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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』試論 ~1~ 感想とレビュー 春樹文学を読み解く

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ちょっとしばらく更新を怠ってしまい、申し訳ありません。忙しいと言う言葉は使いたくないのですが(人が亡くなると書いて忙しいですからね)、ちょっと優先すべき事項がいくつかありましたので、滞りました。前回の記事にはたくさんのコメントありがとうございます。これから返事をさせていただきます。今回は新鮮なネタを用意してきました。お楽しみください。

-初めに-
 今最もノーベル文学賞に近い作家としてその動向が注目される作家村上春樹の3年ぶりの長編書下ろしが発売されて話題になりました。前作の『1Q84』から3年が経ち、前作と同様発売前にはその内容がほとんど知らされないということが話題になりました。通常本を買う際には、一般の読者は物語(ストーリー)を求めて購入していると感じるかもしれません。ですから、本の紹介にはその本がどのような内容なのか、あるいはどのような感情をもたらせてくれるのか、例えば「涙なしには読めません」という文句が帯に入っていれば感動できるのだなと思って購入する場合もあるでしょう。しかし、この本が証明しているように、実は本というのは物語がメインで購入の動機が決定するわけではないのです。
 一つにはもちろん現在の日本の小説家の中で最も有名なのは村上春樹だという認識があります。これは日本人の良い面でもあり悪い面でもあるのですが、とにかく有名な人のものはいいものだろうと認識するところがあります。しかし、これは非常に危険なことで、村上春樹は確かにビッグネームになってしまいましたが、だからと言って本当に彼が書くものが全ていいものだとは限らないということです。私が言いたいのは、他人の意見に追随しているだけで考えを放棄するのはやめて、自分でこれが良いものなのかどうかを判断する力を個人個人が身に着けて行かなければならないということです。
 二つ目に、これが私の言いたいことなのですが、実はストーリーというものはあまり重要ではないということがあります。例えば男女の物語だとすると、誰がどのように書いたとしても基本的には6通りのお話しかできないということがよく言われています。1、めでたく結ばれる。2、別れる。3、男が死ぬ(消える、その他)。4、女が死ぬ(消える、その他)。5、両方死ぬ(例、ロミオをジュリエット)。6、よくわからない(消息不明)。途中でどのようなことが起ころうとも、男女の物語は大体この6種類ほどに集約されます。これがいくつか重なって複合的になっているので私たちは物語を読んでいるんだと考えがちですが、実は物語の数は意外と少なく、私たちが読んでいるのは物語の種類というよりも、文体だと言うほうが近いのかもしれません。文体という言葉には、もちろん物語の運び方も含まれるし、何人称の語り手だとか、言葉遣いや書き方、例えば論理的な一般論が多いとか、が含まれています。
 物語内容が公開される以前から、何万部もの予約が殺到したり、購入のために並んだりと初版の50万部がすぐに売り切れるほどの大盛況だったのには、私たち読者は村上春樹の文体を読みたいという思いが反映されているのだと思います。中には村上春樹は肌に合わないという人もいますが、それは自分が好きな文体と村上春樹の書く文体が異なっていたということなのでしょう。村上春樹の文体は確かに何かを翻訳したかのように非常に読みやすく、淡々とした文体です。それは別の側面からみれば、重厚さに欠けているとも飄々としているとも言えます。私自身は、村上春樹の文体は好きですが、あの不思議な言い回しは読んでいて奇妙な感覚を得るものです。

