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文学の読み方


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文学作品を読む際に、私たちは「読む」という行為が当たりまえすぎるために、別段、「読む」という行為が実はどのような行為なのかを意識したことがありません。ですから、読んでいる文章というものにも、特に意識をくばったことがないのが現状です。ですから、文学作品というものには、何か作者の言いたいことがあり、それを正確に読み解いていくのが正しい読み方だと通常は考えます。しかも、それを中学、高校の国語の教育では教えてきているのです。これは本当に大学で文学を研究している人間から見ると、ゆゆしき事態なのです。
『現代文学理論』という本から、内容を要約して書きます。
 文学作品というものは、依然はそれを書いた作者のものでした。しかし、現在では少し大胆に述べると、文学作品は作者のものではなくて、読者のものなのです。文学作品を研究する際には、いくつか研究方法があるのですが、かつての主流は「作家論」や「作品論」というものがありました。これらの研究方法が前提とするのは、作品を書いたのは作者であるという常識です。作者が書き上げた作品には、作者の意図と、文学作品の意味が隠されており、それを解き明かすのが文学研究の役割であるというのがこれらの立場です。これらの研究の中心は、何よりも作者の伝記的事実に関心を集め、実生活の細部を探り出すことでした。伝記的情報を蓄積すれば、作家の本質をつかむことが出来ると考え、作品の意味は、作家の伝記的事実のなかで解き明かされるのだという考えです。しかし、これは実は文学というよりかは、歴史や考古学のようなものです。研究は、その作家に関する知識のみがものをいうようになり、作品の研究というよりは、作家の研究だったわけです。
 その後、これまたこちらの世界では常識なのですが、言語学のソシュールという人物の思想にヒントを得た言語論的転回という考えが1900年代の23十年ごろから勢いをつけ、50年代にはアメリカを中心に、「新批評(ニュークリティシズム)」という考えが確立します。言語論的転回というのは、ちょうどほぼ同時期に、哲学者であるウィトゲンシュタイン(ヒトラーと同じ学年で、同じ学校で過ごしていたということを先日知り、びっくりしました、年代の把握に役立つと思い書きました。)も同じような考えに至っています。この両者の考え方、アプローチの仕方など、それだけでもかなり興味深いものがあるのですが、今回は結論だけ。彼らが考えたのは、我々が言葉を使っているのではなくて、言葉の方が何かしらの理由で我々よりも先にあるのだということです。これだけでは何のことかわかりづらいかもしれません。言葉はそれ自体は本質的には意味を持たずに、言葉が意味を持つのは、その後の人間による行為だとでも述べましょうか。モノがあって言葉があるのではなくて、言葉が(何かしらの状態、あるいは理由、これは人間では捉えられない事象)先にあって、モノがある、というような考えなのです。どうでしょう、何とか理解できますでしょうか。私も最初は何を言っているのかわからなかったのですが、次第になんとなく理解できるようにはなってきました。しかし、いざ他人に論理的に説明しようとすると、まだぼんやりとしか理解できていないので、難しいです。至らなくて申し訳ありません。わからなければ、また説明しますので、理解できなかった点を後で連絡してください。約100年前に転回したこの思想は、アカデミズム(学問の)世界では常識となっています。このことに関しても、本来ならば中・高で教えなければならない常識であるはずなのですが、なぜか日本の教育機関ではこのことに関しては全く沈黙を守っています。だから、現在の日本の教育機関は100年間遅れているとも極言すれば言えるのです。
 さて、言語論的転回から発想を得た「新批評(ニュークリティシズム)」は、作品そのものを研究の中心にしようというものです。作者から一旦作品を切り離して考えようというものです。作者の伝記的事実や、作品外の情報は切りすてられ、一つの閉じた世界としてテクストが精読されます。また、ここで、A,ディボーデが指摘した、二つの読者の存在も考える必要があると思います。小説から筋だけを性急に読み取ろうとする大衆的読者と、そうした段階を超越したエリート読者(表現の仕方がちょっといらっときますけど、わかりやすさのため敢えて)という対立構図です。文学作品の人間性を探求する特権を自認している選ばれた精読者(リズール)と、「小説に娯楽、清涼剤、日々のちょっとした休息、そういうものしか求めな」い消費的読者(レクトゥール)です。
 50年代の後半に入ると、フランスを中心に構造主義が隆盛を極めます。現在の大学での文学の研究もこの、この構造主義の考えを主流としています。構造主義と新批評の差は、専門家は違うとしているのですが、文学部ではそこまで明確な差を考えてはいません。どちらも、作品に主眼を置いた研究の方法です。
 この後、さらに発展した研究があるのですが、それはまだ新しく、十分に確立されていないので、日本の大学では導入されていません。なのでよく私も理解できていないのですが、第一の段階が、作家、第二の段階が作品(私たちがメインにするのはここです)、そうして新しい第三の段階が読者ということになるそうです。一部、この考えが我々の使用しているテクスト論の考えにも入ってきているのですが、その全貌は私もよくわかりません。ただ、考えとしては「読者とは、何よりも能動的存在であり、読む行為により、積極的に文学作品の具体化に関わっているのである。文学作品とはそれ自体で成立する客体ではなく、読者の読みにより、初めて姿を現す何かなのである」そうです。この考えまでは何とか現状の我々も理解できるのですが、これの後を行く考えもまたあり、それはあまりにも本題から逸脱するので、割愛します。
 こうした、文学を読む以前の前提として、作品とは何か、作家とは何か、読者とは何か、といったものも一回考えてみたいとお思いになりましたら、先ずはこれらの本を図書館で読むなり、本屋で買うなりしてみるといいかもしれません。お勧めします。
前田愛『文学テクスト入門』筑摩書房
筒井康隆『文学部唯野教授』岩波現代文庫
石原千秋・木股知史『読むための理論』世織書房

