雑記 忙しさを考える

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 早いもので今年ももう6月に入りました。今月が終われば、半年が過ぎてしまったということになりますね。今日は一寸時の早さというものについて、私のことをお話ししたいと思います。
 最近兎に角思うことは、どんどん時間の流れが速くなってきていること。それは、目前に控えた就活のせいかもしれません。私は教職一本で行こうと思っているので、就職活動自体はしないつもりなのですが、それでも試験勉強などがありますから、徐々に忙しくなっていくという予感が、ひしひしと強くなりつつあります。この忙しさというものは、解字してみますと、心を亡くすという意味です。忙しさというのは、人間のあるべき姿からは離れた状態のことを云うのではないでしょうか。心、ここにない人は、非常に感性や感覚というものが遠く離れてしまいますよね。また、心を亡くすとどうなるのか、別の漢字も考えてみましょう。忘れるという字も、同じ文字によってつくられていますね。日々、忙しく、何か大事なことを忘れてしまった現代人、しかし、この文字が生まれたということは、当時も都市では同じような状況だったのかもしれません。
 最近特に焦燥感にかられます。最近はなんでもかんでもスピード感というものが要求されているように感じます。企業が求めるのは即戦力。そうして、何事を為すにも「今でしょ」。「今」始めることの重要性は私も首肯するところがあります。何事も今始めるべきであることは確かです。しかし、この「今でしょ」は、「今」はじめるということ以外にも意味を付加されているように感じられます。それは「即」と相まって、すぐにやるという意味に差し替わっているように思えるのです。確かに今はじめることは重要ですが、急いでやるということは別の問題です。
 私は、ほぼ毎日、平均すれば二日に一日くらいですが、の割合でこのブログを書き続けてきました。はじめは、一時間書いてもほんの1000字程度。しかし、たったの2年弱続けるだけで一時間あれば4000字程度の文章はすらすらと書けますし、また文章も論理的になってきたと感じています。この成果は自分でもちょっとあまりに急激すぎて驚いているのですが、しかし、それにしてもひたすら自分の悪文と向き合いながら、書き続けて来た毎日があっての上達です。私は、即戦力というものほど無力で、ひ弱なものはないと思っています。即席でできるものというのは、その場限り、その場しのぎのものでしかなく、本当に良いもの、役立つ者、身に付くもの、長く使えるものというのは、長い年月と経験の積み重ねによって生まれてくる知識だったり、技術だったりするのです。即戦力を起用する企業は、即つぶれるというのが私の思うところです。この即戦力というものは、即刻皆が一丸となって打ち消すべき危険な思想であると私は思います。
 しかし、良いものは時間がかかると認識している私でも、流石に周りがせこせこと忙しく動き回っていれば、その流れに逆らえ切れない部分は出てきます。それはこの焦燥感なのでしょう。今年ももう気が付いたら半年が過ぎようとしています。私はまだ、今年に入ってから自分がやりたいと思っていたことがちっともできていません。大学という時間の比較的ある場所でさえこの状況です。もしもこのまま社会に出たら、自分の時間など確保できなくなってしまうのではないか、それもまた焦燥感を創り出している一つの原因なのです。焦るな焦るなと自分に言い聞かせながらも、すでに焦るなと言っている時点で焦っている。本当にいやな状況です。もしもこのまま突き進めば、私は何も自分がやりたかったことを為せずに、何も作り出せることなく、死んで行ってしまうのではないか、そんな不安が付きまといます。
 現代人は、私も含め、心を亡くしてしまったために、人生の大切なものを忘れ、忙しさにかけまわされている状態です。私たちは、心を取り戻して、自由を獲得しなければならないのです。私はこれを、個人がそれぞれにおいて、自己の自由の獲得を目指すために戦う、「自由騎士」という言葉を使って表しています。やはり、今の社会の状況は誰が見たっておかしいのです。しかし、おかしさに気が付いていながらも、それを変えるには、全体を動かさなければなりません。全体を動かすのは個人にはできないことです。ですから、仕方なくそのあまりに大きすぎる問題には目を瞑って、目先のことだけを考えるのです。例えば、自分の利益だったり、自分の属する集団、会社の利益だったりです。しかし、そうすると、その利益を得た分の不利益が他人に回るわけですから、余計に賃金は減り、忙しくなるという負のサイクルが続きます。現在、アベノミクスだなんだと経済面での回復を目指そうとしているようですが、私はあまり経済面には興味はありません。なぜなら、お金があっても幸せになるというほど簡単に人間はできていないからです。もちろん、お金がなくても不幸になるという図式もまた成り立ちません。
特に、今の社会は大量に生産し、大量に消費する社会です。この大量がかなりの害悪であることは、少し視野を大きくすればすぐにわかることなのですが、心を失った人間にはわからないようです。ここから生まれるのは、単にモノに価値を下げ、その中で生まれる利益を目的とした合理的な考えだけです。ここからは、物質的には大量のムダが生じ、地球という有限の資材、私たちの住処を汚すだけの害悪なのです。人間は何もそんなにモノはいりません。品質が良く、何度も手入れして使うようなもので、できるだけムダを減らせばいいと私は思います。目まぐるしく回る工場もいりません。生活はより静かになり、時間はあまるはずです。物質があっても、心が豊かにはならないということがまだわからないのでしょうか。むしろ、これから目指すべきは、物質を利潤のもとに求める経済的な面ではなくて、心をいかにして獲得するのかという問題です。この問題は極めて難しいです。なぜなら、より良く生きるということを学問の目的とした哲学が2000年以上の年月をかけても、明確なものを見いだせないようなものだからです。そのようなあまりにも難解なものを相手にすると、人間は逃げます。そうして、目先の利潤を追い求めて経済や合理主義に走ります。しかし、その時代はもう終わりであると私はここに声高らかに宣言します。物質を追求する時代はもう終わりです。これからは、地球上の人間個人個人が、それぞれ自分の考えを持ち、自分の感性に従って、自分の自由を獲得していく世界なのです。
 私は、人類というものが何故生きるのか、何のために生きるのか、価値があると思っています。少なくとも、何故生きるかわからずに、何のために生きるかわからないなかで、何故を求め、何を探すこと自体が価値あることだと思っています。私たちは何故いきるのか、それを考えた時点ですでにその生に価値はあったのです。何のために生きるかを探した時点で、すでに探すために生きているのです。これからは、このなかから、目先の利益に走り、考えることを放棄してずるをしようとする人間が多くでることでしょう。そうした人たちは、経済界で万金を得、まるで成功者のように扱われることでしょう。しかし、我々はそうした人を心のない、かわいそうな人だと思って少しでも早く精神面の重要性を諭して、私たちが決してそれに羨望し引き寄せられることなく、自分と戦いながら生きて行かなければならないのです。
 人が生きる希望は、ここにあると私は思います。きっと全人類が人類の自由を考え、その獲得に全力を出した時、人類は何か別の次元に行けるような気がします。それは例えばニーチェが言った超人なのかもしれませんし、またある予言者が述べた、叡智というものなのかもしれません。

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No title

こんばんは^^

現代文の先生ですか?
頑張って下さいね^^

Re: No title

あらしださん、コメントありがとうございます。
いえいえ、プロフィールの通り、一回の大学生ですよ。
さらなる精進をします。また、お伺いさせていただきます。

No title

こんばんは、先日はリンクの許可だけではなく、こちらのリンクも貼っていただきありがとうございました。
お城のことなど書いていますが実は高校の理科だったりします(専門)。
気儘に綴っている様なブログですので、趣旨が迷走していますが、これからもよろしくお願いいたします。

それでは。
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Author:幽玄

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