-春樹文学を読み解く三つの視点・あるいは・無口↔多弁・音楽-
 村上春樹の作品を読み解く際にどのようにして読むのか、どこに注目して読むのかということが問題になります。生きている作家のなかで、現在最も多くの研究者が論文を書き、研究されているのは村上春樹です。私は学科柄そうした論文を目にするところにいるのですが、近現代の小説を研究している学者であればかならず村上春樹の作品の論文を提出しているような状態です。何故ここまで研究が熱心にされるのかというと、一つは作品のもつ多義性だと考えられます。読みやすいのだけれど、どこか核心を隠しているような感じがするのが春樹文学の特徴です。あそこはどうなったの?あの謎が解決されたようには思えないけれどという作品の隙間(いい意味での)がそこかしこに散りばめられています。ですから、研究者にとって俄然やる気がでるテクストなのですが、一般の読者からしたら肩透かしを食らったように感じられるかもしれません。
 今回の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(以下「多崎~」)』はどこに注目して読んだら良いのでしょうか。少し私の読み方を紹介してみたいと思います。
 まず最初に、村上春樹の文体の特徴である「あるいは」の使い方から。あるいはという言葉には、文法的に考えれば二つの使い方があります。一つは副詞として、一方や、ひょっとしたらとして、もう一つは接続詞としてもしくはの意味でも使われています。ここに文学的な意味を見出すとしたら、多数ある選択肢の中で、あるひとつのことを選んできたという意味にも解釈できます。人生は選択の連続です。そのことを作中ではアカがP207で爪を剥ぐたとえ話をして、「おれたちはみんなそれぞれの自由を手にしている」と述べています。ここには、アカが自分で道化を演じているとわかっていながらも、新興宗教じみた育成プログラムを行わなければならないという、自由を手にしていながらも不自由をも同時に手にしているという人生の省察が含まれていると解釈できます。
 作中で何度も対話をしている際に「あるいは」が登場するのは、あるいはもし、あそこで違った選択肢を選んでいたらという、人生におけるifの話をしているということになります。シロことユズが無残な最期を遂げたことを多崎とクロことエリが話している最中では、エリはもし自分がユズのそばにいてあげられたならというifを語ります。しかし、その時点でユズのそばにいてあげられたとしても、P312「またいつかどこか別の場所で、同じようなことは起こっていたかもしれない。君はユズの保護者じゃないんだ。二十四時間付き添っているわけにはいかない。君には君の人生がある。できることには限りがある」と多崎はのべ、また他の部分からも推測できるように、多崎は人生というもののある程度の収束性を意識しています。誰が何をやっても、どのような形であれ結果として引き起こされることは類似してくるということを多崎はさとっているのです。
 
 村上春樹文学は、大別して二種類の主人公に分けられます。主人公無口タイプと主人公多弁タイプです。前者は春樹自身が若かったころの初期作品に多く、後期の作品には多弁な主人公が多く登場しています。一般的に、村上春樹が若くして活躍している時代からのハルキスト(村上春樹文学のファンのこと)たちは、無口タイプが肌にあっているようで、割と年齢の高いハルキストの方の話を聞いていると、多弁なタイプ(1Q84など)はあまり肌に合わないようです。私のように若くして、後から春樹の文学を追っていったような世代には、『1Q84』の影響もあり多弁タイプのほうが親しみを感じているようです。今回の「多崎~」に登場する多崎つくるは無口タイプですから、これからこの本を購入した人たちの動向が気になります。評価していれば、無口タイプでもOKな人だということが考えられますし、つまらなかったとか否定的な感想を述べている方は、きっと無口タイプがだめな多弁タイプが好きなハルキストたちでしょう。

 また、春樹文学の特徴はなんといっても文章中に登場する音楽。村上春樹の文学は常に音楽と切りはなして考えることはできません。小説というものは、一般的に考えれば文章という言葉の羅列のなかにどのようにして生き生きとしたものを組み込むかが作家の模索するところになりますが、春樹はそれを音楽を文章に内包することによって、独自の文学を形成させたと言えるでしょう。初期の作品には料理をする主人公の姿がよく表れましたが、今回はほとんど主人公は料理をしませんでした。
 今回登場した音楽はフランツ・リストの『巡礼の年』。Années de pèlerinageはウィキペディアによると「《第1年:スイス》《第2年:イタリア》《ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)》《第3年》の4集から」なり、「20代から60代までに断続的に作曲したものを集めたもので、彼が訪れた地の印象や経験、目にしたものを書きとめた形をとっている」ようです。風景描写の音楽というわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B9%B4

