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大衆的とはどういうことか

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-音楽というジャンル-
 大衆的という観念は、実に曖昧模糊としたもので本当に存在するのかも謎ではあるが、確かに我々は「この作品は大衆的だね」などという言葉を使用し、それをそれほど困ったことにならずに使用している点から、だいたいある意味を持っている観念だろうと推測する。大衆的という観念に対して、最初芸術と娯楽という二つの概念を提示してアプローチを試みた。しかし、芸術と娯楽という二項対立的な二元論ではこの問題に対して解決の糸口が見つけられないと思い、さらにもう一つの概念を提示しつつかんがえて行きたい。
 先ずは音楽から考えたい。音楽の方が他のジャンルよりもより普遍性が高くて、大衆的ということを考えやすいだろうと予測したからである。音楽というジャンルにおいて大衆的とは何か。これはアイドル論にも関わってくると感じる。例えば、日本の音楽界において最も大衆的であった人物はだれであろうか。国民栄誉賞にも輝いている美空ひばりを超えるスターはいないのではないかと私は感じる。戦後からスターと呼ばれるみんなの憧れの的が日本の歌謡界には存在したように思われる。(ちなみにスターというと、映画スターのほうを一般には指していたようである。ここでは映画についても言及したいが、割愛せざるを得ない。また、スターの存在は70年代あたりまでと考えられるとの指摘を戴いた。)そのスターは、美空ひばりを頂点として徐々に一般人に近づいてきた、あるいはその地位の価値をはく奪されてきたというのが私の考えるアイドル論である。美空ひばりの次は、山口百恵、それから松田聖子、SMAPとなった。松田聖子をはじめとするアイドルたちは、大衆的であったが、徐々にその色を特定の分野の人間に絞り始めている。美空ひばりが全年齢に大衆的であったのに対して、SMAPまで時代が下るとある特定の女性のための大衆になってくる。ただSMAPや嵐などはまだ普遍性が強く、これらは大衆という言葉の中に集約することができると思う。
 そしてアイドル論並びに今回の大衆という事を考えるうえでその草分け的な存在になるのがAKBの存在である。果たしてAKBは大衆的であるのか。AKBはここ数年メディアにおいて非常に強力な影響力を有しているように思われる。どの番組を見てもAKBのメンバーのだれかは写っている。しかし、AKBが大衆的で在り得るのはその存在形式によってという側面が大きい気がする。すなわち、AKB全体として見た際には大衆的であっても、それを構成する個々人のメンバーは決して大衆的ではないということである。これはアイドルグループすべてに言えることである。アイドルが一人で、対象となる人物が一人であればそのアイドルは大衆的な人物であり、音楽でありえた。しかし、グループと化したために、アイドルは全体では大衆的だが、個人はそこまで大衆的ではなくなってしまったのだ。

-メディアから見る大衆性-
 アイドル論から大衆的を考えてみた。次にメディアの側面から見たい。大衆的という概念を生み出しているのはメディアの力が大きいと感じる。テレビを付けた際に比較的写っていて目に入るというのは大衆的ではないだろうか。すると紅白に出場するアーティストは大衆的だろうと仮定ができる。しかし、例外も多い。去年出場した美輪明宏が大衆的かと聞かれると首肯し辛い。また、かつては大衆的であったかも知れないが、時が経つと大衆的でなくなるということもあり得そうである。また紅白はNHKが提供しているということもあり、アーティストに偏りがあることは認めざるを得ない。他には歌謡祭などの音楽番組も大衆的という概念を創り出しているのに影響しているだろう。また、ミュージックステーションなどに登場することもまたアーティストにとっては大衆的になるための要因かも知れない。
 大衆的という概念が、メディアへの露出度で左右されるのではないかと考えた。これは比較的正しいように思われる。B’zなどのメディアへの露出が少ないアーティストなどは、こちらから赴かない限り情報が手に入らないことが多い。B’zはコアなファンも多く、その音楽も有名であることからかなり大衆的に近い存在と思われる。しかし、今のメディアの露出というものを考えると、B’zがはやった時期を知らない我々よりも若い世代にとっては認知されないということになるだろう。
 また、一部の音楽ファンから人気のあるテクノとよばれるようなジャンル(この点に関しては薄学なため誤解が含まれることもあると思うので了承願いたい)で活躍する平沢進などは、「ステルス・メジャー」なる言葉を使い、コアなファンは知っているが、全体的にみた時には隠れていて見えない、つまりメジャーではないということを自認している。
 大衆的という言葉とメジャーという言葉はニアイコールの関係で結べる気がするが、そのメジャーというのは、一般的にはテレビで放送され、お茶の間での認知度のことを差し、次にはネットなどを通じて一部の人間のみによる認知という段階があるように思われる。

