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「J,S,ミルの考察―『自由論』を主として―」

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-はじめに-
 ジョン・スチュアート・ミル(以下ミル)はイギリスの思想家、経済学者、哲学者である。1806年にイギリスのロンドンで生まれた。父親はスコットランドの哲学者にして歴史家であったジェームズ・ミル(以下J,ミル)である。J,ミルは、イギリスの思想家であり、「最大多数の最大幸福」を打ち立てた、功利主義の代表的な人物、ベンサムと交流があった。J,ミルはベンサムの思想上の弟子であると言っても良い。ミルはベンサムと父J,ミルの影響を強く受けて育った。J,ミルは彼を厳しく教育した。その内容の一端は、3歳からのギリシア語教育や、13歳でリカードの経済学の著書を読む、等のことからうかがえる。その英才教育の結果、10代から哲学的急進派の論客として活躍し、17歳で東インド会社に入社、職務のかたわら研究をつづけた。しかし、何年にもわたった厳しい勉強のためか、知識偏重の教育の行き詰まりから精神的危機におちいり、21歳の時に、ミルは神経衰弱に罹った。

-ミルの思考の変遷-
 これを転機としてミルは大学から離れ、「最大多数の最大幸福の原理に関してはそれをそのまま受け継ぐものの、ベンサムの快楽論には大幅な修正を加え、のちに危害原理と呼ばれるにいたった考え方を背景に据えて独自の幸福論、自由論を展開し、ベンサム同様政治経済社会一般に多大な影響を与えた。」(182頁)
 この思考の変遷が伺えるのは、彼の主著であり、ほぼ同時期に書かれた『自由論』と『功利主義論』である。具体的なベンサムの考えとの違いは、『功利主義論』で「ベンサムが十四種類の及ぶ快楽をすべて同質のものとしてその量的計算を行おうとしていたのに反し、そこに質の区別を導入(省略)すなわち、高級な快楽と低級な快楽の区別」(同所)をしたことが大きい。ベンサムの単純な「快楽計算」は、人間と動物の快楽が等しいものになるではないかという非難を浴びた。その攻撃に対して、ミルは、「人間は豚の快楽より高度の快楽を享受でき」、「動物よりも高度な手稿、機能を人間は持ち、それが満たされなければ自ら幸福とはみなさない」(同所)と考えている。具体的には「知性、道徳感覚、尊厳、自律等に伴う快楽を挙げている」。
 ベンサムは最大多数の最大幸福という理念を抽象的な「快楽計算」にしたがうものと考えているように思われるが、「ミルが求めたのは、それが現実世界においてどうすれば実行されうるかを明確にすることであった」(ウィル・バッキンガムほか著、小須田健訳、『哲学大図鑑』、三省堂、2011、192頁)。ミルは「快楽計算」によって「道徳的な判断をなすにさいしてそれを活用する以上に、この原理がもつ社会的および政治的含意のほうに関心を持っていた」(同所)のである。「最大多数の最大幸福」が叫ばれ、利用される際に、「実際には幸福を実現するという名目のもとに一部の人びとを締め出しているのではないか」(同所)というのがミルの危惧したことである。
 ミルはこの問題に対して、〈教育と世論の双方に向けて、両者が一緒に働くことで、個人の幸福と社会の善とのあいだに「分離不可能な協同」を確立するようにしむける〉(同所)必要があると述べている。ここから、社会と個人というミルの最大のテーマが浮かんできたように思われる。「個人の幸福と社会の善」を追求するということは、人々が自分勝手にそれぞれの幸福を追求するだけでなく、万人の幸福に向けても追及しなければならないということである。反対から述べれば、社会はあらゆる個人に幸福を追求する自由をもたらすべきだということになる。これに関してミルは「この権利は政府によって保護されるべきであり、法制度は個人が自分の目標を追求する自由を保障すべく制定されるべきだ」(同所)と述べている。
 次にミルは知識偏重による精神的危機からの脱却の際に体得した経験主義的な思考から、幸福の本質とは何かという定義づけをしようとした。ここでミルは「各人が達成しようと努めるものはなんだろう」(同書193頁)と考え、「幸福の原因とはなんだろうか」「なにかが望ましいものとなることを可能にする上で唯一はっきりしていることは、人びとが実際にそれを望んでいるということだ」(同所)と結論している。幸福の定義づけとしては不十分であることが指摘されているが、ミルはさらに進めて「動因をもたない欲望(自分たちが求めることがら)と自覚的な行為(義務感や慈善の感情から外れて、ときには自分たちの直接的な傾向に抗っておこなうが、最終的には私たちの快楽をもたらしてくれることになるようなことがら)のあいだに区別を設けようとする。前者の場合には、自分たちの幸福への手立てとしてそれを求めるのであり、それは、その行為が賞賛に値する結果にたどりついたときにのみに感じとられるものだ」(同所)としている。

