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ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~5~ 感想とレビュー ゲームのテーマを読み解く 

 
-世襲制という概念-
 
 
この作品の本質は、「生きる、死ぬ、託す」。親や子、世代の問題です。私も後から知ったのですが、この作品のCMは、とても素晴らしいものになっていて、作品の本質を見事に表現、伝えています。この作品は1999年にプレイステーション用に販売されています。そうして、2011年にプレイステーションポータブル、PSPでリメイク発売されました。1999年のCMに出演した岸部一徳は、2011年のCMにも出演。この若い青年が同一人物なのかはわかりませんが、約12年という月日を同じ人物が演じるという構図は、それだけでもとても強い印象を与えます。2013年現在66歳ですから、2011年時には64歳で、1999年には52歳で出演していることになります。
このゲームの最大の特色、オリジナリティ、神ゲーと呼ばれる所以は、世代という概念をゲームに持ち込んだためでしょう。通常RPGというものは、主人公は主人公で、物語の最初から最後まで同じ人物をコントロールすることになります。小説でいえば、一人称小説でしかありえないのです。ドラクエ4では、それぞれの視点でプレイしたあと、次第に集まってくるという、群像劇的な展開をして、話題を呼びました。しかし、それもあくまで主人公という存在があっての話です。また、世代という概念は、ドラクエ5で色濃く導入され、成功を収めています。RPGは、自分の親はいても、子供はなかなか出てきません。ドラクエ5は、主人公の奥さんから、子供という概念までゲームに導入することに成功しました。それでも、やはり視点は主人公の一人称視点です。
これらのRPGは、すべて西洋思想に裏打ちされた世界での出来事でした。しかし、それが東洋的な思想によって裏打ちされるとどうなるのか、このシステムを考え出したゲームデザイナー桝田省治は素晴らしい才能を持っていると言わざるを得ません。
日本には古くから世襲制というものが制度として存在していました。もともとは、皇族などの一部の特権階級が一族や血族同士の争いなどを避け、安定化させるために行われたものと考えられます。それが、市民のレベルにおいては、職業や役職を引き継ぐことへと発展しました。現在でも世襲制、襲名制が残っているのは歌舞伎の世界です。例えば、市川団十郎、先日亡くなりました。この団十郎は12代目の団十郎でした。そうして、その団十郎は今度はかつて海老蔵と呼ばれ様々な問題を引き起こしたあの人物が団十郎という役職をもらいうけるということになります。
歌舞伎の世界においては、もともと役柄というものが先行して存在しているのです。その役職にあわせて、歌舞伎をおこなっている人間が割り振られていくことになります。現在の私たちが先にあって、そこに役職が割り振られていくという構造とは反対の構造なのです。平安時代は、職業は世襲制ですし、家族制度も言葉としては存在していなくともありましたから、一族において当主というものが襲名制になっていました。

このゲームが他のゲームと異なる点は、簡単に主人公たちが死んでしまうということです。これは圧倒的に他のゲームと比べ物にならないくらい死というものが明確にテーマ化されています。死んでしまったら本当に生き返らない。当然死んでしまえば一族のメンバーは減りますから、少ないメンバーで戦わなければならない。少ないメンバーで戦えばそのぶん戦いは不利になります。だからなかなか戦勝を得られずに、月が経過していく。月が経過していくと、歳をとり、寿命が近づいてくるというサイクルで、どんどん一族が弱まっていってしまうのです。通常のRPGならば、どんどん仲間が強くなっていくということは当たり前のことですが、このゲームにおいてはその当たり前は通用しません。下手をするとどんどん弱小化していってしまいます。ですので、細心の注意を払って一族の状態に配慮し、いつ神と交わって子供を授かるのかということを慎重に決定しなければならないのです。
一族がへいきでどんどん死んでいくなか、家長たる当主の存在がこのゲームでは際立っています。当主は、家の長であり、その他の家族に対して圧倒的な権限を有しています。その代わり、家族全員の面倒をきちんと見なければいけないという義務があるわけです。このゲームでは基本的には一人一人に名前がつきます。しかし、その名前を持った個人が当主となると、初代当主の名前を襲名することになるのです。その際には、個としての存在は消え、公の当主としての存在になりかわるわけです。
いわゆる没個の世界と考えることもできます。個人的な人間であった存在は、当主に襲名されるとともに、一族の長として家をまとめ、率いて行かなければなりません。ことに、この一族に課されたのは、朱点童子討伐というあまりにも重い使命です。この使命を遂行するためには、まさしく限りある命を賭して立ち向かわなければなりません。責任重大なのです。それは医療技術も発達し、経済も豊かになり、個人の自由をかなり発揮しても個人が生きていける生活環境がととのった現在であれば感じることができないことでしょう。しかし、昔は国も貧しく、決して一人では生きていけないような時代です。そのなかで家族全員を養っていかなければならない。当然娘は、家の安定を図るために良い家との婚約を当主が決定することもあったでしょう。しかし、そうしなければ一族を路頭に迷わせ、全員を没落や餓死させる危険性があったのです。


