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二重の戸惑いとは何かーこれからの国語教育を言語論的転回から見据えてー キーワード:言語論的転回、ソシュール、ウィトゲンシュタイン、池田晶子

はじめに
 本稿は、〈全国大学国語教育学会編著、『新たな時代を拓く 中学校・高等学校国語科教育研究』2010、学芸図書〉、のⅠの2に掲載されている須貝千里氏の書いた「国語を教えるということの意義」に対して、そこで描かれている「二重の戸惑いと向き合って」という部分を主眼に置き、その戸惑いがどのようなものであるのか、またソシュールとウィトゲンシュタインの提唱した言語論的転回とはどのようなものであるのか、そうして、それをどのようにして国語科の教育に活かせるのか、取り上げた論文に対する私の見解とともに考察していく。

言語論的転回
 言語論的転回という言葉は、ソシュールやウィトゲンシュタイン自身が使用したものではない。この二人によって拓かれた画期的な思考の転回をもとに始まったいわゆる「現代思想」のなかで、アカデミックの研究者たちが後付した「言葉」である。
本稿のメーンは須貝氏の論文の解釈にあるが、しかし言語論的転回というものにまったく触れずに論旨を展開することはほぼ不可能で、またこれに対しても一考しておく必要性があるため、しばらく言語論的転回について論じることとする。
 フィルデナン・ド・ソシュールは、スイス人言語学者(一八五七~一九一三)である。「ジュネーブで生まれ、ライプツィヒ、ベルリン、パリで歴史言語学を学び、インド=ヨーロッパ言語学の専門誌に研究論文を数本発表し注目を集めた」(ポール・ブーイサック著、鷲尾翠訳『ソシュール超入門』2012、講談社)人物である。彼が有名になったのは、彼の没後に発表された『一般言語学講義』(一九一六)のためである。この著作が以後有名となり、そのあまりに画期的な思考の転回が、その後の構造主義や記号論的な思考の礎を為す重要な潮流を作り出したのである。だが、ソシュールを少しでも学んだ者にとっては周知のとおり、この20世紀最大の思考の転回の流れを生んだ『一般言語学講義』という著作は、ソシュール自身の手によるものではない。ソシュール自身は近年では膨大な手稿が発見されているが、存命中は自己の論に自信が持てず、それを書籍として発売することに対してあまりにも強固な態度を取り続けた学者であった。彼は生存中若い頃に発表したいくつかの論文を除いて、貴族出身ということもあり社交界の人間関係や、授業の準備、病気との闘いなどによって、ほとんど自分の思考を論理的で体系的な文章として残すことをしなかった人である。そのために、彼のラディカルな思考の体系は、彼の授業に出席していた多くの学生のノートや、没後に発見された数々の断片的な手記のつぎはぎをしたものを、彼の弟子たちや研究者がまとめたものである。一九一三年に、ソシュールが五六歳の若さでこの世を去った後、多くの人間が彼の死を悼んだ。それと同時に、彼の思想がまとまった形として発表されていないことにもひどく失望された。その結果「同僚のシャルウ・バイイ(一八六五~一九四七)とアルベール・セシュエ(一八七〇~一九四六)はソシュールの思いを汲み、学生たちのノートや入手可能なわずかな手稿を構成して」(同書)一九一六年にその集大成を『一般言語学講義』として出版した。しかし、この著作を、著者名をソシュールとした点や、断片的なもののつぎはぎ、それからソシュール自身が回答を出していない部分を逐次編者たちが自分たちの解釈を混ぜて継ぎ足したために、その後のソシュールを巡る問題が生じてくる。どこまでがソシュールの考えで、どこが付け足しの部分なのか、こうした議論がその後長い期間続くこととなった。その後ソシュール最後の授業となった一九一〇~一九一一の講義を勉学に対する熱心な感情の持つ主であるエミール・コンスタンタンという学生が非常に正確に、丁寧にソシュールの言葉を一語一句逃さないように書かれているノートが発見され、ソシュール研究は飛躍的に進歩していく。