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No title

 太宰治はよくエッセイ(に見える)小説をデカダンスの雰囲気で書いていて、堅実だった当時の人からは悪人・太宰治というイメージで読まれていたようでした。これは太宰自身が自分に浴びせられたそのイメージを逆に利用していたのだろうと思います(彼の好きなメタフィクションの技法の一つですね)。今で言う自虐ネタでしょうか。盗人を描いた『春の盗賊』では「私は盗みをしたことはない」としきりに言い訳していましたが、これも巧みな感じがしたものです。太宰治は特に作家と作品と読者との関係によって小説の内容までが変化するタイプだと思います。
 僕は『走れメロス』を「綺麗事の嘘」でなく「ギリギリからの理想」として読むことでそこにある誠実の美しさをより実感的に理解しましたが、それは太宰治という破れかぶれの人物をまったく知らなければ生まれない解釈だったのかもしれません。

はじめまして。
最近このブログの存在を知り、拝読させていただいている駒大生です。

とても幅広いジャンルを読まれていますが、そういった本達とはどのように出会っているのですか!?
ぼくの読書体験の参考にさせて下さい。

Re: No title

津島さん、御久し振りです。先日は小生のブログで学級新聞のブログを紹介させていただきました。何人かの人が興味をもってくださったようです。
津島さんは、太宰の本名と同じ苗字ですから、やはりそこには何か関係性を感じるのでしょうか、それとももしや太宰の孫とかですか。おどろかさないでくださいね。
私も去年は、私が付いている教授が太宰の研究者ということもあり、一年間太宰について研究していました。その生活スタイルをちらと見てみると、しかし、彼は非常にまじめな人物だったようです。確かに何度も女性と自殺未遂をしていますが、普段の生活は規則正しく、しかも朝方の小説をこつこつと書いていたという人らしいですから、彼の小説を真に受けて、それを作者と同じだと勝手に考えてしまった読者が(あるいは津島さんのおっしゃるように、わざとそれをしたのかもしれませんが)、太宰は不真面目でダメな男だという幻想を創り出してしまったということなのでしょう。
今年に入って、先の私の教授が「走れメロス」の論文を書きました。まだ、大学内でしか公表されていないので、津島さんが手に入れるのには、今しばし時間がかかってしまうかもしれませんが、その論文がまことに見事でした。なんだか身内をほめているようで津島さんに申し訳ないのですが、その論文では、走れメロスはわざと美談に見せかけているのだというのが論証されています。『走れメロス』は中学校の教科書にも載り、そのためにまるで神話のように拝まれています。しかし、あの鬼才である太宰が、果たして本当に友情と信頼などというようなものを描いたのだろうか、これがひつかかっていたのだと教授は言っていました。実はあれは、セリヌンティウスがメロスの策略に気づいて、その策略に気づかないふりをして計画に加担している。それをさらに暴君ディオニスは見抜いており、最後の抱擁というのは、やはり人間など信頼にたるものではないではないか、自分は間違っていなかったという意味での仲間意識なのだと、かなり端折りましたが、その論文では書かれていました。