P202「シロがよく弾いていたピアノの曲~リストの『ル・マル・デュ・ペイ』という短い曲だけど」と多崎が述べたシロが弾いていたであろう曲をYouTubeから引用しておきます。


-作品内時間に仕組まれた巧妙なトリック-
 この作品の物語内時間がいつなのかという問題があります。その前に、読みの面白さですが主人公がどこに住んでいるかはこの物語では明らかにはなりませんが、何の沿線かはわかります。P42には多崎が日比谷線に乗って帰ることが書かれています。
 さて、物語内時間ですが、P45で、ここは現在の時間軸から、過去のことを省みているという構図ですが、死にかけて7キロも体重を落とした彼が自分の姿を見た際に感じたものは、「巨大な自信家、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離さなくなってしまった人のように」自分の姿を見ていたと述べています。もちろん、当時はそのように思ったはずはありませんから、回想している現在において、鏡を見た時点以降の記憶によりどころを見つけているということになります。このことから、回想している現在は、恐らくあの震災の後ということがわかりますから、2011年、2012年か2013年ということになるでしょう。2011年か2012か2013年の現在において、主人公の多崎つくるは36歳という設定です。
 この作品は三つの時間軸が重なり合って構成されています。
一つ目は2011・2・3年の現在。36歳
 二つ目は現在から16年前の大学二年生、1995・6・7年。過去①
 三つめは、過去①の翌年、灰田との思いで。1996・7・8年、過去②

 この作品で唯一登場する西暦は1995という数字です。P349で「悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」という部分がありますが、これは作家である村上春樹のことを含めて考えると、地下鉄サリン事件のことを述べていることは間違いありません。村上春樹は彼の著書『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件のインタビューをノンフィクション化した作品を執筆しています。
 1995年という数字を重要視するならば、その時点で多崎つくるは、地下鉄サリン事件で多くの人間の尊い命が奪われるなかで、彼もまた自分の身体の一部であった友人をなくしたということになります。そうして1995年に多崎つくるが20歳だと仮定すると、36歳である現在は、2011年という数字になるのです。ここに震災の影響がうかがえると私は考えています。この多崎つくるという存在は、1995年には地下鉄サリンとともに友人を無くすという象徴的な出来事があり、2011年の現在において、かつてなくしたものを再び見つめなおすという行為をしようとしているのです。
 ここにメッセージ性を見出すとしたら、この作品もまた、3・11以降続いている3・11文学と捉えることができるかもしれません。多崎つくるのガールフレンドである沙羅はP287「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない」と述べています。ここに重点を置くとすれば、地下鉄サリンにしても、震災にしても、忘れることで解決しようとするのではなくて、時間がかかってもいいからそれらの問題と向き合わなければならないというメッセージだとも解釈できます。
 さらに多崎つくるという人物を象徴的に日本と捉えた場合は、今まではずっとサリンにしても震災にしてもずっと蓋してみようとしていなかったけれども、どうしてもそれではおかしな部分が生じてきている、それを見つめなおす時に来ているのではないかとこの作品は述べているようにも考えられます。多崎つくるが日本だとすると、沙羅は村上春樹と言ったところでしょうか。

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巡礼の年

村上春樹の小説を読んでる時、自分の中にある普段隠れている自分との対話をするような感じですね。
そして、何度も読んでも飽きられないことか。

最近の新作に登場した曲のCDも購入して、曲を聞きながら、小説を読んで、なんとか、村上春樹さんと同感したような感じをします。おすすめです。

ちなみに、ブログにも感想を書いていた。是非、ご覧ください。
http://classiccat.seesaa.net/

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リスト:《巡礼の年》全曲 mp3
http://classiccat.seesaa.net/
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