-ミル、その後の生涯-
 ミルの生涯は、21歳の時の病とその脱却から大きく変化、展開していると言える。上で述べたような思考の転換をしたのちは、自由で民主的な政治改革を求める急進派のリーダーとして活躍している。国会議員を務めていたころのミルは、多くの改革案を議会に提案している。改革法案の一環として、ミルは女性の参政権を認める必要も説いている。女性参政権を主張した国会議員はミルがイギリスで最初の人となった。ともに女性の参政権などを主張し、協力者でもあったハリエット=テイラーとは、20年間の交際の後に結婚している。
 ミルはこのようにして、自身の功利主義哲学の中心には社会ではなく個人を置いている。社会と個人というミルの最大のテーマはこのようにして変化し、ミルの代表的な著作である『自由論』には彼の考えが見事にあらわされている。生前からミルは偉大な哲学者と目されていたようであるが、「こんにちでは多くの人びとからヴィクトリア朝の自由主義の設計者とみなされている」(同所)。功利主義にヒントを得て、そこから出発しているミルの哲学は、現在でも政治的、社会的、哲学的、経済学的な思考に影響を及ぼしている。「倫理学の領域では、バートランド・ラッセルやカール・ポパー、ウィリアム・ジェイムズ、さらにはジョン・ロールズといった哲学者たちがみなその出発点をミルに求め」(同所)ている。

 ちなみに、ミルだけでなく、功利主義という考え自体のその後をも辿るとすると、先にあげたロールズの見解を一考する必要があると思われる。ロールズは社会を「相互利益を求める共同の冒険的企て」(宇都宮芳明/熊野純彦編、『倫理学を学ぶ人のために』、世界思想社、1994、158頁)としている。社会原理の役割とは、「社会の基本的諸制度における権利・義務を割り当て、社会生活のもたらす便益と負担の適正な分配を定めるものである」(同所)。その代表格が、「最大多数の最大幸福」という原理をもって、単純明快に社会の正しさを推し量ろうとした功利主義である。ロールズはこれに対して、3つの欠陥を指摘している。
  (1)(功利主義は〈引用者補注〉)単独の個人にとっての合理的選択原理(「効用最大化」)を無媒介に社  会的意思決定に適応しようとするものにほかならず、個人の複数性や差異を真剣に受け止めていない(「すべ  ての人格を一つのものへと溶かし込んでいる」)。
  (2)その結果、社会制度の正義を効用産出の効率性(最大幸福!(〔ママ〕))に還元してしまい、当該社会  で幸福がいかに分かち合われるべきかに関する分配原理を欠いたままにとどまっている。
  (3)善を「欲求の充足」と定め、そえを最大化する行為・制度が正義にかなうと考える功利主義においては  、「欲求充足の源泉や質が問われない」。そのため、他者の自由を削減することや差別から引き出された効用  すらも、社会制度の正義を判定する際に考量せざるをえなくなる。(同書159頁)
 引用元の文献では該当箇所を川本隆史氏が執筆しており、正義を求めて論を展開している。引用後の論旨は、社会を巡る正義を論じていて、とても参考になる指摘ではあったが、本文の内容からは逸脱するため、ここでは割愛する。功利主義にも、このようにして欠陥があることが多くのミル以降の哲学者によって指摘されている。しかし、ベンサムに始まり、ミルが大きく変化させ確率させた功利主義は、その後の哲学の発展のためにも大きな貢献をしている。ミルも主張しているように、たとえそれがどのような意見であっても聞くに値する視点であるし、また『原典による哲学の歴史』という教科書の表題も鑑み、原典に当たる必要があるだろう。私はミルが書いた代表的な著作の一つである『自由論』を読んだ。以下はミルの『自由論』を読み、それを考察したものである。なお、私が当たった『自由論』は(ミル著、斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012)である。

