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映画『坊つちゃん』試論 感想とレビュー 原作との比較を通じて

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-初めに-
 夏目漱石の『坊ちゃん』といえば、日本じんならだれでも知っている名作中の名作でしょう。今回は、1977年に映画化された『坊つちゃん』を比較対象として、そこに描かれるもの、そこから浮かび上がるものを考えて行きたいと思います。
 流石に名作中の名作とあり、いくつも映画化されてきたようです。映画だけを追いかけても、ひとつの素晴らしい論文が書けるでしょうが、あいにく私は1977年のものしかみていません。
ウィキペディアから引用します。
  ・『坊つちゃん』(1935年 監督山本嘉次郎 坊っちゃん:宇留木浩、マドンナ:夏目初子、清:英百合子、山  嵐:丸山定夫、赤シャツ:森野鍛冶哉、野だいこ:東屋三郎、うらなり:藤原釜足、狸:徳川夢声)
  ・『坊っちゃん』(1953年 監督丸山誠治 坊っちゃん:池部良、マドンナ:岡田茉莉子、清:浦辺粂子、山   嵐:小沢栄、赤シャツ:森繁久弥、野だいこ:多々良純、うらなり:瀬良明、狸:小堀誠)
  ・『坊っちゃん』(1958年 監督番匠義彰 坊っちゃん:南原伸二、マドンナ:有馬稲子、清:英百合子、山   嵐:伊藤雄之助、赤シャツ:トニー谷、野だいこ:三井弘次、うらなり:大泉滉、狸:伴淳三郎)
  ・『坊っちゃん』(1966年 監督市村泰一 坊っちゃん:坂本九、マドンナ:加賀まりこ、山嵐:三波伸介、赤  シャツ:牟田悌三、野だいこ:藤村有弘、うらなり:大村崑、狸:古賀政男、小使:三木のり平、その他:桜  むつ子)
  ・『坊っちゃん』(1977年 監督前田陽一 坊っちゃん:中村雅俊、マドンナ:松坂慶子、清:荒木道子、山   嵐:地井武男、赤シャツ:米倉斉加年、野だいこ:湯原昌幸、うらなり:岡本信人、狸:大滝秀治、小夜:五  十嵐めぐみ、〆香:宇都宮雅代、小使:今福将雄)

 こうしてみると、これだけでもひとつの映画史を見ているような感じを抱きます。やはり誰もが知っている作品というのは、それだけ見る者の眼が厳しくなります。ましてや『坊つちゃん』のような万人が知っている作品であれば、それを映画化するというだけでもかなり厳しい眼に晒されなければならないので、自然監督も本気になる、役者も本気になるのでしょう。

-原作との違い 前半-
 1977年の映画では、坊ちゃんを中村雅俊が、マドンナを松坂慶子が演じます。70年代、80年代の映画の大スターです。この二人の組み合わせを見ると、1982年に公開された『蒲田行進曲』を思い出します。中村雅俊は出演こそしていないものの、劇中で「恋人も濡れる街角」が流れます。中村雅俊と松坂慶子の間に何かしらの縁があったのではないかと思わせませんかね。
 映画版では、原作よりもはやく人間関係の対立というものを表面化させてわかりやすくしています。山嵐役を若い頃の地井武男が演じていて非常に精悍な面持ちです。その山嵐とは、原作では最初はなかなかいいやつかなと一度思い、そこから赤シャツの策略によって悪いやつだと信じ込み、またいいやつだと思うというサンドイッチ構造になっていますが、映画では、最初のパンが省略されています。赤シャツにだまされるまでもなく、最初から坊ちゃんと山嵐は対立関係にあるのです。
 原作が一人語りではじまるために、映画ではどこから映像化するのか気になりましたが、松山中学校へ向かう、汽車、舟、人力車の順で移動手段から描き始めています。そのなかで、なぜか舟に山嵐が同乗していて、最初から戦い始めるという「無鉄砲」振りが余計に強調されています。

 原作では、徹頭徹尾西洋風のものは排除されています。それは、坊ちゃんという語り手が、西洋風な女性であるマドンナを認めず、赤シャツを認めず、封建的な昔の日本を懐古しているからです。赤シャツ襲撃時には、袂(たもと)から卵を投げつけるという描写がありますから、坊ちゃんが基本的に和服を着ていたということがわかりますが、映画では、山嵐は和服ですが、坊ちゃんは洋服を着ています。
 しかも、学校の職員はかなりの人間が洋服を着ていて、原作では坊ちゃんの語りによって隠されていた西洋化が表出してきていると感じました。

 山嵐との対立構造が最初からできてしまうと、下宿を斡旋する役が山嵐ではおかしいことになります。原作では下宿を点々とするのもひとつの作品の魅力、(宿を一定の場所で落ち着けることができない放浪者としての側面が描かれているのだと私は思っていますが)が描かれません。宿の次に入る下宿は映画が終わるまでかわりません。なぜか質屋の空いている部屋に下宿することになりますが、そこへ斡旋してくれたのはうらなり君です。うらなり君の役は、最近何故か雑草を食べる変な役回りをさせられている岡本 信人が演じています。

