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『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 2

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-物語のおおすじ・タイムパラドクスの物語-
 神様と魔王オルゴデミーラの最終決戦の前の時間に舞い戻って、封印された大地で魔物を倒すことによって未来を変え、大地を封印から解放するということをしていきます。エスタード島の人間が復活した島の存在に対して、主人公たちと同じ記憶しか保有していないのに対して、復活した側は、前からエスタード島のことを知っているという、記憶の非対称性があり、その部分の説明がもう少し必要だったと思いました。
 過去の時間では、オルゴデミーラがそれぞれの大地を切り離して封印することによって、そこに住んでいる人々を絶望に陥れ、その負の感情を自分のエネルギーとして神様との戦いに備えたと考えられます。神様は恐らく過去の時間軸においては敗れたのでしょうが、一つの希望を残すことによって、未来を変化させようとします。主人公たちは神様が残した希望ということになるでしょう。その主人公たちが過去を変えることによって、現在をも変えていくという構図です。
 封印されてしまったそれぞれの地域を、そこに赴いて魔物たちの手から解放することによって、未来を変えて現実世界で復活させます。神と魔王の決戦は、おそらくほとんどの島が封印された時点での戦いだったのでしょうが、その決戦より前に主人公たちがもどって、解放をしていることから、神と魔王の決戦時には、封印したはずの大地が解放された状況で決戦を迎えたということになると思います。人々の絶望からエネルギーをもらっていたと思われる魔王は、当然封印した大地が解放されていれば、そこから得られるエネルギーを吸収できないはずですから、弱体化し、神を滅ぼすことができなくなるということになります。時間軸の問題を入れると非常にややこしくなりますし、論理的にできないことになっていますから、やっぱりどこか矛盾が生じますね。まあ、別の時間軸に移動したと考えればなんとかなります。

最後の大地を復活させる時点では、神と魔王の決戦の直後であることが示唆されています。神を完全には滅ぼせなかったものの、なんとか勝利を得られたオルゴデミーラは力を使い果たし、かなり弱った状態で自分の居城に舞い戻ります。そこに未来からやってきた主人公たちが丁度その弱り目に祟り目のごとく来訪し、弱っている魔王にとどめをさすことによって、物語は終わったかに思えます。
ところがどっこい、その後に復活させた神様が、実は魔王との決戦で敗れた神様ではなくて、オルゴデミーラだったということになります。一体オルゴデミーラがどこで何をしたためにこうしたことが出来たのかはまったく不明ですが、倒したはずのオルゴデミーラが実は神様の姿をして復活していたということになります。
本物の神様が敗北するまえに残した精霊たちの復活によって、魔王が化けていた神様は正体が暴かれます。神様の姿で偽って人心を惑わしていた間に養生したのか、だいぶパワーアップしたオルゴデミーラ。物語はそのデミーラの現実の世界での居城に侵入し、討伐するということで終わります。

-なぜ人はRPGのゲームをするのか-
 この年にもなると、今までただの娯楽でやってきたRPGのゲームがふと、どうしてそうなるのだろうかという研究の対象になります。それが年を取ったということなのでしょうか。久しぶりにゲームをやって、そこまで熱中することにならなかったので、少し感慨深い思いを抱いています。
 RPGというのはもちろんロールプレイングゲーム(role-playing game)の略称です。ウィキペディアには-参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。-と定義づけられています。
 人が何故ゲームをやるのかということを考えたとき、私は「疑似体験」が最も大きな原因だろうと思います。例えば、あらゆる特技を使ってモンスターと戦ったり、あるいは人間と戦ったりする。こうしたことは現実ではできないことです。そうした現実ではできないことをゲームという媒体によって、主人公という自分がコントロールできる存在を通じて疑似体験する、これがゲームをやる最も根源的な理由ではないかと思います。
 疑似体験というのは、まさしく文学そのものです。文学というものは一体どこから文学なのかというのは、文学史の研究分野ですが、神話からが文学だと大体考えられています。日本では古事記が一応文学のはじまりのように考えられています。こうした神話というのは、どうして生まれたのか。これもまた疑似体験だと私は思います。
 こうした神話が何故必要だったのかというと、そこに登場する主人公たる神的な存在が、様々な苦難や困難を通じて成長し、時には克服し、あるいは死ぬということもあります。神話の中で登場する主人公たちに多いのが、どこかを旅して苦難を克服するという話型です。これを民俗学者の折口信夫が彼が造った「貴種流離譚」という概念によって紹介しています。

貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

 この貴種流離譚という話型、お話のパターンというものは、最も根源的な神話から、現代の小説、映画、アニメ、マンガ、ゲームなどに多く影響を与えています。この話型を知っておくとそれだけで多くの発見があります。例えば現在公開している『ベルセルク』もまたこの話型です。柔道を描いた漫画『姿三四郎』もまた、この話型で読み解くことができます。RPGのゲームは多くのこの貴種流離譚の物語で読み解けるのです。
 人間は本質的にこの貴種流離譚の物語が好きなようです。神話に登場するぐらいですからね。このもともと高貴な身分、あるいは何か特別な出生をした人間が、彼らの属するコミュニティーから離れ、あるいは追放され、様々な土地を旅、流離することで、多くの苦難とぶつかり、立ち向かい、克服し、時には死をもって物語を終えるという話の形は、人間が好むようです。文学は疑似体験です。詰まる所、こうした一人のヒーローが背負いきれない運命を負い、それに立ち向かうという話を読む、または聞くことによって擬似体験していたということなのでしょう。その疑似体験を通じて何を得るか、最も大きいところはそれによって、自分の人生では経験できないことを体験することによって、ストレスの発散をしていたのだろうと思います。古くから社会はありましたから、そこから抜け出すことは通常できない。今のように便利な時代ではないですから、社会から出ていく、追放されることは、一人で生きることを意味します。自然の中で生きることはできませんから、それはすなわたち死です。ただ、やはり昔の人間もストレスは当然あったはずです。どんなストレスかはわかりませんが、娯楽施設もありませんから、発散する場所がない。だから、自分たちができないことをするヒーローをお話としてつくることによって、そこに感情を移入し、それを読むことによって自分ができないことを疑似体験し、ストレスを発散したということなのだと思います。
 もちろんストレスの発散という言葉のなかには、感動した、怒った、悲しかったというような感情の悲喜こもごもがあるでしょう。それを総括してストレスの発散とここでは便宜上述べておきます。

-貴種流離譚の物語としてのドラゴンクエスト・隠された『レ・ミゼラブル』の文学性-
 ドラゴンクエストはまさしくこの貴種流離譚の典型的な例です。Ⅶも、謎の出生が関わってきます。大海賊シャークアイと同様水の精霊と何かしらの関係があることが示唆されています。四つの精霊の血なり力なりを分けているであろう一族の出なのです。シャークアイの妻であるアニエスは、自分の夫が魔王と戦って封印されたことに対して、自分の子供を未来に贈って父親と再会できるようにしたことと、自分の身も人魚になりながら長い年月夫の封印が解かれるのを待つために海底王に援助されます。シャークアイは、本当の主人公の父親ということになるでしょう。そうした特別な生まれ、運命を持った存在が、仲間とともにそのコミュニティ、楽園と呼ばれたエスタード島から離れることによって、世界を救い、魔の根源であるオルゴデミーラとの戦いに挑むということになります。
 本来であれば、このようなわかりにくい出生の人間よりも、王族であるキーファの方が貴種流離譚としては話が締まります。Ⅰの主人公は出生が謎ですが、Ⅱでは、まぎれもなくかつての伝説であるⅠの主人公の血筋の人間、しかも王族です。Ⅲは知りません。Ⅳは例外的に群像劇ですので、貴種流離譚の話型は薄いです。Ⅴは典型例。パパスという王と、不思議な力を持つマーサによって生まれた主人公は、王族の出身です。ほとんどが王族と何かしらの関係があるのです。それは、王族への憧れとも考えることができますし、そうした高貴な身分の人間が、自分たちの階級におりてきて、そこで苦労をするという共感性を求めているとも考えられます。
 また、一つ指摘しておきたいのが、今映画が大ヒットしている『レ・ミゼラブル』も貴種流離譚の話型に似ていますが、ドラクエⅦはこの『レ・ミゼラブル』の文学性をも反映していると私は思います。ビクトル・ユゴーの大著作『レ・ミゼラブル』は、その後の文学に大きな影響を与えています。主人公たるジャン・バルジャンではなくて、脇役ながらガブローシュというテナルディエ夫妻の子供がいるのですが、この子供は小生意気で、元気いっぱいで、やんちゃな人物として造形されています。この小説が大ヒットしてから、ガブローシュという登場人物は、主人公のジャン・バルジャン以上に、物語の典型的な登場人物としての立場を獲得しました。ガブローシュというユゴーの創造の人物は、文学辞典に乗るほどです。主人公の仲間となるガボは、いつもなにかを食べているような、野性的で元気いっぱいの存在として登場します。ガボという名前がまずガブローシュに似ていますし、その性格や小さい子供であるということも鑑みると、『レ・ミゼラブル』から発展した典型的な登場人物であるガブローシュの性格がガボには受け継がれているのではないでしょうか。また、所属するユバールの民から半ば追放されたような演奏者であるジャンも、名前が名前だけに、どこかやはり『レ・ミゼラブル』と関連があるように思えてなりません。これを言っているのは恐らく私だけではないでしょうか。みなさんのご賢察をお願いします。

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