 今まで特に断りもなく日本の現代音楽のみを扱ってきた。次は音楽をより広く見て考えてみよう。大衆的≒メジャーと考えられる音楽形態はおもに近現代のポップな音楽である。戦時中は軍歌が大衆的であったこともあろうが、大衆的という概念が時代や世代によって変化するということからもこれはもう大衆的とは言えないだろう。
他にも、かなりハードなソウル音楽や、ロック音楽などは、queenなど大衆的と思われるアーティストも存在するなかで、ジャンルとしてはややポップ音楽よりも普遍性の面において劣るかと思われる。
 音楽の源流と言えば、クラシック音楽が思い浮かぶ。もともと原始的な音楽であったのを極限まで芸術的に高めたのがクラシック音楽だろう。これもまた、かつては大衆的であったと考えられる。日本においてこそ小難しい感じがするが、国家予算の三分の一を芸術に投資して擁護しているオーストリアなどでは、今なおクラシック音楽はいたるところで上演され、大衆的と言わないまでもかなり親しみのある音楽のジャンルなのではないかと考えられる。さらに、時代をさかのぼっていけば、音楽に声をのせてうたうという形式は古くから宗教的な儀式等であったかも知れないが、それが芸術にまで発展したのは時代の下ってからのことだろうと思われる。クラシック音楽もまた、かつての宮廷文化内においてはメジャーであったのではないだろうか。

-文学というジャンル-
 大衆的という言葉、概念に対して音楽という媒体からアプローチをかけてみた。音楽においても、さらにその下位層のジャンルから考えてみた。このことによって、大衆的がどのような側面や傾向を持つのか、ある程度考える視座が確立されたと思う。次に、私の専門である文学からもアプローチをかけてみたい。ここでは、芸術、娯楽という二項対立を超えた考えができるのではないかと思う。
  先に見た音楽というのは、そのもの自体がそれほど難解でもなく、またこういう見方をすると音楽を専門になさっている方からは反論がでるだろうが、媒体自体としては受身でも享受できるという点は共通した理解をできるだろうと感じる。もちろん、音楽も歌う、演奏するという段になると主体的になる。けれども、聴く行為に関してはどこか受動的である感覚がする。少なくとも多くの人びとはそう思っているだろう。なので、音楽の本質のようなものは見えてこない、また意識することなどないにしても、音楽を聴くという行為は、比較的楽な行為であるように思われる。「今日はちょっと疲れたからテレビでも見ようか」と同様「音楽でも聞こうか」というセリフは往々にしてまかり通るように感じる。
 対して、文学はどうだろうか。私個人は本を読むことが慣れているので、「疲れたから本でも読もうか」ということは通常のことであるが、多くの人にとってこれはちょっと考えづらいのではないかと察する。本を読むという行為はどうしても、こちらから働きかけなければならない。音楽はこちらの意識が瞬間的に飛んだとしても流れ続ける。それに対して、本を読むという行為は意識が飛んでしまえば成立しえない。この受動的、主体的な差というものが音楽と文学の媒体の一つの差になると思われる。
 そうすると、音楽とは異なって、文学というジャンル自体がそもそも媒体として難しい、主体性を求める、大衆的ではないということになる。活字離れが叫ばれる昨今、ますます文学というジャンルは大衆的という概念から離れたものとなってきているだろう。約100年前は、テレビもない、ラジオもない時代だったので、小説以外には娯楽はなかった。しかし、今ではPCもタブレットもある。そのなかで小説の占める割合が少なくなるというのは必然のことであろう。
 このように文学というジャンルはその存在すら危ぶまれるような状況にはあるが、しかし決して廃れないであろうと私は思う。動画が発明されたとき、写真は廃れると思われたそうだ。しかし、写真は決して廃れなかった。いくら他のジャンルの娯楽などが隆盛しようが、やはり人間の真理、精神の機微、普遍性などを描くことのできる文学というジャンルは消えようがないだろう。


