現代を読み解く女性文学 綿矢りさ『大地のゲーム』試論 感想とレビュー 現代の震災から人間の本質を問う綿矢文学新たな地平

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-初めに-
 2013年3月号の雑誌新潮は、川端康成の未発表作品『星を盗んだ父』と綿矢りさの最新長編書下ろし『大地のゲーム』が同時掲載ということもあり、かなり力の入った雑誌になりました。文学の意味や意義というものが多少示されるような形になったと私は思います。
 未曽有の大震災から約2年。この間に私たちは何をしてきたのか。ふと立ち止まって考える必要があります。まず第一に大震災から何を学んだのかということ。原発の問題もあれば、津波の被害を過小評価していたという認識の問題もあります。帰宅難民が出たり、その他さまざまな震災への心持と対策の不備が露見しました。次に、震災から2年間で私たちは何を学んだのかということです。がれき撤去がまだちっともできていないのが現状です。「復興」「復幸」と言っても、何一つ前進していない。なぜなのか。「絆」や「つながり」を声高く上げてきれいなもので蓋をしていないだろうか。「がんばろうにっぽん」一体何をがんばるのだろうか。日本という文化はもともとから、できるだけ音便に、事なかれ主義が根強い文化です。ふと気が付くと、あの震災から二年しかたっていないのに、もうだいぶ前のような感覚がします。なぜでしょうか。すでに震災は前のこととなり、今のことではありません。みな何不自由なく生活しているし、今さら震災を蒸し返そうともしません。しかし、本当にそれでよいのか、確かにあの震災によって心に傷を負った人もいるでしょう。ですが、それを忘れてしまったふりをし続けていてもよいのでしょうか。デビューが早かったためにもはやベテランの域に居る綿矢りさですが、年齢的にはまだまだ若手としてのみずみずしい感性も有しています。その綿矢りさが、震災というものをフィクション化することによって、様々な側面を炙り出すことに成功したのがこの『大地のゲーム』です。

-綿矢文学を読み解く二つの指標 場所と関係-
 3・11後にその影響を受けた作品は俗に「3・11文学」として呼ばれています。あらゆる作家に影響を与えた大震災。小説はもちろん、文学という言葉の範囲には映画も、漫画も、アニメも大きな意味での「文学」になります。例えば『おやすみプンプン』では、震災が描かれることによって、作品の時間軸が現在であることが判明しました。桜庭一樹作品も、『傷痕』『無花果とムーン』などは震災の影響を受けていると考えられます。『あの日みた花の名を僕たちはまだ知らない』も、死者の霊との交流という面で、3・11文学作品と呼ぶことができるでしょう。こうした震災の影響を受けて、作品の内部に震災を多少なりとも入れたものは数多くあります。逆に全く震災を無視しているというものも、ある意味では3・11文学と言えるかもしれません。作家がわれ関せずという主義を保ち、あるいは沈黙することによって、震災に対する何らかのメッセージを逆説的に表出させていると考えることもできます。
 しかし、そうした3・11文学とよばれる作品群のなかで、真っ向から震災に立ち向かった作品というのはありませんでした。震災はすべての価値観を覆してしまいましたから、何が良いのか、悪いのかが誰にも判断できなくなってしまったのです。その中で、震災に対する何かしらの言説を述べると、批判されるおそれがありますから、作品の内部に多少組み込むことはあっても、震災そのものをテーマに、そのものから作品をつくるということはありませんでした。2年というインターバルを経て、もはや風化しそうになっているこの震災を「テーマ」として選択し、そこから構造した作品が今回の『大地のゲーム』です。

