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太宰治「女生徒」試論  ―秘められた反戦メッセージ― 1

 
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 本気の評論とか記事に内容紹介に書いていながら全然本気を出していなかったので、たまには私の本気をお見せしましょう。二回に分けて載せますが、これ読めたら逆に私が読んでくださった方に拍手ボタンを押したいくらいです。覚悟ある方は太宰治『女生徒』を読んだうえで私の論文を読んでくださるとうれしく思います。
 ここしばらく映画についての記事が多かったですが、丁度『人間失格』からの流れで文学へ戻ります。記事どうしの脈絡に欠けるブログですが、広い視野でみればアニメも漫画も映画も「文学」だと私は考えていますから、ご了承ください。


「女生徒」は一九三九(昭和一四)年、四月一日に「文學会」で発表された。この作品は作家太宰治が得意とした「女性独白体」の作品である。その語りから、読みやすい作品ではあるが、なにが書かれているのかわかりにくい作品である。同時代評では、川端康成をはじめ、多くの文壇の人間が当時の女性徒の心情を見事に表現したとして、高く評価している。
 本稿では、時代背景も含め、「女生徒」が実は反戦小説として読めるのではないかということを述べる。

 「自然になりたい、素直になりたい」への願望
 「女生徒」に登場する語り手である少女は、常に自然になりたいという欲求がある。これは、宮内淳子氏の男性/女性=文化/自然といった二項対比から考えることが出来る。日本語の自然という言葉には、英語のNaturalとNatureという二つの意味があるが、この少女は、この二つを混合して考えている、あるいは別段二つを区別しているとは思えない。寧ろこの二つをイコールで結び付けていると考えることもできる。
 はじめに確認しておきたいのが、少女が土に対して自然性を見出している点である。「目に浸みる青葉を見ていると、情けなくなって、土の上に坐りたいような気持ちになった」「大地は、いい。土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。どうも私は、おっちょこちょいだ。極楽トンボだ」という箇所からも、土を自然とイコールで結び付けている少女の像があらわになっている。
 後にも触れるが、作品の終盤での母親との会話で、「靴がほしいと言っていたから」「いいの、そんなに欲しくなくなったの」という部分は一つには靴という人工物を履いて、自然との接触を絶たれてしまうことよりも、はだしでいるほうが土に触れていられるという考えから、このような会話になっていると考えることができる。そうして、このすぐ後で、「お庭をカアの歩く足音がする。パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある」という表記がある。これは、やはり庭を裸足で歩いているカアの姿が蒲団に入った少女の脳内にイメージとして連想され、自然のままに、あるがままに生きているカアを良いものとして考えていると読むことができる。
 では、反対に自然ではないものに対してこの少女はどのような感情を抱いているのだろうか。先ずは、冒頭の眼鏡である。
 「眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。汚いものなんて、何も見えない。」「青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。鳥の影まで、はっきり写る。美しい目のひとと沢山逢ってみたい」
「眼鏡は、いや。眼鏡をかけたら顔という感じがなくなってしまう。顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。」
 この二つの箇所では、眼鏡が悪いものとして象徴的に描かれている。眼鏡は、自然である人間の顔を覆って、かくしてしまう人工物として登場する。眼鏡は、少女にとって、人間と人間が自然なままで関係性を構築することの間に入って邪魔立てするものとして考えられているのである。
 ただ、先にあげた宮内淳子氏の男性/女性=文化/自然といった二項対比は、文化/自然まではなりたつものの、それが男性/女性とイコールで結ぶことはできないと私は考える。自然性に対応するものとして、文化的男性の象徴である「サラリイマン」に対してはこの女生徒も嫌悪感を持っている。ただし、男性一般に嫌悪感をもっているかと言えば、そうではない。自然性の象徴として登場する植木屋と抗夫であるが、この男性に対しては、厭な感情を抱いていないことからも、男性を否定している、あるいは男性に対して恐怖ないし、嫌悪感を抱いているという女生徒像は成り立たないだろう。女生徒は、「恋をしているのかも知れない」という箇所からも、確実に男性と恋愛の対象としての異性と認識し始めており、恋愛が不潔なものだというような感情は抱いていない。


 ロココの痛快・共感
 ロココとはフランス語のロカイユに由来する、フランスルイ15世時代の装飾様式を指す。「曲線過多の濃厚・複雑な渦巻・花飾・簇葉・唐草などの曲線模様に淡彩と金色とを併用」と広辞苑にある。
 「女生徒」に登場する女生徒は、このロココ様式をいたく気に入っている。
 
「ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ、料理は、見かけが一番である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほどの絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。だから、私は、ロココが好きだ」
と、お客様が来た際には、見事な手腕を発揮しているように描かれている。しかし、そのすぐ後に、
「いつもそうだが、私はお料理をして、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。死にそうに疲れて、陰鬱になる。あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。ついには、ええっ!と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばらばたやってしまって、じつに不機嫌な顔をして、お客に差し出す」

