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ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~2~ RPGを支える西洋思想と東洋思想

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-RPGを支える西洋思想と東洋思想-
 このゲームがRPGゲームのなかでも特に「神ゲー」と呼ばれるわけは一体なんなのでしょうか。ちなみに「神ゲー」とは、ネット用語で素晴らしい作品のことを指す用語ですが、神とは、すごい、すばらしい、これ以上ないなどの意味として付加されたものだと思います。人間業ではないすごいプレイをした動画などを、神プレイなどとも呼ぶようです。
 このゲームがRPGであって、今までのRPGと異なる点はなんでしょうか。例えば今までのRPG、特に顕著なのがドラゴンクエスト、これは完全に西洋思想に影響された作品です。例えば作品をみても、Ⅴはトールキンの指輪物語の影響をうけていたりと、ストーリー自体が西洋的であると考えることもできますし、セーブをするさいに教会に行ってお祈りするという点は、特に西洋的な考えがそのまま表れている部分です。
 タイトルにあるドラゴン自体が、西洋の怪物です。それを討伐するということは、西洋神話のような、騎士の物語になります。ファイナルファンタジーには教会はありませんが、クリスタルという西洋的なものをめぐる物語になっています。これがもし日本的であったのならば、水晶などを出して来ればいいわけですが、RPGゲームのほとんどは西洋的な思想の影響を受けた作品になっています。
 なぜRPGが西洋的なのか、その理由は定かではありませんが、ゲームというのは根本的には疑似体験です。プレイヤーがどんな疑似体験をしたいのかというと、自分がヒーローになって悪者を倒すという勧善懲悪の騎士物語です。だから、多くのゲームは西洋的なモンスター、怪物を倒すということが基本のスタイルとなったのではないでしょうか。
 そんななか、このゲームが1999年に登場したというのは、まさしく画期的で革新的なことだったろうと思います。このゲームはRPGが全体として西洋的な思想のなかにあるのに対して、初めてと言っても過言ではないくらい日本的な思想を下敷きにした作品です。確かに、ヒーローが倒すべき存在はモンスターでなければなりません。いきなり倒す相手が人間というのは、ちょっと一般的なゲームではハードすぎます。人間を殺す、倒すゲームというのはその後たくさん出てきますが、やはりドラクエやFFほどの普遍性は保てないでしょう。子供や女子が行うには内容がハードすぎるからです。
 この倒すべき相手となる悪者、モンスターとして最初に考えられるのが、日本から離れたためにより空想で、ファンタジー要素を帯びた西洋の魔物だったということなのでしょう。しかし、灯台下暗しと言いますか、日本にも考え方によっては、鬼などの怪物がいたことを我々は忘れていたのです。このゲームは、日本の古事記や日本書紀に登場するような鬼が悪者として描かれます。ここに視点が持ってこられただけでも、このゲームは素晴らしい存在価値を持ちます。しかし、それ以上にこのゲームには、深い内容が付加されます。