 一体いつの時間軸かは小説内からはわかりませんが、3・11と思われる震災が主人公たちの親の世代が若いころにおこったということがわかります。しかし、その震災も3・11とは断定できません。ですが、一般的に考えれば、西暦でいえば2000年代の後半にあたるであろうことがわかります。
 綿矢文学には、固有名詞が描かれる作品と排除される作品とに分かれますが、この作品は作品内から固有名詞がかなり削除された作品です。その点では、つい先日発表された『abさんご』に似ている側面もあります。主人公の名前もわかりません。作品は女子大生である「私」の語りによって進行します。主な登場人物は、「私」との「私の男」という彼氏。それから、大学内で「反宇宙派」というグループを立ち上げている「私」が「リーダー」と呼ぶ男。そうして、今までの綿矢文学の三角関係からは登場しなかったはずの第四番目の人物マリの四人です。
 小説の時間軸がいつかは明確にはわかりませんが、
人称と固有名詞の冒険―綿矢りさ「大地のゲーム」
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-7aa0.html
参考したブログではこのような指摘がされています。
―12ページ目のはじめに「大学創立二百周年記念タワー」という固有名詞を持っていることが不意に判明します。ここで日本における最初の大学の設立が、1877年の東京大学であったことを思い出しましょう。すなわち、「大学創立二百周年記念タワー」は、固有名詞が不明などんな大学であろうとも、2077年以降にしか存在しないことが判明するのです。―
 ここで重要な指摘がなされていますが、このタワーの形容から、少なくとも2077年以降の時間であることが判明します。
 場所はどこでしょうか。この大学には14号館と呼ばれる「私」たちが住み込んでいる会館があります。少なくとも14以上は会館があることから、かなり大きめの大学であることが判明します。また記念タワーなども鑑みると、作者である綿矢りさが卒業した早稲田大学を彷彿させます。おそらく作者レベルでは大学内の描写においては自分の記憶を頼ったことでしょう。しかし、作中では時間軸も異なりますし、現実の早稲田は都会にありますが、この小説内では舞台となる「大学」はかなり田舎にあることが判明しています。回りを運動神経のかなりある男でなければ飛び越えていけないほどの囲いがなされているような閉塞された空間であるということもわかります。
 
 綿矢文学を考える場合は場所が特に重要だと私は感じてきました。綿矢文学は私が勝手につけた名称ですが、「ひきこもり文学」として読み解くことができます。「インストール」は押入れの中にひきこもりました。「蹴りたい背中」は教室と、にな川の家の二か所にひきこもります。「ひらいて」は教室の中にひきこもっているのです。この『大地のゲーム』では、登場する人物が大学生ということもあり、多少活動の幅が広がっていますが、意識的に大学が閉塞された空間であることが描かれており、大学にひきこもるという典型的な綿矢文学の特徴を引き継いでいます。この作品は、大地という命の温床、海と対比される大きな自然の世界を描いていながら、たったひとつの小さなキャンパスに閉じこもっているという二面性を有しているのです。
 また、綿矢文学を読み解く際の手掛かりが人間同士の関係性ですが、今まで綿矢文学で多用されてきたのは「三角関係」でした。今までの作品ではルネ・ジラールの「欲望の三角関係」の理論から、主人公は大抵の場合ルネ・ジラールのいうメディエーターというポジションに位置し、三角関係の中では恋愛に敗れる役を演じてきたと私は考察しています。
 以前綿矢りさ氏のインタビューを聞かせていただいた機会があったのですが、「ひらいて」執筆後で、彼女は「次は三角関係にもう一人足して四角関係を描きたい」というようなことを述べていたことを記憶しています。今までの作品がどれも三角関係の構図を含んでいたのに対して、今回の登場人物たちがどこか不思議で謎めいているのは、新たに今まで存在しなかったはずの四人目が登場したことに原因があると私は思います。

