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筒井康隆『文学部唯野教授』 感想とレビュー 文学部生だけに限らず、本を読む人には必読の書として

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-はじめに-
 筒井康隆と言えば、もはや伝説とまでに化すような文学界の巨匠です。筒井文学を語る際には、これは外せないだろうという作品はほかに多々ありますが、今回は筒井文学の得意技、メタフィクションの構造を存分に使用した『文学部唯野教授』を取り上げたいと思います。
 筒井康隆は、1934年生まれですから、もう御年80歳近く。まさいく、生きる文学史的な人物ですが、意外と文壇と呼ばれるようなものからは一線を画した人物です。高校国語の教科書に収録されることになった『無人警察』の癲癇を巡る問題を契機に、断筆宣言をし、以前まで交友のあった文壇上の作家たちから非難を浴びたために、文壇とは異なる独自の路線を歩んでいる、孤高の文人といった感じがします。癲癇を巡る表現の問題は私自身、何かしら一つの言葉を差別だとするのは、文脈を重視するという点からも論理的に意味のないことだと思っているので、筒井氏側なのですが、今さら再びこの問題を蒸し返すのもなんですから口をつぐんでおきましょう。

-ブラックユーモアの作品-
 私は筒井康隆の作品をあまり読んでいないので確たることは言えないのですが、筒井文学の特徴は、夢と現実の境界線のあやふやさや、あるいはSF的な前提条件、またメタフィクション的な構造などがあげられるでしょう。
学科がら、「国文学 解釈と鑑賞」という業界紙をできるだけチェックしているのですが、筒井康隆のことを調べた際に、平成23年9月号で筒井康隆特集をやっていたことを発見しました。ここでは、現在活躍する国文学科などの教授たちが独自の筒井論を展開しているのですが、そうした筒井研究者の中でも、『文学部唯野教授』を取り上げて、メタフィクション的な構造に言及している論文がいくつかありました。
 『文学部唯野教授』は、筒井の持ち味である痛烈なアイロニー作品です。タイトルの『文学部唯野教授』というのも、「文学部、ただの教授」という意味を含んでいますから、まずもって読者はタイトルからしてどこか文学部の教授を馬鹿にしているのだなと察するわけです。ページを繰ってみますと、一行目に「ぢ亜額の講義は十二分遅れて始まり十二分早く終わるのが常識とされている」なんてことが平然と書かれています。たしかに、大学ではこういう教授がいないわけではありません。ところが、筒井文学の面白味は、それがあたかも常識であると、誇張されている点にあるのです。つぐけて「これをだいたい正確に守れぬような教授は学生から教授として扱ってもらえない」とあります。始終こんな感じの大学のブラックジョークで続けられる小説です。
 前半の数章では、小説の世界への導入ということもあり、文学部の教授側からみた大学内の構造というものが描き出されます。教授になるためにはいくつ論文を書き、どこどこに根回しをしておくとか、そうした文学部内での権力抗争の構図を描き出します。主人公である唯野は教授の称号を得ましたが、前半でしばしば唯野に懇願してくる蟇目という講師は、自分がいつ昇進できるのか、どうしたらよいのかと唯野についてまわります。もちろんこんなことは誇張ですし、確かに権力抗争があることは確かでしょうが、いくらなんでも誇張しすぎです。それがごくごく通常の論理としてまかり通っているからこの小説の人物はいやに人間味があふれた生き生きとした人物として活躍するのです。他にも、文学部の裏知識がたくさん盛り込まれています。現実レベルで考えると、作家筒井がそんなことを知る筈がないのですから、どこかで情報をリークした人間がいるなと思います。それは最後にいろいろ情報を戴いたが、そうした教授たちへの感謝をここに書くとそのひとたちが困ったことになるからといって、控えています。ここにも面白味があります。
 この小説は様々な面があるのですが、一つのオーソドックスな愉しみ方としては、こうした文学部の裏知識や、権力抗争といったものをおもしろおかしく見れるという点です。なかには講義の賃金なども書いてあって、文学部に所属する人間ですらそうだったのかと括目すべき個所が多々あります。

-文学批評の歴史書として-
 様々な読み方ができると言いましたが、他の面としては、現代文学批評の歴史をごくごく簡単に学べるという点でしょう。目次を開いてみますと、「第一講 印象批評」「第二講 新批評」・・・と続いています。ここからもわかるように、この小説の二つ目の側面は現代文学の批評がどのように起こり、発展し、変遷してきたのかという批評の歴史が描かれるのです。
 この小説はしばしば語り手の存在がうつろい、危うい語り手として存在しているのですが、基本的には三人称の唯野視点で描かれます。しかし、時に唯野の一人称になったり、あるいは自分が作家の筒井であるといったでしゃばった喋り方などをして、テクスト全体がメタ構造を幾重にも複雑にしているといった感じがします。
それぞれの章ごとで、唯野の文学部の教授たちとの権力抗争や、ちょっとした恋愛物語、裏稼業としてやっている文筆活動などの状況が描かれます。そうして、残りの半分はある授業での唯野教授の講義が、かぎ括弧にくくられて描写されるのです。小説では、物語内時間は半年で、一回目の授業印象批評の紹介から、九回目の授業、ポスト構造主義の説明で作品を終えています。作品内からは、後期もあるから愉しみに待っていてねと学生に向かって言う唯野ですが、実際のテクストはそこまでで終わってしまっています。
 ここで唯野のセリフとして口語体で説明される作品批評の歴史は、私の専門でもありますが、それでも学ぶべきことが多くあるものです。しかし、専門の学生に読むのに耐えるということは難しいことが書かれているのかというとそうでもありません。口語体というとっつきやすい文体を使用して、唯野教授がわかりやすくかみ砕いて説明してくれているので、専門の学生から、まったく文学理論を知らない人が読んでも読むに耐える作品なのです。ところどころ、これは大学で実際に授業を受けてないとわからないだろうなと思われるような部分はありますが、しかし全体はわかるはずです。
 ある意味ではこれは、文学が学問になる所以の根拠たる部分ですから、非常に重要であります。また、今こうして書いている批評に近いものも、こうした先人たちの文学を分析するための技法を学んだうえでのものです。これは文學を専門としない人でも、文学作品をどのように読んでいったらよいのかという指標になるので、是非多くの人が、できれば本を読む人間全員が読んでおいてほしいという本です。

-終わりに-
 それにしても、この作品はそうした小難しいような議論を実に平易な文章にして教えている反面、つまらなければ人間は読みませんから、ブラックなジョークを盛りだくさん詰め込んで笑わせながら学習させるという、すばらしいテクストになっています。この変な語り手のために、読者は翻弄されますが、三人称のはずなのに、突然ある部分では一人称に変化したりとどこか唯野教授の情報を隠していると思われる部分が出てきます。
 ものすごい美人で、しかも作家としての唯野のファンであるという女子生徒榎本奈美子と教授との禁断の恋といったものも、本来これがメーンになってもおかしくないのですが、ちょろりとテクストを流れる清水のように描かれます。この関係が最後にまたちらりと出てくるだけなのですが、その後どうなったのかよくわかりません。大体この作品は前期だけであって、後期を描いていないのです。なので続編があるのかなと思い調べてみましたが、とくにそのようなものを筒井康隆は書いていません。なんだかものすごく情報提供をしているように見せながら、じつは意図的に多くな空白をつくっているという謎の語り手の存在がうかびあがあるという不思議な小説です。

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