-『自由論』試論-
 『自由論(原題On Liberty)』は、1859年に刊行され、当時のヨーロッパ、特にイギリスの政治・社会制度の問題を自由の原理から指摘することを試みた書物である。

 「多数派の専制政治」は一般に社会が警戒すべき害悪の一つとされている。通常、それは政治的な圧迫のような極端な刑罰をちらつかせたりしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化して、そこから逃れる手立てをほとんどなくしてしまうからである。(省略)多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方の行動の規範として押し付けるような社会の傾向にたいして防御が必要である。社会の慣習と調和しない個性の発展を阻害し、できればそういう個性の形成そのものを妨げようとする傾向、あらゆるひとびとの性格をむりやり社会の模範的な型どおりにしたがる傾向、これにたいする防御が必要である。集団の意見が個人の独立にあるていど干渉できるとしても、そこには限界がある。この限界を見つけ、この限界を侵犯から守ることが、より良い人間生活にとっては政治的な専制にたいする防御と同じくらい重要不可欠なのである。(ミル著、斉藤悦則訳、『自由論』、光文社古典新訳文庫、2012年、19-20頁)

 ミルは自由についていくつもの視点から論じているが、はじめに社会と個人という問題から論じている。ここからもミルの最大のテーマが社会と個人の問題だったことが伺える。およそ150年前に刊行された本書を現在読んで、目から鱗が落ちるように感じられるのは何故なのか、どうして新鮮さを全く失っていないのか、私は一読して感銘を受けた。それは恐らく本書に指摘されていることが、そのまま現代に通用することだからではないだろうか。つまり、非常に普遍性の高いことが書かれていることと、現在も当時も、大同小異でほとんど個人の本当の自由というものが確保されていないからという、二つの原因が考えられる。
 社会の問題について少し考えてみる。私はまだ学生で社会に出たこともない半人前の人間であるが、それでもこの国の漠然とした閉塞感をひしひしと感じる。自由が無い。何をしていても息が詰りそうな、そんな感覚に陥ることがしばしばある。いつも映画館のシアターのなかにいるような感覚である。ある程度の自由は認められているとしても、それはじつはごくごく閉鎖された空間の中でしかない。
 私の専門は文学なので、多少文學作品と絡めて考えたい。文學作品というものは、往々にして人間の心理や真理を描き出したものなので、これもまた普遍的なものであると私は思っている。太宰治の『女生徒』にはある女学校の生徒が、戦時中という時代の中において、いろいろなことを考え、その結果として「はっきり言ったら、死ぬる」(太宰治、『走れメロス』、新潮文庫、1967、132頁)という言葉を使用している。この小説は当時の女生徒の心情を鮮やかに映し出した小説として高名である。つまり約60年前の10代の少女の心情を代弁していると思われた作品である。この「はっきり言ったら、死ぬる」とは、戦時中という時代背景もあり、息をするのも億劫になるほど閉塞された人生に失望して出た少女の言葉である。私はこれに痛く共感した。考えに考えを重ね、国を思い、経済を思い、自分の職を思い、これからを思い、しかし、どうしても自意識のどん詰まりを感じる。はっきり言ったら死ぬほかに選択肢がないのではないかと考えざるを得ない。
 話が飛躍するが、この妙な暗さ、息が詰まるような閉塞感などが、私が常々考えている「自殺」の問題に繋がっていると感じられる。文学者の自殺の問題や、以前からしばしば自殺という問題と触れる機会があったので、私は普段から自殺について考えを深めている。バブル経済の崩壊以降、毎年3万人以上の人間が自殺で命を絶っている現状を考え、何故自殺者が減らないのか、また自殺とはなんなのかという根本的な問題も考えている。この3万という数字は、先日の未曽有の3.11大震災の死亡者よりも多い。つまり、毎年わが国日本では、大震災規模の人間がその貴い命を自ら絶っているのである。震災は自然による災害のため、自殺ではない。命を自然によって奪われたという、死因は外的な部分にあるものである。なので、自ら命を絶っている自殺とはそもそも比較すること自体が間違いかも知れない。ただ、その規模を把握するために俎上に並べてみただけのことである。感覚としては大震災が毎年起こっているのだと考えられると私は思う。また、自殺という行為が、本当にその人物の内面だけに起因することなのかという問題もある。つまり、自殺するには何かしらの外的要因があるはずである。
