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伝統的な言語文化としての歌舞伎鑑賞

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 今回は、国語の教員になるのであれば歌舞伎くらい見ておいたら良いだろうということでの鑑賞であった。その感想を私の過去の経験も含めて記したい。私は高校の自分一度歌舞伎教室へ行ったことがあった。同じ国立劇場である。しかも、名前が石野であるから、今までの学生生活のなかではあいうえお順で常に最初のほうに何かやらされることが嫌だったものではあるが、この時だけは感謝した。なんとかぶりつきである。最前列で歌舞伎をみた。今から四年前になるだろうか。歌舞伎の演目は西遊記で、蜘蛛の怪物と戦うという今回の戦いに引けをとらない壮絶な殺陣だったのを今でも覚えている。
 西遊記の見世物では、最後に蜘蛛がしゅるしゅると手の内から紙でできた糸を客席にはく場面があった。くるくると巻いてあった細い紙が私たち前列の人間にもろにかかった。歌舞伎役者はそれを回収せんとする。こちらもせっかくのお土産だからと持ち帰ろうとする。お互いが白い糸を引っ張り合う。ところが、それで綱引きになるかというと、紙なのですぐにきれてしまいそういうことにはならなかった。私の歌舞伎体験はこんなものである。
また、私は大学へ入ってからも自主的に演劇や演芸などを見ておこうと思い、様々なところへ赴くようにはしていた。駒澤の国文には近衛先生の教え子であり、狂言役者として活躍している方がいる。駒澤の狂言研究会というサークルでは、そのプロの狂言役者を講師として迎えて狂言を実際に演じているらしい。実は私の友人がその研究会の部長なのだ。大学へ入学したての時からの友人だが、一年の時には私も狂言研究会に入らないかと誘われた。今思えば入ってもよかったかも知れないが、しかし私の舞台は教壇なので遠慮しておいた。ともかくその縁があって、毎年夏、海の日に行われる観世能楽堂の善竹狂言会へ見に行っている。今年も行く予定だが、今年行けば三回目になる。友人と狂言の役者が師弟関係ということもあり、私は狂言の舞台裏へ入れてもらったことがある。舞台左の幕を、内側から上げさせていただいたこともある。そんなことだから、今回の歌舞伎教室は少し他の学生よりかは知識も経験もあったのではないかと思う。
 高校時に見た演目が西遊記だったのは、わかりやすかった半面、少々残念でもあった。せっかくなのでもっとなにか日本めいたものが見たいと思っていたのである。今回は、長野出身の友人の資料もあり、長野に伝わる怪談のようなものを下敷きにした物語だというのが一つポイントだったように思う。私と怪談との接点は、近現代をやっているとなかなかないのだが、しかし小泉八雲などの方面からいくつか知るところである。西洋の知識がはいってくるまえの、混沌としていながらもどこか人間味のあるこうした話にはとても興味がわく。ハーンが求めた日本の古き物語への憧れというようなものは、ハーンを読む我々も感じるところである。
だが、今回の歌舞伎もそうした日本日本めいたものが見られるのかと思っていたら、突然の「ガリレオ」の音楽でびっくりした。私はまた、日本めいたものを見にいくつもりでいたら、最初の説明から、歌舞伎は当時から新しいものを取り入れる三谷幸喜がつくるような演劇のようなものであったとまで言われたらこちらも終わりである。
解説をしてくれた中村隼人君と虎之助君は、いずれも我々より若かった。それがなによりの衝撃であった。自分がこんなに歳を取ったものかということが心を傷づけた。冗談だが、それにしても、我々より若い人がこんなにも一生懸命になにかをやっている姿というのは、凛として美しいものがあった。私の友人には茶道や書道をやっている人間がいるが、やはり道というものをやっている人間はその一挙一動が異なる。歌舞伎は道ではないが、伝統芸能である。こどものころから私たちの受験勉強の比ではないくらい、身体に仕込まれた芸がある。一緒に歌舞伎を観に行った女子などは、彼らを見ていると自分が何をしているのかわからなくなると言っていたが、それを聞いた友人がさらに、こんな私たちと比べたらあちらに失礼だとまで言ったから驚いた。何もそこまで卑下することはないと思った。

 歌舞伎には、常磐津、武本、長唄という三つの彼らの説明いわくバックミュージックなるものが存在するのだと初めて知った。どれも似たようなものに思えたが、しかしその差異を実演してもらうとなるほど、少しづつ違いがある。こういうものを見てしまうと、歌舞伎役者にまではなろうとは思わないが、しかし、あの長唄の連中に交じって演奏してみたいとは感じる。
 狂言は、歌舞伎よりも聞きやすいように私には感じられる。現代の日本語に近い気がする。今回の歌舞伎は、台本があったからよかったものの、また電光掲示板などがあったからわかったものの、おそらく何もない状況で見せられたら、特に唄はまったくわからなかっただろう。この点、もう少し知識というか、判別する能力をつけないものである。
 しかし、狂言と異なる歌舞伎の魅力というものは、見事な衣装、派手な立ち回り、激しい殺陣などの動的なものが含まれてくることである。今回は、前半では女性的な美がメーンとなり、後半では打って変わって男性的な激がメーンになっていたと感じた。中川俊宏氏の随想として、「鬼女の誘惑」という面白い文章が配布された資料に含まれていたが、こうした物語にもどこか普遍的なものを感じられて仕方がない。あまりも美しい女性というのは、どこか怪しいものである。私も美しい女性には男として惹かれていくことは認めるが、しかしあまりにも美しすぎる女性を見ると、この人とは付き合ってみたいとは思わない。何をされるかわからない。
 それでもなお、あまりにも美しいものへの憧憬というようなものは捨てきれない。これは怖さの本質とはなにかという点にもかかってくるだろうが、一見とても美しく非の打ちどころがないようなものが、突然鬼に変容するというのは、最初から鬼がでてくるよりももっと怖い。その落差、あるいはギャップというものに人間は惹かれるのかもしれない。現代風に言えばギャップ萌えである。
 
 歌舞伎はある意味で非常に日本的だと感じる。日本の文化というものは、なんでもよさそうだとおもったら取り込んでしまうという傾向がある。歌舞伎も新しいものを取り入れながら徐々に新しいものへと変化している。伝統を守る一筋の芯と、新しいものを取り入れるその勇気というようなものが、素晴らしいと感じた。西洋では、古い演劇形式は新い演劇形式が生まれるとともに衰退して上書きされていくと聞いたことがある。それにたいして、日本は新しい演劇形式が生まれても別のフォルダとして保存するので、けっして古いものがなくなったりはしないのである。歌舞伎は四百年も続いている演劇の形式である。それだけでもすごいが、更にすごいのが、今なお進化を続け、現代でも受け入れられる普遍性を持っているということである。歌舞伎の見どころはいろいろな箇所があろう。もっと歌舞伎の知識経験を重ねて行けば別のことが見えてくるだろう。とても奥の深いものである。今回『紅葉狩』を見てこのように感じた。

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