と、今度は態度が一変している。ここでは、やはり「無道徳」であることに対して、「だから好きだ」と決定を下した自分の判断に無理があったことを悟っているように感じられる。
 ロココは明らかに自然/文化の対比で言えば、文化的なものである。そうして、ロココは「内容空疎」とあるように、人間が作った大きな無駄であるという側面がここで浮き彫りにされている。
 ロココの象徴は、この小説内に多くちりばめられている。
「一字一行で、百円二百円と広告料をとられるのだろうから、皆、一生懸命だ。一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。こんなお金のかかる文章は、世の中に、少ないであろう。なんだか、気分がよい。痛快だ。」ここでは、ロココという言葉は直接出てこないが、このように人工的な力が多くかかって作られた言葉をロココの象徴としてみている少女を読者は読むことができる。
 少女が学校へ行く途中、きのうお母さんからもらった「古風なアンブレラ」が登場する。そこで少女はどのような服が似合うかという想像をするが、直後に、「現実は、この古ぼけた奇態な、柄のひょろ長い雨傘一本。自分がみじめで可哀想。マッチ売りの娘さん。」と客観的に見れば古ぼけていて、それを大事にしている自分の像がマッチ売りの少女の童話の娘とそうかわらないような、みじめさを感じている。
 学校へ着くと、少女が持っている風呂敷のように綺麗な小杉先生が登場する。小杉先生は、「山中、湖畔の湖上に住んでいる令嬢」と少女は感じている。この小杉先生は、胸につけているカーネーションなど、共通項が多いことから、女生徒の無意識のモデルとして存在していると私は思う。そうして、自分のモデルを小杉先生に無意識のうちに見出していながら、「つくる」ことをしている小杉先生を非難している。それは結局自分の「つくる」=「ロココ」を否定することにも繋がっている。こうしたことからも、小杉先生の存在は、この小説内において決して軽くない存在である。そのため、その先生に「愛国心」について語らせている点が重要であると私は感じる。「愛国心」について語りだす小杉先生に対して、女生徒は「つまらない」という言葉だけで、それに対してはあまり深く言及していない。それよりも、庭の薔薇を見て花を愛することを見つけた人間は、良いという判断を加えている。
 ここで薔薇を愛する人間は良いと判断しておきながら、その反対の悪いが明記されていないことは、秘かに「愛国心」が悪いと言っていると考えることが出来る。ただ、一九三九年当時、反戦感情を公な文書でかけたはずがないので、良いという言葉を使うことによって、その反対の悪いを隠すことに成功している。ここからも秘かな反戦のメッセージがあると言うことが出来るだろう。


 ロココの象徴としての、小さい白い薔薇の刺繍
 宮内淳子氏は「白い薔薇の花の刺繍を下着にしている女生徒は、この花を胸に秘して、根づくべき大地を探している」と論じているが、私は根付くべき大地を探しているというよりは、根付くべき大地がないことをさらに明らかにしていると考える。
 「上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。誰にもわからない。得意である」刺繍は、その次に登場するのは、文脈上「自然になりたい、素直になりたい」の後である。ポーズを「つく」りつつも、尊敬の念をもっている小杉先生に対して、美術の先生であろう伊藤先生は、自分の胸にある薔薇の刺繍が存在していることすら気づくことができないとして、「ばかに見えて仕様がない」と考えている。これは、美術をやってきた人間であるのにも拘わらず、「薔薇」の美しさを愛すことが出来ていないという点と、「ポオズに引きずられている」と言っていること自体もポオズになっていることへの反感であろう。小杉先生がポオズを「つけ」ているのに対して、伊藤先生はポオズに「引きずられている」。
 論が薔薇の刺繍から離れるが、このポオズに「引きずられている」ことについて、「可愛い風呂敷」とともに論じておく。「風呂敷」は、女生徒が学校へ行く途中のバスのなかで登場する。ここでは、「本能」という言葉が出てくる。少女は何故か、自分のもっている「可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったなら、私は、その人のところへお嫁に行くことをきめてもいい」と思う。そうして、文脈上、それが「本能」で、それには「私たちの意志では動かせない力」があるのだと言う。
 そうして、「引きずられながら満足している気持ちと、それを悲しい気持ちで眺めている別の感情と。(省略)本能が、私のいままでの感情、理性を喰っていくのを見るのは、情けない」と感じる。ここから、一般には、本能=自然と考えられるが、この小説内ではこの式が成り立たないことがわかる。少女は自然に対して、良い感情を持っていた。であれば、一般的に考えれば自然のまま、本能のままに行動しているのは良いことになる。しかし、少女は本能に対して、「大きなもの」で「否定も肯定もない」が、「本能」に喰われている状態は情けないと言う。
 少女の考える自然性が、本能でないとすれば、自然とは、理性や感情をコントロールして、自分の思い通りに自分を制御することができるということになる。「自然になりたい、素直になりたい」というのは、本能のむくままに生きたいということではなく、寧ろ本能を理性と感情でコントロールできるようになるということなのである。そうすると、さんざん少女が批判してきた文化的なもの。これらはロココが示すように、内容空疎のくせに過剰にしている。ポオズを「つける」のは、決して少女にとっても自然ではないが、どちらかといえば、まだポオズを多少なりともコントロールしている状況である。それに対して、ポオズに「引きずられている」のは、本能に引きずられている状態と同じであるという構図が浮かび上がると私は思う。
 論が逸れたが、最後に登場する薔薇について論じておく。家に帰ってきて、「しんとしている。お父さんいない。(省略)家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在る」と、父の不在を確認した後に、少女は下着の薔薇にきれいなキスして」いる。ここから、内容空疎であるロココが、薔薇の刺繍とイコールで結ばれ、それを秘している女生徒は、内容空疎であるという式が成り立つ。ここから、白い薔薇の刺繍が、「からっぽ」を強調するために登場する象徴物であると言うことができる。

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