-三角関係から変化した四角関係を巡る物語-
主人公が女性であることから、便宜的に四人目はマリだろうということを述べましたが、それはあくまで主人公の「私」の主観から見た場合です。誰が四人目なのかということはあまり議論になりませんが、この作品では、「私」と「私の男」と「リーダー」と「マリ」という四人の関係性を巡る物語として読み解くことができます。
今までも固有名詞が謎めいた作品が多かったものの、今回の『大地のゲーム』では、「マリ」以外の主要人物が、「私」を含め、彼氏である男も、反宇宙派を率いて大学を統治しているリーダーの名前も一切描かれません。一体「私」と関係のある男たちがどのような存在であるのか、名前を奪われることによって、漠然としてきます。そうしてそれと同時に、「私」と二人の男の関係性もどこか明瞭としません。「私の男」とは当然「私」にとっては付き合いをしている彼ということになりますが、本当に好きなのかどうかが一向に描かれません。付き合って一年くらいであるということが震災後の冬の回想で描かれていますから、震災の半年ほど前から付き合っていたということになるでしょう。しかし、なぜ付き合っているのかはなぞですし、あまり好きなようでもありません。「私の男」の人物造形は、どこかがさつで言葉が少なく、語彙力も少ないために「私」に言い負かされて尻に敷かれているような人物です。しかし、プライドが高いため、尻に敷かれることは彼にとっては嫌なことで、怒鳴ることによって自分が上位にあることを知らしめているようなタイプの男です。それに対して、リーダーは大震災の中でグループをまとめ上げ、無法地帯となった大学内を自力で秩序だったものにするほどの能力の持ち主で、しばしばかぎ括弧を使用して演説の言葉が切り取られていることからも、弁舌の立つ有能な人物として描かれます。そうして肝心なのが、「私」はこのリーダーを「狙っている」のです。好きや愛しているという感情ではありません。そうした言葉も登場しませんし、リーダーとどのような関係になりたいのかは不明ですが、「狙っている」と言ったほうがしっくりくるような感情をリーダーに投げかけています。自分の彼氏のことを「私の男」という所有物として命名していることから、リーダーを自分の手中に入れたいという感情なのかもしれません。
今までの綿矢文学で登場したどこかなよなよした男というのは登場しません。攻撃を誘発させる弱弱しさというのは、今回「マリ」の存在に引き継がれています。男はたくましく描かれますが、その反面今までの弱弱しい存在は女性であるマリが請け負っています。このマリはしばしば綿矢文学で登場する「ハーフ」です。容姿が非常に美しいということが判明しますが、リーダーのファンである女子大学生三人のグループに大学中を追い回され、常にいじめられています。そうしてしばしば「私」のもとに逃げ込んでくることが判明します。

 この小説は、「私」と兄の幼少のころの回想から始まる典型的な階層型の小説です。作品における主な現在は、未曽有の夏の震災から約半年たった冬です。夏の震災によって学園祭が延期になり、冬の学園祭からカウントした時間軸で回想がなされます。学園祭二週間前と一週間前。途中で夏の震災の記憶も回想されます。最後は夏の震災、冬の震災が来た後の時間が多少描かれます。その中で四人の関係が徐々に変化していくのがこの小説のメーンになっています。
 今までの作品よりもあらゆる面で規模が大きくなっています。閉塞された空間という縛りは、震災の後大学の周辺の治安が悪くなったこともあり、極めて緊迫した空気の中で強まっています。さらに、今までの攻撃性は「蹴りたい」やいじめたいレベルのものでしたが、閉塞感が強まったためか、手段リンチにより殺人までに強まっています。「私」の攻撃性は、今までの三角関係であれば、男であるリーダーか「私の男」に向かうはずでしたが、今回は同性であるマリに向かっています。そうして、四人に増えたことから、攻撃する人間が増えました。「私」はマリに。「私の男」とリーダーはお互いに攻撃しあっています。
 作中ではかなりおとなしくしていた四人ですが、夏の震災の後に必ず来ると政府が予測した同規模の地震が発生した瞬間に急にその攻撃性を発揮します。震災があって治安が悪くなったことから、この小説内においては、日本でも護身用に銃を持つことが許可された世界になっています。その点では多少ライトノベル的な要素があると言えるかも知れません。
 その攻撃力の極めて強い武器をただでさえ攻撃性のある登場人物たちが持ったらどうなるのか。冬の震災の時、「私」はマリを殺そうとします。地震に紛れて行えば、後々犯行がばれる可能性が少ないからです。「私」にとってマリは自分が所有したいリーダーを横から奪っていく人物でした。そのマリを自分しかしらない彼女が逃げ込んできた際にかくまう場所で殺してしまえば、リーダーを狙うのは自分だけになるという魂胆です。しかし、また男同士も壮絶な決闘を行います。「私の男」はリーダーを殺したがっていました。それは、自分の彼女である「私」をリーダーに奪われないための行動と考えることもできますし、もしかしたらマリを好きだったという可能性もなくはないと私は思います。リーダーが何故「私の男」を殺しに行ったのか謎ですが、もしかしたらリーダーもまた「私」を奪うためにその彼氏を殺したかったというラインが浮上してきます。三角関係では明確だった人間同士の関係性が、四人になったために重複し始めました。ある意味ではこの不明確さが作者が狙った小説上の技巧だったのかもしれません。そうした面でも作家綿矢りさに磨きがかかってきたという事ができます。