ソシュールの考え
 ソシュールの考えは、彼の出発点は言語学に端を発していたものの、最終的には言語の哲学と言ったものにたどり着いていたと考えても良いだろう。通常私たちは、人間が主体となって、「言葉」を「操」ったり「使」ったりしていると考える。この考えは、私たち人間が「言葉」という「道具」を使用して会話やコミュニケーションをとっていると考えられる、実態主義に基づいている。ここでは「言語」=「道具」という構図がいとも自明の如くに了解されているのである。事実、こうした認識の仕方は現在でもごく一部のソシュールやウィトゲンシュタインを学んだ者を除き、広く社会を圧倒しているし、また19世紀のアカデミズムでも支配的な考え方であった。ただし、このことは本当に当たり前のことで、しかも信用にたることなのであろうか。同時代のドイツ哲学者フッサールは、〈つまり「自明」に映ることを「当たり前」と捉えない反省的思考をもって研究に臨め〉(対話的コミュニケーション論構築へ向けてーソシュールとウィトゲンシュタインに学ぶー吉武正樹、2005、日本コミュニケーション学会「以下吉武2005」)と主張している。実は、こうした見方、考えは、「言語が本当の道具であることではなく、人間という主体にとって言語が「道具的」に現前していることにすぎない」ということを表しているだけなのである。「もし言語が道具そのものであれば、人間に対して「在外的」かつ物理的な形を持つはずである。」(吉武2005)私たちは言葉や言語というものが道具だと認識しているが、実は道具的なものであるだけであって、実際に道具ではないということだ。もし、道具だったとしたらなば、空也上人像の如く、発した瞬間から言葉が物理的に存在しなければならないことになるだろう。これに対して、ソシュールの考えは、「実際は、言語自体は実態を持たない「記号」として存在し、その機能ゆえに「道具的」に認識されるだけのこと」(吉武2005)だという。当時の支配的な考えとしては、シュライヒャーや青年文法学はの人びとが打ち立てた、言語学は人間から切り離して、完全な客体として、それを分析することで自然科学的な学問にしようというものだった。これが当時の実体論的な考えである。ソシュールにとって、この「実体論」からの脱却が彼の第一の目標であった。そうして彼が打ち立てたものは、それがそのものとしてある「実体論」ではなくて、「言葉」や「言語」が相対的で、他のものとの関係によって決まるという「関係論」であった。「観点に先立って対象が存在するのではなくさらさらなくて、いわば観点が対象を作りだす」(ソシュール『一般言語学講義』1972、岩波「以下略ソシュール1972」)のである。ソシュールの考えは、モノが先行し、それを言葉が表すのではなくて、言葉があることによってその対象が生まれるということだと私は解釈している。同書92頁では、「言語記号が結ぶのは、ものと名前ではなくて、概念と聴覚映像」であるとしている。ソシュールは彼のダイナミズムな考えを表す際に、現存のフランス語ではだめだと感じていた。フランス語彼にとってはあまりにもあいまいだったのである。ソシュールが作り出した言葉が余計に多くの混乱を招いているという事実は否めないが、ここでソシュールは「言語記号は恣意的である」(同書)と述べ、「所記(シニフィエ)」と「能記(シニフィアン)」という概念を打ち立てて説明している。所記と能記の違いについては、以下を引用して考えたい。

 例えば/inu/(犬)という音(能記)を聞いた時、それは/kinu/(絹)でもなく/isu/(いす)でもなく、差異体系の中でのみ/inu/が意味を持つ。また「犬」という概念(所記)も「猫」でなく「猿」でもないという体系内で、「犬」として意味を保つ。(吉武2005)

 ソシュールの難解さは、この構造だけにとどまらず、さらにそれに対してもう一つ構造があることが大きい。ソシュールの考えでは、言語や言葉というものは、そう簡単に理解できるものではなく、むしろ論理的で明快であるわけではないと考えていた。次に引用するのは、今見たシニフィエとシニフィアンの構図の、差異体系の構図について、さらにそれを考えたものである。

 差異の体系としての言語は、「共時態」レベルで出現する。言語学の対象としてのソシュールが見出したものはいま・ここという共時態におけるラング(言語)、「言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体」(ソシュール、1972、P,21)である。一方、「つねに個人的なもの」(P,26)とされるパロール(言)は言語学の対象からは切り捨てられる。「言語を言から切り離すことによって、同時に1、社会的なものを、個人的なものから、2、本質的なものを、副次的であり、多かれ少なかれ偶発的なものから、切り離す」(P.26)

