現代を読み解く女性文学 有川浩『阪急電車』試論 感想とレビュー 群像劇からみる多義性の重要性

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-初めに-
 『図書館戦争』シリーズで一躍有名となった有川浩。ライトノベルのジャンルで活躍してからは、『旅猫リポート』や今回論じる『阪急電車』などの大衆文学へも進出してその才能を発揮しています。部類の本好きで、紛れもなく現代の本のソムリエの中でも最高の眼を持っていた児玉清に絶賛され、もはや彼が手放しで評価するレベルの信頼を得たのが有川浩です。有川浩の小説の解説には、いつも児玉清の解説か、対談がのります。しかし、児玉さんの死去によってそれもかなわなくなってしまったことが残念でなりません。
 児玉清が評価したのは、読みやすさと面白さという二点だと私は感じています。おそらく児玉清なら『abさんご』は評価しなかったのではないかと予想していますが、読みやすさや面白さを評価して大衆文学をより多くの人々に広めることに尽力した人間といっていいでしょう。私は文学を専門にしていますから、そうした一義的な価値観はいけないと言っているのですが、児玉清が行ったことはある意味すばらしいことだと思います。

-有川浩という作家、どこにカメラを置くのか-
 有川浩にしては珍しい群像劇的な小説です。阪急宝塚線を舞台として、一駅ごとに乗客のある一人の眼を借りて物語が進むというショートショートの形式でもあります。しかし、それらの短い話同士は、おなじ車内にいた人間が少しずつ絡んでいて、映画『マジックアワー』の映像の切り替えにも似た、ある人間の視点でみえていた人間に視点が移っていくというような手法を採用しています。ですから、読者はさっきあの人の視点でああいうふうに見えていた人の視点に変更したんだと理解することが出来、物語を別の角度から眺めることができるため、感情移入もしやすいですし、なによりも物語を楽しむことができると思います。
 図書館戦争もある意味あの長大な物語のなかで、笠原郁、堂上篤、柴崎麻子、手塚光などの主要な登場人物たちの視点を巡る物語として様々な視点を取り入れるということには成功していました。有川浩は、児玉清との対談でも話していますが、プロットをつくる作家ではないということを本人は言っています。ですから、そうした点においては、今回の『阪急電車』は最初から一駅分のお話と細切れにされた枠組みがすでに決まっていたのですから、作家としてはプロットに本格挑戦したということになるのではないでしょうか。そのためかわかりませんが、前半では、一度電車を降りたはずの人間が電車に乗り続けていた人間と後で会うという矛盾が生じていますが、物語の面白さには傷をつけてはいないと思います。

 小説という不思議な生き物にも似た存在を分析するとき、最も大きく考えられる二つの糸は、人物という視点の糸と、場所という糸です。人物が横の糸だとすると、場所は縦の糸です。小説はこの二つの糸が複雑に絡み合ってできた布のようなものと考えることもできます。通常の小説はこの横の糸、人間の視点がほとんどです。ですから、人間の視点に合わせて移動しますから、場所はとぎれとぎれになるのが当たり前です。ところが、この小説は縦の糸、場所をつたっていく物語です。ですから、その縦の糸にぶつかる範囲でしか人間は描かれません。語り手はそれぞれのカメラをどこにおくかを考慮するものですが、例えば作家が主人公の後をつけていくような感覚であれば、三人称小説になります。ある人物の眼をカメラに見立てた場合は一人称小説になります。この小説は、場所にカメラを設置した小説と考えることができるでしょう。阪急電車の中にカメラを持った語り手がいます。この語り手は阪急電車から遠くへは離れることができないのですが、ある車両で注目した人物の後ろからカメラを回します。そうしてその人物が電車から降りるなりなんなりして小さな物語が終わると、今移していた中で次にその人の目線からカメラを回すためにちょっとだけポジションを変更するのです。通常小説の語り手というものは概念的で一体なんなのかまだよくわかっていないものですが、この小説では作家の眼というか、語り手の視線というものが、あぶりだされる格好になっているとも考えることが出来ます。
 ある意味ではカメラをどこにおくのかということを認識するのはノンフィクションライターの手法でもあります。もし自分がその場所に立っていたらという前提で事実であろうことを描こうとする。当然その場にいたことはないのですから、ノンフィクションというのは突き詰めればフィクションなのですが、それは置いておいて、そうした手法に似ていると考えることもできます。とにかくものすごい資料を入念に調べ、その精緻な知識からリアリティーを創造していた作者が、別の手法を用いてリアリティーを創造しようとしているという点は、作家の研究としてはおもしろいかもしれません。