 我々日本人は、風土的にも、民族的にもいわゆる真面目な集団である。このことは昔から言われている一般論であるが、ここのところ顕著にこの特性が悪い方向へと発揮されているように私には感じられる。私と同世代で、平成25年1月16日に第148回直木賞を受賞した作家、朝井リョウの『何者』という作品にも、今の日本の現状が描き出されている。この『何者』という作品は、「就職活動」をテーマとした作品で、現在の学生たちの心情がまざまざと表されていることが受賞した理由だろう。ここでは、ひどくねじまがった社会において、就活生というものが、同じスーツを身にまとい、没個性の波に飲み込まれて個人としての人間性を否定されている問題が描かれている。
 今、ミルの自由論を読んで思うのは、個人を活かす必要性である。現在私たちには、特に自殺をしてしまうまでに追い込まれた人々には、「社会」というものが重くのしかかっている。『何者』にも描かれるが、私たち若い世代は、自分たちの将来を考える際に、今の日本社会の未来と重ねて考えてしまう。現在の社会状態を見た際に、どうして明るい未来が予想できるだろうか。エントリーシートを100社に申し込み、すべてはじかれる。このような状態のなかで、どのようにして生きていけるのだろうか。これが若者の自意識のどん詰まりを生んでいるように私には思われる。私自身もまたミルの言う自由は得られていない。
 今の社会というものは、個人というものが本当に生きづらくなった世界である。それは情報化社会ということも一つの要因だろう。例えば外国に行くということだけでも、ずいぶん色々な機関がうるさく、実に煩雑な手続きをふまなければならない。図書館に入るのにも、IDカードが必要になる。「私は私であるのにも拘わらず、何故私が私であることを証明できないのか。」これは私が個人的に考えている命題であるが、自分が自分のことを証明できなくて、それが実にちっぽけなカードで証明されているという事態は実に不思議なものである。こうした様々な点から、現在個人の自由が守られていないと私は感じる。この息苦しさ、どん詰まりに耐えられなくなった人間、つまり自由を奪われた人間がどのようにして自由になるのか、それが大問題である。今現在、この苦しさから逃れるために最も多く使用されている手段が自殺なのではないだろうか。私は今こそ個人が自身において自由を獲得していかなければならないと感じる。自由についてもう少し見ておこう。

-自由の原理-
 原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。(省略)物理的であれ精神的にであれ、相手にとってよいことだからというのは、干渉を正当化する充分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、他の人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。これらの理由は、人に忠告とか説得とか催促とか懇願をするときには、立派な理由となるが、人に何かを強制したり、人が逆らえば何らかの罰をくわえたりする理由にはならない。(省略)そうした干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。個人の行為において、ほかの人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない。しかし、本人のみにかかわる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者なのである。(『自由論』29-30頁)