 パロールの偶発性とは、簡単に述べれば、パロールによって発される音というものは物理的な音であるが、しかし、それは一回性に限り、私たちがどんなに同じ単語を発音しようと、正確には二度と同じ音は現れないということである。そう考えると、大きな違いはないものの、基本的に私たちは二度と同じ言葉を話すことはできない一回性のなかで生きているということになる。〈この「偶発的」な音から、「普遍性」を見出し、意味あるものとして理解するには、「社会的な所産」がいま・ここに人間の意識において存在するはずである〉(吉武2005)とソシュールは考えている。大なり小なり、二度と同じ音は作り出せない中で、私たちはそれでも日常生活においては何ら不自由することなく、コミュニケーションをとることが出来ている。そこには、この音を、聞いた側の人間が、自分が知っている単語と認識しうる過程があるだろうというのがソシュールの考えである。すなわち、ここに、最初から言語や言葉を認識する能力が人間には備わっていて、文法や規則というものは、後になって、その法則性を見つけ出しただけの後付であり、二次的なものでしかありえないということが判明するわけである。
 ソシュールの言語論を締めくくる最後として、共時態と通時態についてごく簡単に考えておく。ソシュールは言語が絶えず変化しつづける川の流れのようなものであると考えていた。そのため、川の源流である一点と、川の流れの激しいところや、緩やかな地点とを別個に取ってきてこのような歴史的な変化があったという考察は、客観的で機械的な時間をもとに考えているとして、否定している。ソシュールは共時態という言葉を使い、変化しつづけている言語のある一部を切り取って見るということはしている。これがソシュールも機械的な時間を対象としているではないかという批判を浴びた箇所であるが、実はソシュールの考えはそうではない。〈意志の枠内ではとらえきれない言語の動態的側面を概念化するには、主体に現れたラングを打ち壊して別のラングへと移行するための力学と、それが生じる時間軸が必要になる。この考察を可能にするものこそ「通時態」の概念なのである〉(吉武2005)。ソシュールの言う、ラングと共時態というものはイコールで結ぶことができる。この一秒の間でも変化しつづけている言語というものを、誰かがシニフィエとして発音するとき、私たちはそれが自分の中に存在しているある知識と同じであるということを認識し、相手が発した言葉が何を指示しているのかを認識する。この認識したものを、ラングとする。ところが、通常会話というものは、たった一つの音だけでなされるものではない。このラング=共時態Aは、次々に認識されてくる別のラング、共時態BやCとどのように連関しているのか、共時態と共時態をつなぐものは何か、それが通時態というものである。共時態が認識できるものであるのに対して、通時態は無意識的なものである。機械論的な考えが共時態で止まっていたのに対して、ソシュールは共時態と共時態とをつなぐ、通時態、つまりある一点を切り離してそれを観察するのではなく、ある一点と一点がどのように変化したのかを考察する、「動」的なことを捉えようとしたのである。