-群像劇からみる多義性の重要性-
 小説の構造としては最初と最後の従志という人物だけ一人称と三人称がまざった形式で描かれ、後の登場人物はすべて三人称で描かれるという手法になっています。この形式であれば、ネズミ算式に登場人物を増やすこともできますが、敢えてそれはせず、途中で登場人物を制限しています。後半は反対方面を走る電車にカメラが移りかわりますが、そこでは約半年ほど経った後の話になっています。前半ではじまったそれぞれの物語がどのように変容したのかというものを楽しめる形になっています。
 それぞれの視点で描かれるということが一体どのようなことを浮き彫りにするのでしょうか。こうした群像劇は映像化すると非常に細切れ的な映像になっていまいますから、映画版はどのようにその点をクリアしたのか確認してみたいです。ある主人公の視点で物語を追っていくとその主人公の主観でしかものを判断できなくなります。その主人公と作家の考えがことなれば、作家が語り手として登場して、主人公はこう思ったが、実際は違ったというような説明を入れることでしょう。しかし、こうした群像劇ではある登場人物はその登場人物のままかなり強い断定的なものの見方をすることができます。なぜなら、その断定的な見方も別の視点の価値観によって相対化されるからです。恋をする若い男性、恋を捨てる女子大生、元教師の正論を付く老婆、寝取られたOL、恋が始まる男子大学生、これらの人物が代わり登場しますが、それぞれがそれぞれの考えを持っていて、それらが視点が変わるごとに相対化されます。ですから、ことなった考えの持ち主たちが生き生きと動いているように見えるのです。
 
ここに文学的な意味を見出すとしたら、相対化された価値観の重要性だろうと私は思います。単にそれぞれの登場人物が個性的で、それらの人物は主に恋愛に関係した話が多いですのでただ単に面白い。しかしそうではなくて、恋愛もより大きな視野で捉えれば人間と人間の関係ですから、この小説の本質は、人間同士の関係性を巡る物語であると考えることもできます。ある主人公がいると、関係性はその主人公の回りにしか展開されません。その主人公の視点からしか関係性を見ることはできないのです。しかし、場所にカメラを設置したことによって、人間同士の関係性というものが浮き彫りになります。本来ならば、主人公の眼を通していったほうが人間同士の関係が浮き彫りになりそうなものですが、敢えて場所に設置することによって逆に人間の関係が浮き彫りになるというのは面白いことです。その結果としてはその後その関係がどうなったのかということを追うことが出来ないという欠点はありますが、折り返しによって半年後の関係をも描くことによって、この点を見事にクリアしています。場所に視点を置くというのは、少し形がことなりますが、三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』にも採用されている手法です。あの小説は地域という場所にカメラを設置しています。
まったく同じことがらが起こったとしても、観る人間、観る立場によって見え方が違う、解釈が異なるという点がこの小説の極めて重要なテーマではないでしょうか。中にはある一定の同じ考えが生まれることもあります。しかし、立場によってそう考えてはいてもなかなか行動に移せないというようなこともあるわけです。事実は一つです。しかし真実は一つではありません。歴史は一つです。しかし、それを様々な立場からみたら解釈は異なります。事実と真実が一緒ではないということを深く認識させられる小説だと思います。