-終わりに、『大地のゲーム』とは何か-
 タイトルにある『大地のゲーム』が一体何を指しているのでしょうか。この小説は、3・11があったであろう世代の次の世代の物語です。そうして、作品内ではすでに夏に3・11レベルの震災が起こったという設定がなされています。政府の報告によれば、1年以内に夏の震災と同規模の震災が再び起こることが予測されて、その際には特別なサイレンがなるということが、ニュースを通じて日本国民全員が認識している世界です。
 作品内では、次におこる震災に怯えながらも、着々と学園祭の用意をする登場人物たち。小説では、学園祭の当日、中でも最も盛り上がっている部分、リーダーの演説中に大震災が訪れます。あまりにも都合がよすぎる震災という点ではリアリティーに欠けますが、リアリティーの排除というのは、ライトノベル的な設定にも表れていますし、また固有名詞が排除されているというのも具体性を無くすためと考えることもできます。ではなぜ、リアリズムを排除したのか。それは一つには、まだ日本人の心に3・11の影響があまりにも残りすぎているという点です。この作品は震災を真っ向から描いた作品です。ある意味不謹慎な作品と考えることもできるでしょう。ですから、これを3・11のこととして描くと、被災者の方やまだ立ち直っていない人たちにあの恐怖を思い起こさせることにもなります。ですので虚構性を強めたというのが現状だろうと私は思います。
 『大地のゲーム』というのはつまり、大地側がそのうえに住んでいる人間たちに対してゲームをしているということです。ゲームというのは、playではなく、末尾に表記されるように「bit(賭け)」です。大地がディーラーで、その上にいる私たち人間は賭けをしている存在です。その上では、様々な駆け引きも行われています。四人の関係は、その関係性を巡る賭け事だったのです。
 
通常ではありえないような設定の上で、極限の状態に置かれたらどうなるのかという「if」の世界を描いたというのが、この作品の最大のテーマではないでしょうか。それは、もしも大震災が起きて、さらにもう一度同じものがおこることが予想されていたならば、人々はどのようにそれに対して臨むのかということでもあります。現実でも、近いうちに再び地震が起きるということがわかっていますが、果たして私たちはあの震災から何を学んだのでしょうか。ほとんどの人間が震災を忘れ、次にいつ来るともわからない地震に対して何も準備をしていません。この作品では近いうちに地震が来るとわかっていれば人間がどのように動くのかというシミュレーションでもあります。
またifの世界を描くという点では、今まで三角関係がメーンだった綿矢文学にもしもう一人を持ち込んだらということもその一つではないでしょうか。もし、大学という場所に閉塞されたら人間はどう動くのか。今までも必死に動いてきた綿矢文学に登場する人物たち。しかし、その人物たちは平穏な日々の中では、その必死さはどこか滑稽味を帯びていました。だから、綿矢文学に登場する主人公は「ちょっと痛い子」というようなレッテルが張られていましたが、今回の極限の状況下においてはその必死さは生きるための必死さとして、まったく滑稽味をうしなっています。極めてシリアスで、みんなどこか神経が擦り切れている状況の中で、人はどう生きるのかということを真剣に問うた人間の本性を暴いた作品です。勿論それを操っているのは皮肉として大地というディーラーであるということもいう事ができると私は思います。
これこそ綿矢文学新たな地平と呼ぶにふさわしい、綿矢ファンならびに、現代の震災を考える人間が読むべき書物であると思います。

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綿矢りさ殿へ 村上春樹文学の偽善性と愚劣さ

綿矢りさ殿へ

 2013.12.28夜のNHKのEテレ番組「世界が読む村上春樹」で、
貴殿らの村上文学への高い評価を見ました。
しかし、村上文学は偽善的で愚劣である。
村上春樹はトカゲ座の類人トカゲ(4次元の全身鱗に覆われた爬虫類型ヒューマノイド)のShapeshifter=変身体で、惑星間殺人犯罪者である。
http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/48.html 
http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/50.html 
http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/64.html (ここの上から10番目の記事:村上春樹の正体暴露がある)

                                          
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