ウィトゲンシュタインの考え
 かなりおおざっぱで、しかも私の解釈の混じった考えではあるが、一応ソシュールの考えの外観は捉えられたと思う。ソシュールの考えは、言葉や言語の意味というものは、「『聞く主体』によって体験された『意味』」(吉武2005)であり、聞くという主体的な体験のなかで、その意味が付加されていくというものである。同様に語る場合も語る主体の意識の中で見出されるものである。ここで見出される意味は、「個々人が社会的所産として体得した規範とでもいうべきもの」(吉武2005)である。このようなことから、ソシュールの考えは「語るー聴く」という構図によって成り立っていると考えられる。これはつまり、語る側と聴く側には、すでに何かしらのコード、規則が共有されているということである。その共有されているものが、先に述べた社会的な所産である。
 それに対して、これから考えるウィトゲンシュタインはどうであろうか。ウィトゲンシュタインは、彼の人生においても自己の論理を反対に展開していくということまでした、かなり懐疑的な人物である。ウィトゲンシュタインは、彼の考えを「言語ゲーム」という言葉で表している。しかし、この「言語ゲーム」とは一体何なのかと考えたとき、彼がこの言葉に対して概念を明確には定義していないということを我々は知ることになる。
 ウィトゲンシュタインは同一的な意味に対してかなり懐疑的である。彼にとって「規則とは事後的に見出されるものにすぎない。例えば、母語を話すとき我々は文法を意識して発話しているのではない」(田中克彦『ことばと国家』1981、岩波新書)としている。話している内容自体は、社会的な所産物によって認識できるソシュールの論と異なる点は、彼の論がソシュールの「ラング」ような社会的に共有されたものすら存在しえず、それさえも関係性のなかで成り立つものでしかないとしている点である。ソシュールとウィトゲンシュタインの思想は距離を置いてはいない。言語の実体性を否定し、言語は関係性のなかでしか存在していないということは両者の主張することである。ただし、その関係性を共有するコードをソシュールが「ラング」としたのに対して、ウィトゲンシュタインは、そうしたコード=ラングというものもまた、実体化しようとしていると考えて、それすらも関係性のなかでしか存在しえないはずなのだから、「言語ゲーム」という言葉をつくりはしたものの、それには明確な定義づけはできないというところでとどまったのである。

二人の考えのまとめ
 実体がない学問というものは実体がないのだから、実に捉えづらく、観念的にならざるを得ない。私たちはそれが物理的に存在しているとは認識することができないのであるから、いわば形而上学的な側面もあると私は思う。これまで二人の思想を追ってきたが、非常に複雑怪奇でわかりづらくなってきたので、ここで先から引用させていただいている、吉武氏の論文のよくまとまった部分を引用してまとめとしたい。
 ウィトゲンシュタインの考えは〈日々のコミュニケーション活動とは、何らかの規則にそって行われているのではなく、我々は常に「言語ゲーム」の内部にありながら規則に盲目に従っている。規則とは明示しうるものではなく、「言語ゲーム」とは、規則がこのように生活様式として文脈の中に埋没しているさまを言い当てる原理なのである。〉このウィトゲンシュタインの考えと〈ソシュールが共時態というコスモスと通時態によって突き上げられたカオスという緊張関係の内に構造を見出し、流動的な関係性として捉えたこと〉は両者の共通するところである。〈この共有したラングをもとに人は「語るー聴く」の関係を結ぶことができる〉。〈一方のウィトゲンシュタインは「教えるー学ぶ」という立場からルールの同一性を拒絶した。しかし、共時態としてのラングは通時態の概念を導く仕組みでしかないという意味では、消極的な概念であり、ウィトゲンシュタインが考える「事後的にしか見出せない」規則とさほど違わない。両者にとって、水面下でうごめく流動的な言語は、極めて人間的で、生活の中に埋め込まれた無意識としての言語であり、上層構造は我々の意識に結果として事後的に現前した表象である。ウィトゲンシュタインによる「他者」を視野に入れた「教えるー学ぶ」の関係のコミュニケーションはソシュールよりも徹底しているが、ソシュールの動的な構造観念とウィトゲンシュタインの不同一的規則概念は補完的関係にあるといえよう。〉(吉武2005)