-表出する女性像-
 作品前半はそこまでといって原作との差異は開きませんが、徐々に徐々に描こうとしている内容が原作とはことなるということが浮かび上がってきます。
 原作ではマドンナはほとんど登場しませんでした。少なくとも坊ちゃんとマドンナには会話をするような関係はなかったと思われます。一度赤シャツと歩いているマドンナと遭遇こそしますが、マドンナと坊ちゃんは面識はないと思われていました。ところが、映画ではマドンナがかなり現出してきています。マドンナと坊ちゃんとの関係がここでは描かれるのです。
 原作では影を潜めていたマドンナの存在は、映画では松坂慶子を配し、かなり重要な役として登場します。ここから原作の価値観とは異なった価値観が浮かび上がってきます。原作ではうらなり君のような素朴で素直な男は君子であるとして一方的に尊敬、賛美される対象でした。原作では坊ちゃんや山嵐、うらなり君のような人間的に素朴で、どちらかというと表裏のない人間こそが良いという価値観が前提となっていましたが、映画では異なります。
 うらなり君は決して手放しですばらしい人間だとは描かれません。うらなり君をすばらしいと思っているのは坊ちゃんや山嵐に限られ、本当にうらなり君がすばらしい男なのかということは、映像という客観的な資料によって観客に判断基準が移ります。今までは坊ちゃんの語りによって坊ちゃんの価値観が全てであったのが、映像化されることによって価値判断をするのは観客になったということです。
 うらなり君が善人であるという事は相対化され必ずしも良い人間とは限らなくなります。その結果一方的に悪だと判断されていたマドンナもまた相対化され、本当に悪なのかというと謎になるのです。
 映画では、マドンナをはじめとして、女性が数多く登場します。この点は、原作では清の存在によって隠されていた女性たちだと私は思います。原作では、松山に赴任している際に何故女性が全然表出してこないのかということが謎になります。いい年の男性であれば、生理的な現象として女性を求めるはずです。ところが、坊ちゃんには女性が全然出てこない。清との関係は、原作では二編も三編も変転します。作品最後に至っては清は下女ではなく、自分の妻であるとまで錯覚するのです。原作においては清の存在は、坊ちゃんの妻という存在にまで高められます。しかし、映像により客体化されると、そういうわけにもいきません。坊ちゃんのこころは清に向かっていたとしても、坊ちゃんの回りに女性がいないとは限らないからです。
 山嵐は学校を停学にされた生徒の姉、芸者と並々ならぬ関係があります。また、下宿先の物知りなばあさんの代わりには、うら若い下宿先の娘の存在が現れ、都会から来た坊ちゃんに対して恋愛感情を抱いているような側面が描写されます。そして何といってもマドンナの登場ということで、全体的に女性との関係が強く描かれているように変化しています。


-新しい女-
 うらなり君、マドンナの存在が相対化されると、もう一人相対化される人物がいます。それが赤シャツです。原作ではよっぽど極悪な人間として描かれていた赤シャツ。映画でも確かに悪役として登場しますが、しかし、どこか恰好よく、知的で西洋化された洗練された人間として登場します。
 冒頭でこそ演じ方が誇張されているので、どこか鼻にかけたような人物だなと思いますが、うらなり君がけっして完全に良い人ではないということが描かれるにしたがって、赤シャツも必ずしも悪人ではないように思えてきます。うらなり君が親の取り決めによって動く、慣習にしばられた人物として描かれるのに対して、マドンナと赤シャツはその反対、自分で自分を律して動く人物として描かれます。原作ではぼっちゃんが前者の側の人間だったので、マドンナや赤シャツは義理や人情を守らない非道な人間として映ったのです。しかし、赤シャツは確かに西洋かぶれかも知れませんが、ある意味では自分の欲望に従っていてその点では実に素直な人間かもしれません。赤シャツに感化されることによって、マドンナは一人の新い女性として生まれることができるのです。
 マドンナはその生まれ持った美貌をして、一人の自立した女性でありたいと望むようになります。彼女は男性の支配下にみすみす収まることを容易としないのです。そのため、うらなり君が親の決めた結婚だからと言い寄るのに対して、赤シャツは一人の対等な人間として交際を求めます。西洋化された赤シャツとの交際によって、マドンナは徐々に新しい女性に変革していくのです。彼女は最後に東京へ出て仕事を持つと言って坊ちゃんと同じ頃に東京へ向かいます。
 最後は赤シャツがマドンナに振られるという原作にはない描写があるのですが、しかし、赤シャツの振られ方はどこかみじめさというよりも恰好よさが目立つような描かれ方をしていると私は思います。

-終わりに-
 作品の別の部分では松山中学校と、師範学校との対決といったいかにも映画にうってつけの戦いが描かれます。個人的にはこれはちょっと余計かなとも思いましたが、やはり必要なものでしょう。松山中学の学生はバッタを入れたりと卑怯な学生たちというひとくくりで規定されていますが、映画では師範学校と最終的に決着をつけるということになり、100人規模の大乱闘にまで発展します。ここでもやはり、坊ちゃんの独善的な判断から解放されるような動きがあるということがこの映画のメーンになっているのではないでしょうか。
 こうした点を考えると、原作とは真っ向から対立するような、相対化するテクストになっているのではないかと私は感じます。もちろん原作と映画とは作品が異なりますから別のものだと考えるほうがいいですが、原作が坊ちゃん視点で描かれたのに対して、映画では坊ちゃんの回りから坊ちゃんを描いたといった、視点の変革が為されていると感じます。坊ちゃんの善悪が必ずしも正しいとは限らないということが大きな差異だと思います。

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