是非津島さんには、その論文を読んでいただきたく、いずれどこかで入手の仕方を詳しくお教えしたいと思っています。話がずれてしまいましたが、太宰のテクストの素晴らしさは、解釈の多様性、幅が大きいことです。時に全く反対の読み方が提示され、それがぶつかりあう。そんな小説を生み出したということで、やはり太宰は天才なのだと痛感いたします。

Re: タイトルなし

駒大生さんですか!よくぞ発見していただきました。ありがとうございます。
では、もしかしたらキャンパス内ですれ違っているかもしれませんね。
さて、私は読書を専門とするような学科にいるので、嫌だとしてもあらゆるジャンルのものを読まなければならない、強いていえばそれが勉強になるのですが、コメントをくださった貴方さまは、どの学科で、どのレベルの読書経験なのでしょうか。ちょっとお察ししかねるのですが、どのように本を読んでいきたいのでしょうか。
私自身、本屋に行けばいくほど、大海の中でおぼれるかのような感覚を抱きます。いずれにせよ、人生は有限で、読める本は限られてしまいます。非常に残念なことですが。

極めて難しい質問ですが、どこから手を付けて行きましょうか。例えば、大学生なのだから、名作は読んでおきたいということならば、近現代文学史に登場する本から手を付けて行くというのも一つのルートでしょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2
ただ、これらの作品は、作品としての価値は高いけれども、いきなり読書経験のすくない方が読んでもよくわからないということが起こります。文章も古いので難しいかもしれません。

娯楽小説から読んでみたいということであれば、私のブログで紹介した作品から入っていただいてもいいかも知れません。やはり、出会いというのは、どこか一つ開拓すれば、連動していくつも開いていくものです。私も他人に紹介されたものを読んでみたりして、それからその作家の別の作品、あるいはその作家と似た作品などに手を伸ばして行きます。
あとは、新聞や雑誌の後ろの方にあるレビューを見て作品と出会うのもありです。これは、自分が普段慣れ親しんでいるジャンルとは全くことなるジャンルを開拓するのに非常に有効です。そのかわりちょっと自分とは合わなかったということはあるかもしれません。
次に紹介するのが、私が最もおすすめしたいこと。直接本屋さんに行くということです。買わなくても良いので、なんどもなんども足しげく本屋に行くことで、次第に今どの作品が話題なのか、どの作品が面白そうなのか、ということがわかってきます。一つには、コーナーを設けて売っているものや、あるいは本棚の下に平積みになっているものから入るのがおすすめです。
そうですね、このくらいが本たちとの出会いでしょうか。私の場合は、学科が学科なだけに、授業中に教授からどんどん本が紹介されるというオプションがあるのですが、貴方の学部がわからないので、このルートはごく少数の人間しか得られないものかもしれません。あとは、友人と最近何を読んだのか、面白い本はないかなどと話すことです。これは、サークルでも通用することなので、どの学科にいようが関係ありません。本好きが少ないと困りますが、是非友人とも話してみてください。
代表的なルートを紹介しましたが、参考になったでしょうか。また何かわからなければ連絡をください。出来る限りお答えしたいと思います。では、良い読書の旅を。
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