二重の戸惑いについて
 『新たな時代を拓く 中学校・高等学校国語科教育研究』において、該当箇所の執筆者である須貝氏は、こちらの文章が先か後かは私の知り得ぬところではあるが、氏の『言語論的転回・オレ様化・ナンデモアリ・第三項ー池田晶子「言葉の力」という試金石ー』という論文においても、同じ内容をより詳しく論じている。池田氏の「言葉の力」によって生じる、第一の戸惑いとは、このようなごく簡単に説明しようとしてもこれだけ複雑な思考を必要とする言語論的転回を前提としていることである。須貝氏の「二重の戸惑い」の文章では、前後して「日本語」と「国語」という言葉を出して論じている。これは、まさしく、ソシュールやウィトゲンシュタインが否定した実体的なモノである。言葉というものは、実体としてあるのだという過去の考えと同一線上のものである。国語や日本語というありもしない、関係性のなかでしか生まれないものを、あたかもそれ自体が独立し、存在しているかのような言葉である。国語や日本語という実体化された言葉を使用して、さらにはそれを日本文化の礎であるとしたのが近代国家の国語の現状である。日本語や国語というもの自体がすでに実体のないものを実体として見せている幻想なのにもかかわらず、さらにその幻想を礎にして、日本文化というものがまるで存在するかのように教え込んだのが近代国家の教育の一環であった。言語論的転回は、アカデミズムでは主流になろうとしつつあるが、中学校・高等学校までの全教科においてはいまだ取り入れられていない。現在の日本の教育現場では、いまだにソシュールやウィトゲンシュタインが否定した、実証主義的な考え方に支配されているのである。我々もまた、この実証主義的な考え方のもとに教育されてきた人間である。そうした考えを持った我々がはじめて池田氏の論理g苦的転回を前提とした文章と出会うときに、その考えが理解できずに、戸惑うのはあたりまえのことである。須貝氏はこう述べている。「中学校・高等学校の言語教材の多くは〈言語論的転回」問題に深入りすることを避け、「相対主義、アナーキー」問題を突き止めようとしていない。それゆえに、実体主義に門戸を開いているのである〉(須貝2008)。
 二つ目の戸惑いは何かと、氏はさらに池田氏の文章の教材価値の核心に迫ると述べている。一つ目の戸惑いが池田氏が言語論的転回という、極めてアカデミックな思考をぜんていとしたうえで話を進めていたのに対して、その思考とは全く正反対の教育を受けて来た我々が読むと、なかなか発想の転回が出来ずに戸惑うということであった。それに対して、二つ目の戸惑いはというと、言語論的転回を前提としたうえで、さらに池田氏が独自の転回をそこに加えているというのである。

 〈池田氏の「言葉の意味」をめぐる、それは「人間以前」、「地球以前」、「宇宙以前」にあったという提起は、ソシュールの提起によって引き出された「相対主義、アナーキー」問題=「言語論的転回」を超えていくことに向かっていく。実態主義に舞い戻るのではなく、である。そこに池田氏の主張の価値と独自性がある。氏は、「言葉の意味」に倫理と公共性の根拠を見出していく。実態主義と非実態主義を同時に超えて、である。「言葉の意味」に〈言葉そのもの〉の絶対の領域をみているのである。「言語論的転回」問題に徹底的に正対することなくして、池田氏の、この提起の画期性に目を開かれることはない〉(須貝2008)

 氏は、池田氏の文章が難解であることは認めるが、それは第一に言語論的転回を前提としたうえで、第二に独自の発展をも付け加えているからだと言う。〈「言葉の意味」の絶対性を根拠として対置し、事態に対峙している。「人間」の外部に「言葉の意味」を置いて対峙しようとしているのである〉(「国語を教えることの意義」)という。本稿のメーンテーマである「二重の戸惑い」とは何かという点に関しては、これで正答が出せたと思われる。

私の見解
 氏はさらに、池田氏の文章を教科書で使用することについて、それが一体どのような意味を持っているのかということにも言及している。

 〈第一に、国語教育界は、「モノがあって言葉」があるという二元論、この言語論の非常識から決別し、「言葉によってモノが現れる」という位置言論、この言語論の常識に断ち切らなければならない(中略)。一元論の立場は、今日の、ソシュール以降の言語論の常識であるが、この立場はいまだ国語教育界の常識になっていない。
(中略)第二の焦点とは、まず「判断」があってそれを「言葉」で伝えるという、もう一つの二元論をいかに超えていくことができるのか、という問題である。言語表現は「判断」そのものである。それと別に「判断」があるわけではない。もう一つの二元論も実体論である〉とし、ここからの脱却、いかにして言語論的転回の思考を国語教育に持ち込むべきかと問題を提起している。

