかし、ここ数年の映画は、あまり技術というものを重要視していないように思われます。例えばポニョ。あれはすべて手書きに近い線で、CGなどの技術は使用していませんでした。今回も、使おうと思えばいくらでもCG技術を使ったり、声優だってもっとうまい人間を起用することだってできたのです。しかし、敢えてそれをしなかったという点のほうが重いと思います。
 問題は技術があればいい映画ができるのかということです。これはよく考えればだれにだってわかることで、あらゆる分野において技術があれば良いものができるのかというとそうではありません。確かに善いものには、すばらしい技術が使われていることがありますが、しかしその反対はそうではありません。たとえいくら技術があっても、そこに心がなければ意味がないのです。
 今回の作品では、そのことが作中でも語られており、作品内と作品において二重に技術よりも価値あるものが描かれているように思われます。作中では、主人公は飛行機の設計士となって飛行機を設計します。しかし、日本の技術というものは、ドイツに行った際にことごとく、それが二十年も世界に遅れているということを痛感させられます。しかし、たとえ技術が下手であったとしても、それを越える何かがある。主人公はそう思い、美しい曲線を求めるのです。
 棒読みだし、ロボットみたいで感情移入ができなかったという意見が多々あります。この意見の前半はまったくその通りです。いくら監督であろうと、声優に関しては素人ですから、庵野氏が棒読みになるのは当たりまえですし、下手ですし、まるでロボットです。しかし、主人公の堀越二郎を、上手い声優が演じたらどうなるのかということを考えてみると、やはりそちらのほうが違和感があるように思えます。主人公堀越二郎は、飛行機のこととなると、隣で友人や上司が話しかけていても全く頓着しないような、かなりの変人です。天才と変人は紙一重とよく言われますが、まさしく堀越二郎もそうした天才肌で、人間的にはどこか欠損をかかえたような人物だったのでしょう。
 自分の作品のためになると、周りの世界がみえなくなってしまうというような人物は、宮崎監督にとっては庵野監督の人物像と一致したのでしょう。作中では、主人公目線で物語描かれますから、ずいぶん多弁なように一見すると思えてしまいます。しかし、彼が多弁になるのは、自分の夢の世界のなかと、主人公の妻になる里見菜穂子との会話だけです。おそらく作品世界を実際にあるものと考え、私たち観客が、その世界の人物の一人になって主人公のことを観察してみたら、ほとんどしゃべらない不思議な人物だと思う事でしょう。彼は夢と妻との間以外はほとんどしゃべりもしない人物なのですから。
 ここが、観客にとってはロボットみたいだと感じる原因になっているのでしょう。しかし、ロボットだからといって感情移入ができないでしょうか。むしろ、私にはずいぶん感情を込めて、いちいち色々と説明してくるような主人公の方が感情移入できません。確かにいくらなんでもアニメーション映画の主人公としてこの主人公がいいのかという問題はあります。しかし、声も平板で感情があまり表れないからこそ、そこに生まれる空白を観客が想像することができるのではないでしょうか。
 ですから、その空白の埋め方によって、意見がわかれるのではないかと思われます。感動したという人々にとっては、その空白をそれぞれの観客一人一人の過去の経験と照らし合わせて埋めて行ったのでしょう。一方酷評をした人たちは、その空白を埋めようと言う努力をせず、ただ与えられるものを待っていただけなので、いつまでたっても空白を埋めてくれるどころか、どんどん空白を描いていく映画に対して、何も理解できなかったということなのだと思われます。
 感情移入できなかったという意見は、どちらかというと、これだけ空白があるのですからできるはずだと思います。ですから、移入という言葉ではなくて、理解ができなかったという意見なのだと思われます。

-どう評価するか-
 作品の評価とは、結局のところ個人の感想の集合でしかありません。ですから、その作品の評価というものは、個人がそれぞれのなかに生まれるものであって、決して全体の意見が評価を決めるということはないのです。なので、酷評の意見を見て、それで行きたくなくなってしまったという状態はとても危険です。もし、駄作だと思ったのなら、行ってから決めなければなりません。作品を見ずして、何か意見をいうということは、決してあってはいけない話です。
 作品の評価というものは、どこまで突き詰めても、こういう見方ができるのではないかという、可能性の提示にすぎません。観たうえで、その見解に納得し、自分の意見を補強することはあっても良いことでしょう。
まずもって、私は反対意見に対して別の見方ができるのではないかということを示しました。次は作品に入っていきたいと思います。

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