 ここでは、大きく自由というものの原理を論じている。個人の自由がどこまで認められるのかという点については、それが他人の自由とぶつかる点ということで結論づけられている。
 本書では、様々な自由について言及されているが、出版や言論の自由について少し考えたい。現在の中国や北朝鮮を見ていると、とても言論の自由が守られているとは思われない。この異常な事態はすぐにでも何とか解決策を打たなければならない問題であると思われる。その点我が国日本は、出版の自由については、現在いくつか問題が生じているという事実はあるが、言論の自由は大概認められていると感じる。しかし、それでもなお、私たちは自由かと問われれば、首肯するわけではない。やはり依然として自由は得られていないのである。私たちは何故自由ではないのか、私たちは一体どうしたら自由になれるのか、これを考えなければならない。
 私はこの自由論を読んで個人の問題に対して、二つの矛盾した考えを抱いた。一つは肯定、ここで述べられていることは当然であるという考えだ。私の専門は文學ではあるが、現代のメディアを考える際には幅広く文藝というものも考慮しなければならない。つまり文学作品だけに限らず、映画やアニメ、演劇、漫画、ゲームなども研究対象に含まれる。そうすると、必然「サブカルチャー」「オタク文化」と呼ばれるものも考えなければならない。オタク文化というものは、自分の好きなものにお金を使用し、自分の好きな世界に籠るということがその特徴であると言えよう。ミルの自由論からすれば、これはまったく問題はない行為のように思われる。他人に迷惑をかけない限り自由が認められる自由論によれば、むしろそれが出来ている現在は自由論が遂行されているかのようにも思われる。この点だけを見れば、私もある意味では賛成したくなる。個人の好きなことを個人が好きで行っていてなにが悪いのかということである。趣味趣向の自由は守られているので、全く問題はないように思われる。
 ただし、これに対立するもう一つの概念もまた同時に起こる。個人の行為というものがどこまで他人に迷惑をかけないのかという問題である。上で挙げたオタク的な人間がこれからどんどん多くなっていったとしよう。オタク層が何故グッズや関連商品などを大量に購入できるのかという謎は、経営、経済系の知識を持たないので私にはわからないのだが、オタク文化の特徴を「籠る」ことと位置付けると、これから多くの人間が自分の家や部屋に「籠る」ことになる。もし、日本人の大半がただでさえ超高齢化社会になり、働き手が必要な状況において、籠りはじめたとすると、社会はなりたたなくなる。そうすると、個人の自由である趣味趣向もその性質によっては、全体に対してマイナスになる側面があるということである。
 ゲーテやニーチェは自分の生に積極的であれと述べている。「生きる」ことに対して積極的になる必要があるということがこの自由論にも書かれていると私は解釈する。「生」というものを考えた際に、そこには積極的な「生」と消極的な「生」があると考えられている。つまり、哲学そのものの追及すべき「より良く生きる」ということである。自由論もまた、「より良く生きる」ためにこそ自由を獲得しなければならないのだと述べている。そうするとやはり、自由を追求した先に、矛盾が生じる点がいくつかあることが証明されると私は思う。自分だけの小さな空間にこもっていることは本当に自由なのか。たとえ、自分に与えられた仕事だけをこなし生活しているとしても、それは本当に良い生でありえるのか。自由論によれば、私が良いと思っていることをこうした考えの方たちに強制することはできない。この点に関しては更なる考察が必要である。
 仕事ということをテーマとすると、今度は現在の社会の状況もまた問題になるだろう。いわゆる「社畜」という言葉が出現したことは、「今」を考えるうえでは決して小さくない事柄だろう。現在の状況は、仕事にもなかなかありつけないが、しかし仕事を得たとしても、今度は個人の時間を全く確保できないような過酷な状況が待っているのである。つまり仕事を極端にしない人と、極端にする人とに二分化されてきているのである。仕事を分担してこの格差を無くすようにすることが必要だと言うのは誰もが思い至ることであるが、しかし地球全体を見ても、富の分布があまりにも偏りすぎている現状を鑑みると、そう上手く行くものではないことが理解できる。就活では個性が潰され、会社に入っても一人の個人としては扱われない。この没個性、没個人の中において我々がどのようにして自由を獲得していかなければならないのか、私には依然として解決策が見いだせない。おそらくは、哲学や倫理学が、それぞれの個人において為されていくことに希望を持つほかないのだろう。