 私は先ず、池田氏の文章と、それを絶賛に紹介した須貝氏に対する指摘からはじめたいと思う。ソシュールとウィトゲンシュタインにはじまった言語論的転回は、その難解さからいまだにそれぞれの研究者によって多少の解釈の幅があるように感じられる。言語論的転回は、まさしく言葉、コミュニケーション、果ては人類の根源的な哲学の分野だと私は考えている。コミュニケーションの原始的で、根源的な分野の問題でもあるため、コミュニケーション論を専門としている、先ほどから多く引用させていただいた吉武正樹氏の論を、私は根拠としたい。
 私は言語論的転回を、表裏を裏返したような、内と外を翻したようなものだと認識している。語弊があるかも知れないが、敢えてわかりやすく言うと、コインの裏と表をひっくり返したようであると思う。こういうと、実に簡単に聞こえてしまうが、この考えができなかったため、約百年前から発露したこの思考が今なお新鮮なのである。ところで、ソシュールとウィトゲンシュタインの思考の共通点を先で考えたが、そのなかでこのような特徴もあると確認した。それは、言語や記号の規則性というものは、すべての事象が終了した後、事後的にしか見いだせないということである。さらに、ウィトゲンシュタインに至っては、その規則性さえも同一的なものは打ち立てることができないのではないかという考えであったと了解している。さて、それに対して、須貝氏の第二の戸惑いとなった、池田氏の論はどうだろうか。須貝氏が指摘している通り、池田氏の論は、「言葉」を「人間」から切り離して、それ自体が独立したものとして絶対的であるという論のように解釈できる。須貝氏は、池田氏の文章が、言語論的転回を前提の上に、さらにもう一度論を展開していると述べている。そこまでは私も了解できるのである。実体論から翻って、非実体論を前提の上で話を進めているのである。しかし、さらに池田氏は実体論からも、非実体論からも脱却していると須貝氏は解釈している。だが、私にはその新しい第三の領域と須貝氏が認識しているものが、一体なんであるのかはなはだ疑問である。池田氏がたどり着いたとされる第三の思考は、須貝氏もそれ以上は理解していないのか、これ以上言及されていない。ただ、「言語」を絶対化しているという状況は、実は実体論そのものに他ならないのである。
 池田氏は、非実体論の上に立ち、さらに論を展開した。私は先に、非実体論、すなわち言語論的転回は、何か袋状のものの表裏をひっくり返した、コインの裏表のような思考の転換だろうと考えた。一旦裏返ったものを、さらにひっくり返せばどうなるのか。これは実態主義に舞い戻っているだけにすぎないように私には思われる。確かに、池田氏のいうところは、実態主義とはまた多少ことなっていることは了解できる。ただし、氏の論は、結局実体論よりの見解となっており、これはあまり良い教材ではないというのが私の考えだ。言語の規則というものは、事後的にしか見つけられないということがわかっているのにもかかわらず、人間よりも先にあたかも実態を持った「言語」や「言葉」というものが、存在しているかのような池田氏の論には、首肯しかねる。
 また、コミュニケーション論の専門家である吉武氏の論には、池田氏の論と真っ向からぶつかる箇所がある。〈対話コミュニケーション論の探求にあたり、主体の意識に現れた表象から始めざるをえないとするソシュールと言語ゲーム内から始めるウィトゲンシュタインから我々が継承すべきは、「人間」からの乖離することなく対象を考察し、自らが敷いている「方法」という技術化に飲み込まれまいとする強靭な精神とそれにもとづく洞察である〉という部分である。私もまた、ソシュールとウィトゲンシュタインから学ぶべきことは、吉武氏の言うところであると考える。池田氏の論は、一見言語論的転回のさらにその上を行くかのように解釈できるが、実は「人間」から「言語」を切り離した時点で、すでにそれは実体論に逆戻りしていて、さらには、「言語」が最初からあった、宇宙にあったというような、実に単純な、自己の認識のしやすいように「方法」という技術化に飲み込まれてしまっているのである。吉武氏はさらに、同時代の哲学者であるフッサールを引用し、十九世紀後半の実証科学や実証主義に対して徹底的に対する警告に耳を傾けるべきだと述べている。孫引きであるが以下、フッサールの警鐘を引用する。

 十九世紀の後半には、近現代の全世界感は、もっぱら実証主義によって徹底的に規定され、また実証主義に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性とは、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらす、ということを意味していた。単なる事実学は、単なる事実人しかつくらない。・・・この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な展開にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除している。その問題というのは、この人間の生存全体に意味があるのか、それともないのかという問いである。(pp、16‐17)