 少々話がそれたが、文学の中においての大衆的という言葉を考えて行きたい。
 文学において大衆的というと、例えば村上春樹などが思い浮かぶ。文学というジャンルにも、音楽と同様一応のジャンル分けのようなものが存在する。まさしく今回の問題となっている、大衆小説というようなジャンルもあれば、純文学、ライトノベルというようなものまである。
 音楽で使用した際の手法と同じものを用いてみよう。有名であれば大衆であり得るだろうか。村上春樹は有名である。小説の内容は作家自身がわざと狙っているのかはわからないが、ジャンルをまたぐような微妙な小説を書いている。純文学と言えなくもないが、大衆小説とも言えなくもないというものである。だが、多くの人間は村上春樹は大衆的だというだろう。大勢の人間が大衆的だというのだから、大衆的でいいように思われる。
 次に有名という事で言えば芥川賞と直木賞である。最近は文學畑でない人も本屋大賞など別の賞にも興味を持つ方が増えて来たように思える。とてもいいことだと感じる。芥川賞と直木賞は、一応は直木賞が中堅で売れている大衆小説、直木賞が新人純文学作家ということになっている。一応はと先に断ったのには、このことが断定して言えない理由があるのだが、それはあまりにも本論からかけ離れるためここでは割愛する。
 すると直木賞はどうやら大衆性がありそうに感じられる。2000年代に入ってから本をあまり読まない人でも知っていそうな名前を挙げてみる。2003年、石田衣良、村山由佳、江國香織、京極夏彦、2004年、角田光代、2005年、東野圭吾、2006年、三浦しをん、森絵都、2007年、桜庭一樹・・・。勿論文学を専門とする私からすれば他の作家もぜひ知っておくべき作家であることは言うまでもないが、誰もが知っているとなるとこのあたりになるだろう。これらの面々を見た際に、確かに多くの人に読まれているし、大衆的であるとは感じる。しかし、文学を専門とする私としては、これらの作品が必ずしも文学的に素晴らしい作品であるとは断定できない。どうやら、大衆的であることと、芸術的であるということは、必ずしも同一線上にあることではないようである。もちろん例外もある。芸術的に素晴らしい作品が大衆的であるということは往々にしてあることである。
 さて、それに対して、芥川賞で受賞するような作家はどうであろうか。昨年度メディアを賑わせた作家の例が、この賞の性質をよく表しているだろう。黒田夏子の「abさんご」は、文学部の人間としては、こんなものが書けるのか、すごいという驚嘆、すばらしい文学性を感じたものであるが、これはおそらくほとんどの本を娯楽として読んでいる人々にとっては苦痛以外の何物でもなかったと思う。どうもこのあたりに、芸術性と、大衆性というものの差異が見えてくるのではないか。
 文学的な価値があるというのは、芸術性が高い、強いという要素を持つ。それに対して、大衆性が高い作品というのは、往々にして娯楽的な側面が強い。芸術と娯楽というのは、しばしば同一線上で、しかも二極に位置しているかのように考えられることが多い。しかし、私はその考えから脱却したいと思う。作品が芸術的であるか、娯楽的であるかという二項対立は、一見明快なようであるが、思考をストップしているように思われる。さらに、私はもう一つの概念、しばしば否定する際に使われる「通俗的」という概念を提示して考えてみたい。
 そもそも文学における芸術性とは何かという論までやっていると収拾がつかないので、これも割愛させていただく。しかし、なんとなく芸術性というものはあるように感じられる。文学作品は普段は読みたいとは思わなかったとしても、なにか芸術性があるのだろうなとは感じるだろう。それに対して、多くの人々が普段読む大衆小説は文学的な価値があるのかというと、そこまであると思っている人はそういないだろう。また、ここ20年ほどで突如として沸き起こった新しい文学のジャンル、ライトノベル。これは多くの人々が文学的な価値はなく、大衆的というよりかは通俗的であると考えるかも知れない。決してこのジャンルを否定するものではないが、確かに文学に限らずとも、大衆的なものよりもさらに軽薄で、内容が無く、そのぶん使い捨てのような軽い気持ちでその場限りで楽しめるものが通俗的なものとして存在するようである。
 私は大衆的とは、この芸術と通俗の間で、より多くの人々が受容できる限られた範囲に過ぎないのではないかと感じる。色が徐々に変化していっている一直線上の表を想像してもらいたい。そこで例えば赤から青に変わる際、色は徐々に変化していっている。しかし、そのどこかにはみなが紫だと認識する部分があり、その境界などは永遠に引くことはできないだろう。大衆的もこのようなことではないだろうか。赤が芸術で、青が通俗とすると、みなが紫と認識できる範囲が大衆的であるという概念を与えてもさほど問題はないと思われる部分である。村上春樹はここで言えば、赤と紫の間くらいだろう。人によっては文學だと言うし、人によっては大衆的だと言う。この色彩の定規は人それぞれ異なるだろう。だから、そういないとは思うが、村上春樹が通俗的だと見える人が居てもおかしくはない。人とかなり判断基準が異なることにはなるが。
 私はこのように大衆的であるとは、本質的に線引きができない段階において存在する概念であると考えた。

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No title

おもしろく読ませていただきました。
しかし難点をふたつ。

>戦後からスターと呼ばれるみんなの憧れの的が日本の歌謡界には存在したように思われる

戦後からのスターは70年代まで映画界にいました。
歌謡界は格下と見られていた。
美空ひばりも映画スターとして認知されていた。
テレビは70年代にやっと映画並みのカラーが普及して歌謡番組も増えた。

>美空ひばりの次は、松田聖子、それから山口百恵

正しくは、美空ひばりの次は、山口百恵、それから松田聖子。
年代順でもそうですし、貴殿の論ずる趣旨においてもそうです。

Re: No title

ナイス様、貴重な指摘をどうもありがとうございます。
スターというと映画スターを指すという点を失念しておりました。私のような若いものが過去を振り返るとき、どうしてもわからない部分が出てきてしまいます。
また美空、山口、松田の順番の指摘もありがとうございます。さっそく直しておきます。
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