-命を伝える哲学のゲーム-
世襲制についてまったく知識がないながらにも少し論じてみました。このゲームは世襲制とともに重要なテーマがあります。それは世襲制という制度から切り離せないのですが、「継承」するということです。では、何を継承するのか、まずは名前、家族、命、使命、運命、技、武器、などなどです。
CMでのキャッチフレーズは「生きる、死ぬ、託す」。このゲームはゲームという虚構の空間で、生と死という非常に重要なテーマを扱いました。そうしてその死というものは、決して蘇生呪文などでごまかされるものではなく、ゲームといえども本当に死ぬのです。2000年を目前とした90年代最後の年に、社会の情勢はどのようであったのでしょうか。バブル経済が崩壊して後、自殺者の数が二倍程度にはねあがり、以後ずっと年間3万人の自殺者をだしつづけているのが現状です。現在も経済は冷え切っていて、雇用も不安定、このようなことを書いている私もきちんと職に就けるのか不明です。しかし、90年代はちょうどバブルという良い時期を見てしまったがために、冷え切った状態というものはより凄惨に人々の心に映ったのではないでしょうか。もちろんこれは当時を生きていない私にとっては憶測でしかすぎませんが、上げて落とすというのは、様々な作品においても最も効果的な裏切りの仕方です。
他にも様々な問題があったのでしょう。教育現場では80年代、90年代というのは、ある意味表面化しやすいという点では陰惨な現在よりわかりやすいという側面もあるかもしれませんが、暴力や非行などが横行した時代でした。生命というものが軽視されるなかで、私たちはどのように生き、そうしてそれを後世に伝えて行かなければならないのか、これを考えなければならなかったのだと思います。

私たちは紛れもなく今、生きています。しかしそれは同時に、疑いもなく死が待ち受けているということなのです。死がいいものなのか、わるいものなのかはわかりませんが、私たちは死んでしまいます。このゲームでは一族の人間は短命です。ものすごいスピードで成長するかわりにわずか2年もせずに寿命が尽きてしまいます。私たちは人生が70年、80年という長い時代ですから、すぐになにかを自分の子供たちに託しておかなければというような状況にはなりませんが、もし与えられた使命に対して寿命が短かったらという虚構のなかで、キャラクターをコントロールすることによって、考えさせられるものがあります。
そうしてこの命という壮大なテーマを扱った作品が3・11があった2011年にリメイクされて発売されるということには象徴的な意味があるだろうと私は感じます。3・11後、震災の影響を受けた作品はすべて3・11文学と呼ばれています。それだけあの震災が多くの作家や漫画家、演出家など様々なアーティストに影響を与えたのです。今、震災によって失われた3万人近いひとびとの死とどう向き合うのかということが問題となっています。
私たち生き残った人間、生者は、死者とどのようにして向き合っていくのかということが問題なのです。彼らのことを忘れないで、復興だと口々に言われています。たしかにそうでしょう。しかし、一方で震災で傷ついた人は今すぐにでも忘れたいと思っている人たちもいる。また、口には忘れないでといっておきながら、現在ほぼすべての人は、一日に一度あの震災のことを思い出すかどうかというのが現状でしょうし、今現在なにごともなかったかのように平然と生活しています。
このゲームはそうした点では、あまりにもわかりやくす明確です。彼らには朱点童子討伐という使命があります。当主が死ぬと同時に、新しく襲名される当主には、その使命が課されるのです。しかし、我々は違う。死者が私たちに残していった、あるいは託していったのはなんだったのか、まずこれがわかりません。私たちは何を残されたのか、何を託されたのか、これを考えなければならないのです。そうして、それはあと50年、60年経った際に、きちんと下の世代に引き継がれているのかを確認していかなければならないのだと思います。
このゲームはそうした命の重さや、生きることと死ぬこと、そうして死者は生者に使命を託しているということを象徴的に描いた作品です。これはもはやゲームというよりは、一種人生哲学の指南書のようなものでもあります。こんなにもゲームで命について考えさせられる作品は今までありませんでした。そうした通常であれば、重いテーマですから、プレイヤーも製作者も忌避してしまうことがらに対して、本気で向かい合った作品です。たいていの作品は、そうしたテーマを少しスパイス程度に加えるだけか、変に逃げ腰になって失敗するかのどちらかです。しかし、このゲームは真正面から立ち向かいました。ですから、作品全体はこのうえなく暗く、悲しい雰囲気に包まれています。それでもやる意義がある、プレイしなければならない、そうしたプレイヤーにも命というテーマにきちんと向き合わせる力がこのゲームには存在するのです。

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良い記事を読ませて頂きました。

はじめまして。ゲーム「俺の屍を越えてゆけ」に対する素晴らしい考察文を読ませて頂きました。

ちょうどPS版俺屍が発売されたとき、私は中学生でした。その頃世の中はノストラダムスの予言の話題や、少年少女達の陰惨な事件などがあったと記憶しております。
私も思春期に入り、漠然ながら、生きるとはなんなのか、死とはなんなのか、と考え始めた時期でもありました。
そんなとき俺屍と出会いました。いやー衝撃的でした(笑)シナリオの重厚さもさることながら、愛着あるキャラが容赦なく死んでいき、神々との交神によって子を残すという斬新なシステム。
死ぬってどんなんだろう、意思を託すってどんな感じなんだろうと、当時中学生だった自分には色々な意味で刺激的でした。
東日本大震災の年にリメイク版が発売されたのは、偶然か、必然か。
あれからもうすぐ三年。夏には続編も発売されます。
「生きる、死ぬ、託す」謎の気象現象が立て続けに起きている昨今、この意味を再び考え直す時期がきているのかも知れませんね。
長文乱文失礼いたしました。
敬具。
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