 池田氏は、哲学者でありながら、このフッサールが継承したことを忘れ、一元論的な考えにも見えるが、言語を絶対化してまるで実体のように扱ったことに大きな問題があったと私は思う。言語や言葉というものは、決してそれだけでは実体としてありえず、様々な文脈や状況、使用の仕方などの関係性のなかでしか生まれないのである。その点で、言語や言葉というものは、人間から離れた瞬間に存在しなくなり、単なる実体論に逆戻りしていると考えられる。哲学者である竹田氏の論を引用する。

 人間の「身体性=自己ルール」はある意味でわれわれの「主体」だが決して我々に対して全権を振るうわけではない。われわれの《身体性》は動物の《身体性》とは違って、「自己意識」が絶えずこの《身体性》へと関係し、対話し、関係をとるような《身体性》なのである。そして重要なのか、そのことを通してわれわれは、潜在的にわれわれの《身体性=自己ルール》を少しずつ刷新し続けているということだ。(竹田青嗣『哲学ってなんだー自分と社会を知るー』2002、岩波ジュニアシリーズ 強調は竹田による)

 やはり、多くの研究者や哲学者、言語学者が考えているように、言葉と身体を切り離しては考えられないと私も思う。この点において、池田氏の文章は言葉を大切にしなければという主張はよくわかるのであるが、それを神のような絶対化をしている点で、極めて危険な文章であると言わざるを得ない。言語論的転回、すなわち非実体的な態をよそおって実体論の内部に逆戻りしている文章を、須貝氏もまたその眩惑のなかにいると考えられるが、中学校の教材に使用するのは極めて危険であると私は感じる。ただでさえ難解である言語論的転回というラディカルな思考の仕方を、中学や高等学校にどのように組み込むのかという議論は活発になされるべきである、その点においてそうしたことを主張している池田氏の文章に価値はないとは言わない。ただし、氏もまた、実体論に囚われているという点については、再度検討し、言語論的転回を紹介する文に差し替えるなどの配慮がなされるべきである。そうでなくても、池田氏の論の内容いかんにかかわらず、氏の文章はあまりにも難解である。大学生であっても理解するのに極めて困難を要する文章を、中学校の教科書に入れるというのは、中学生に文章を難解でつまらないものと思わせてしまう危険性もあり、どちらの意味においても池田氏の文章は教科書に掲載すべきではないと私は思う。また、須貝氏においても、池田氏の文章は非実体論の態をした実体論ということに気が付くことなく、それを肯定してしまっている時点で、氏の論文にあるいわゆる「ナンデモアリ」の状況に自らがいるということを認識する必要があるだろう。我々がこれからの国語並びに、教科全体のなかで何をどのように教えるかという問題については、言語論的転回を中学生にもわかりやすく、平易に説明した文章を作り出し、それを教材とすべきだと私は思う。たとえ池田氏の文章が第三の領域に達していたとしても、言語論的転回の根付いていない中学生にとっては、無用の長物である。先ずは、言語論的転回を前提とするまでを教育しなければならないのではないだろうか。
(文字数約12,600字)



参考文献
全国大学国語教育学会編著、『新たな時代を拓く 中学校・高等学校国語科教育研究』2010、学芸図書
ポール・ブーイサック著、鷲尾翠訳『ソシュール超入門』2012、講談社
対話的コミュニケーション論構築へ向けてーソシュールとウィトゲンシュタインに学ぶー吉武正樹、2005、日本コミュニケーション学会
ソシュール『一般言語学講義』1972、岩波
田中克彦『ことばと国家』1981、岩波新書
言語論的転回・オレ様化・ナンデモアリ・第三項ー池田晶子「言葉の力」という試金石ー
竹田青嗣『哲学ってなんだー自分と社会を知るー』2002、岩波ジュニアシリーズ
丹藤博文「言語論的転回としての文学の読み」2010、愛知教育大学研究報告59
斉藤伸治「ゲームとしての言語ーソシュールとウィトゲンシュタインについてー」2008、言語と文化・文学の諸相
飯田隆「現代思想の冒険者たち 第07巻 ウィトゲンシュタインー言語の限界」1997、講談社

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