戦闘システムから言及すれば、例えばFFやドラクエはエンカウントした敵すべてを倒さなければ戦闘は終わりませんでした。これは、考え方によってはとても恐ろしいことです。中国的な子孫まで根絶やしにするといった極めて強烈な破壊思想がうかがえます。レベル99の存在が冒険初期にであった雑魚モンスターを根絶やしにするのは、もはや虐殺以外の何物でもありません。それに対して、俺屍では、日本的と言いますか、それぞれエンカウントした敵のなかに大将が存在します。でてきた魔物が4匹なら4匹、5匹なら5匹の集団を一応率いるリーダーがいるのです。戦闘はこの大将を倒せばほかに魔物が残っていても戦闘は強制的に終了します。
ここには、根絶やしにするといった破壊衝動は見られません。大将を討ち取ればその部下は魔物といえど殺す必要はないのです。現実的に考えれば、大将が打たれて残った魔物はそのままどこかに逃げていくのかどうか謎ですが、魔物にもリーダー制があるというシステムを導入したのは斬新です。その代わり、こちらも隊長を殺されるとその場で敗北が決定し、強制的に京(京の都が主人公たちの拠点)に戻されます。
このゲームで面白いのは、死んだ人間が決して生き返らないという点です。ドラクエやFFでは仲間のHP(ヒットポイント、ライフポイント)が0になったとしても、蘇生呪文によって復活することが簡単にできました。現実的に考えると大変恐ろしいことですが、無理を通して考えれば、0になって倒れるということは、気絶するくらいかと解釈することもできました。
しかし、このゲームにはそもそも蘇生呪文が存在しません。それに戦闘でHPが0になった場合は、そのほとんどが京に戻ると死んでしまいます。外へ出ている場合は、一応死地を脱したとして、健康度とよばれるこのゲーム独自のメーターが1になって行動は可能になりますが、健康度が低い状態で京にもどると亡き人になってしまい、二度と復活しません。
このゲームでは、ライフポイントのほかに健康度というものがあります。新しい概念ですし、ほかのゲームにはないので説明しづらいのですが、例えばライフポイントが8割程度になると健康度が注意になり、すばやくフィールドを走ることが出来なくなったりします。このゲームではHPが0になれば取り返しがつかなくなりますから、今までのゲーム以上にHPには気を付けなければなりません。そのため、ドラクエやFFではHPが半分くらいでも特に気にしなかったのが、ここでは常に8割以上を保っていなければならないことになります。かなりリアリティをゲームのなかに持ち込んだシビアなゲームになっているということができるでしょう。ゲームとは本質的に虚構、フィクションの世界ですが、そこへリアリティを持ち込むというのは、ゲームという概念を越えようとしている試行だと思います。

-ゲームの時代性-
今年の春にプレイし、考察したドラクエⅦは、発売が2000年。ドラクエⅦは私が考える限り、キーファ=オルゴ・デミーラ説をしようとしたものの、あまりの鬱展開に何らかの圧力がかかり、直前で有耶無耶にして挫折してしまったということだと思います。ドラクエ史上最も鬱展開な作品となり、それは同時に神ゲーになるチャンスだったものを、ドラクエという大きなブランドの規制によってなし得なかった時代性というものを考えてみたいと思います。
2010年付近を境に、まどか☆マギカなど今までの概念を覆す作品が登場しました。広い意味での文学に大きな革新がおこった10年前後から約10年前、2000年前後でも大きな革新があったと私は感じています。
当然1000年代が、2000年代に変化するということもあり、コンピュータが正常に作動しなくなるのではないかなど、終末的な思想がはやりました。何か終わるのではないか、バブルがはじけて右肩下がりの状態であった90年代後半は、社会的な状況や状態からも、文学に大きく影響を及ぼす時期にあたったのだと思われます。このあまりにも異色なRPG『俺の屍を越えてゆけ』が登場したのは、そうした時代性があったからだと私は感じました。俺屍は、冒頭で自分の父が殺され、母が鬼の手に落ちるという事実からはじまります。いきなりこんな鬱展開のゲームはそうありません。そうして、主人公は、ここはオリジナリティーが高くよく創造することができたと感心しますが、二つの特殊な呪いをかけられます。一つは短命の呪い。おそろしく早く成長するかわりに、二年たらずで寿命を迎えてしまうというものです。ゲームの設定上では舞台は平安の京となっていますから、当時の人間の平均寿命が50以下だったとしても、2年という寿命はあまりに短すぎる。常人の20倍以上の速さでおいていくという呪いです。
そうしてもう一つが種絶の呪い。人間とは交われないようにして、徹底的に主人公一族を根絶やしにするという魂胆です。ここで一つ浮かびあがる疑問は、なぜ朱点童子はこの時初代主人公を殺さなかったのかという点ですが、これは、ある程度成長して「入れ物」である赤い姿の朱点童子を倒してもらうためにわざと残したということでしょう。
このゲームの問題点は、複雑で重厚なストーリーがあるのにもかかわらず、プレイ時間が長くかかってしまう点と、それぞれの重要な人物によってそれぞれの視点から語られるため、プレイヤーが断片化されたストーリーを自分のなかで構築できないという問題です。

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