-終わりに-
 3・11もあり、今までの価値観がすべて崩れてしまったのが10年代、現在の状態だと私は思います。今まで信じていたもの、良いと思っていたものはすべて崩れました。綿矢りさの『大地のゲーム』に登場するリーダーという男は、すべてを疑えという価値観を示しています。大きな価値観がなくなった現在、それは例えば今まで存在していた大きなアイドルがいなくなって、グループ化されたアイドル、細分化されて個別化されたアイドルの台頭が象徴的ですが、そうした個人主義の時代になっています。私もこうしたブログを書いて、自分の見方考え方を示していますが、これを他人に話すと価値観を押し付けるなと言われてしまいます。本当は価値観をぶつける必要があるのですが、相手にぶつけるだけの価値観がないと私の押し付けという形になってしまうようです。
一元的なものは安心できます。神は一元的です。だからやはり人間はそうしたものに憧れます。しかしその一元制が崩れたなかで、多元的な価値観が今の価値観ですが、そこからどうやっていくのかということが誰にもわかりません。作家たちも多元的な世界を描いて、そこからどうするのか試行錯誤している状況でしょう。誰も自分の見方を持たないからいけないのです。それが悪い見方でも、何かあればそれに対抗する見方が出てくる。ですから、常に何かの見方考え方が出ることはたぶん必要なことなのだろうと私は思っています。私の見方、考え方が間違っていたとしても、それはある取っ掛かりになるのでいいのだろうと思います。多義性の世界の中でどう生き抜くのか、この問題が小説を通じて、また震災を通じて考えるべきことだと私は思います。

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No title

いつも楽しく読ませて頂いています。
次は僕の好きな暗黒小説のレヴューお願いします。

Re: No title

うわ、難しいリクエストをどうもありがとうございます。そっちの方面は全然読んでいなくて・・・
『白夜行』とは暗黒小説に入るのでしょうか

No title

そちらの方面はあまり読まれないのですか。

白夜行は暗黒小説の中でも完成度が高い作品ですが、毒は薄い方ですね。そのぶん入口としてはいいのですが。

僕が考える暗黒小説作家の御三家は新堂冬樹、馳星周、桐野夏生の三名ですね。左に行くほどエンタメ特化、右に行くほど本格派です。ただ新堂、馳は近年やや劣化が著しいです。

石野さんの評論文は文体がとてもキレイで語彙も豊富で、いろいろ参考になります。暗黒小説のレビューは機会あればで大丈夫です。
気長に待ってますね!

Re: No title

一応純文学が専門ということでやっていますが、純文学が一体なんなのだと言われると正確には答えられないものです。
ジャンルというのはとても難しい問題だと私は思っています。便宜上使いやすからということで私も使用していますが、納得できないまま使用している感じがします。しかしすごい三名が出てきました。びっくりしました。
私もまだ人生20年程度しか生きていませんし修行不足ですので精進します。今手元にある作品群を片づけたらそちらの方にも手を伸ばして行きたいと思っています。
津島さんのブログにももう少ししたらきちんとお伺いしたいと思います。私も実は小説家を目指しているものですから、いい仲間(あるいはライバル)が出来たと思って今、嬉しく思っております。
よろしければ相互リンクしていただいてもよろしいでしょうか。

No title

相互リンク了解しました!

ジャンルに対しての考え方はまったく同感です。
今の時代、あれはあれ、これはこれと安易に分類されてしまうような底の浅い作品は、真の評価は受けられない気がします。
徹底的にある属性を突き詰めた純血の作品は、その属性にアジャストする読者にとってはたとえようもない魅力があるのも事実なのですが(僕はその路線で行こうと思ってますね)

石野さんも作家を目指していらっしゃるのですか。
いい評論家=いい作家とは限りませんが、ある程度評論ができないと優れたオリジナルを生みだすことができないのは確かです。逆もまた然りですね。その意味で、石野さんの活動は将来の夢に大きなプラスになっていると思いますよ(上から?)

お互い精進していきましょう!
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