-最後に-
 ミルの『自由論』からいくつかの重要と思われる箇所を引用して、まとめとしたいと思う。
  ・自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体  の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。
  ・人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人  類にとっては、はるかに有益なのである。(同書36頁)
  ・どんな問題でも、全員が賛成してもよさそうなときに、なぜか反対する人がいたりする。そんなとき、たと  え多数意見のほうが正しくても、必ず反対意見にも耳を傾けるに値する何かが含まれていることはありうる。  反対の声を封じたら、真理のうちの、その何かが失われるのである。(同書118頁)

 ミルの『自由論』において最も印象的なことは、ミルがきちんと反対意見に耳を向けるという姿勢を持っていることである。私はこの没個性の時代のなかで、個人は他人を認め合うことからはじめなければならないと感じている。ミルはこの論の展開において、どんな意見でも対立意見があれば、それを聞かなければいけないと述べている。またあらかじめ予想されるであろう反対の意見を想定しながら論を進めている。自分たちの耳にいたいことほどその意見は重要で、真理が隠されているかも知れないと書かれている。なので、ミルを学ぶ際には、ひいては自由を、倫理を、哲学を学ぶ際には、きちんと反対の意見をも聞くということが必要になり、常に反省しつづける態度が求められるだろう。

  ・国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値にほかならない。だから、一人一人  の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、些細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上さ  せること、あるいは、それなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家には未来がない。  たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を萎縮させ  てしまう国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないという  ことを。(同書275頁)

 ミルの『自由論』はそれぞれの個人の自由を確保することが、全体としてより大きな存在、社会や国家にとってもプラスになるとの予測のもとに書かれた論であろう。これは確かにある一面では正しい。まずもって個人があり、そのあとに社会がこなければならないことは明白な事実である。個人と社会の優先性というものがもしも逆転すれば、例えば社会の全員がAという人物は処刑すべきだと述べたらたとえAが何ら法律に違反する行為をしてなかったとしても、処刑がまかり通ってしまうということに他ならない。
 私は現在教員を目指して勉強しているということもあり、教育基本法についても勉強しているのだが、2007年に改定された教育基本法では、全体として個人よりも国家が優先されるようにとも解釈できるような内容の変更が見られる。このことは多くの人間が指摘しているので、恐らく私の解釈はあながち間違いではないだろう。もし、これからこの先、日本が個人の自由よりも、国家全体の利益を優先するような社会になったとしたら、まさしく自由の危機が訪れるのである。
 現在、この閉塞された社会において、個人の自由をどのように切り開いていくのかが問題である。そうして、この自由の問題を考えるためには、より多くの人間がミルの『自由論』を読んで自分なりの考えを持つ必要があると私は考えている。ただ、ここでも、これが他人に良いからと言って、私が他人にこの本を読ませることは自由論に反することになる。国家の優先性が強まってきている現在、どうしたら、私たちは自由になれるのか、それを考え、実践していかなければならないだろう。


参考文献
朝井リョウ、『何者』、新潮社、2012年
宇都宮芳明/熊野純彦編、『倫理学を学ぶ人のために』、世界思想社、1994年
太宰治、『走れメロス』、新潮文庫、1967年
ミル著、斉藤悦則訳、『自由論』、光文社古典新訳文庫、2012年
渡邊二郎、『はじめて学ぶ哲学』、ちくま学芸文庫、2005年
ウィル・バッキンガムほか著、小須田健訳、『哲学大図鑑』、三省堂、2011年

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J・S・ミル

今日は
 素人の分際ですが、私見を述べさせて頂きます。
素人なりの勉強と考察を繰返していますが、その際前提となる知識が異なっては、論考は別の方向へ向かってしまいます。
 参考文献として挙げました中川八洋教授の指摘は無視できないものがあります。氏の工学部航空学科卒の科学的な論証は矛盾が感じられません。是非にも御一読をしていただき、ご教授いただけたらばと思います。
我知がち
 参考文献 正統の憲法 バークの哲学 P.267
 正統の哲学 異端の思想 P.352
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