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映画『人間失格』試論 感想とレビュー 原作との比較と胎内回帰の物語

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-初めに-
 太宰治生誕100周年ということで2010年前後で太宰作品の映像化が話題を呼びました。一応大学では太宰を勉強している身ですから、太宰治最後の完結作品『人間失格』がどのように解釈され映像化されたのかを確認してみました。
 すでに人生で4、5回読んだ『人間失格』ですが、読むたびに異なった表情を見せます。この重厚な文学性と多様性はやはり作家太宰治の技量が大変優れていたということを現しているでしょう。『人間失格』は『斜陽』や『ヴィヨンの妻』と並び解釈がとても難しい作品です。様々な解釈が出来ます。その解釈を戦わせるのがいわば文学を勉強する大学でも主なことがらになるのですが、映像化というのは明確に一つの解釈を提示するということになります。10人いれば10通りの解釈ができる文学作品を、一つの解釈として映像化するのです。もちろん映像化されたものをまた解釈する際にはそこからいくつも解釈は生まれますが、やはり文学作品と映画作品では解釈の幅が異なります。今回の映画『人間失格』は私の解釈と似ていた部分がありました。

-胎内回帰を巡る物語-
 『人間失格』は女性を巡る物語ですが、私はこの作品を胎内回帰の物語だと解釈しています。映画『NINE』でも指摘しましたが、女性から女性へ渡り歩くというのは、やはり女性性を求めているというより、女性のもつ母性性を求めていると考えられるだろうと私は思います。主人公である大庭葉蔵には、母の影がちらりとも見えません。彼は大きな資産家の家で何不自由なく育ちましたが、肝心な母の愛が欠落しているのです。多くの姉がいますが、それらの姉も縛りの厳しい家のためにヒステリーになっている描写がこの映画ではなされています。
 葉造は子供のころには物質的に豊かで精神的に貧しい生活をしています。大人になってから物質的に貧しく、精神的な豊かさを求めようともがいている姿は見事な対比になっていると私は思います。
 バーの常子、下宿先の礼子、編集者の武田静子、薬屋の寿、たばこやの良子、マダムこと律子、下女鉄、これらの女性を巡る物語です。原作と大きく異なる点は下宿先の礼子という女性が登場していることです。
 エリクソンの発達段階で言えば、あらゆる段階において母親からの愛情が欠落したために、基本的不信、恥と疑惑、罪悪感を抱いていると思われます。そうした子供のころの愛情に欠落しているために、女性を求めてしまうのではないでしょうか。「女のいないところに行くんだ」と良子が犯された後で自殺を図って病院で言います。ここで注意しておかなければならないのは、原作ではこのセリフの前に「うちにかえる」と言っています。そうしてそれを言った場所は病院ではなくて自宅だということです。当時は何かあったらすぐ病院ということではなくて、医者がそれぞれの家を訪問するという形式でした。現状とはあまりに異なっているため映画では便宜上病院に連れ込まれていますが、おそらく原作では自宅のはずです。
 そうしてこの「女のいないところに行くんだ」の後に、脳病院へ入れられて、その後津軽で療養することになります。津軽での療養先で鉄という老婆と一緒に生活していることがわかる部分で原作は終わっていますが、この映画では、ここを引き延ばして原作にはない映像を挿入しています。下女鉄との濃密な関係です。鉄は直接原作には出てきません。葉造の手記の中でも間接的に語られるだけですし、そのセリフもかぎかっこを使用して語られてもいません。
 「うちに帰る」が映画では消されてしまっていましたが、私はこれを原作では胎内に戻りたいという願望だろうと読んでいました。自宅にいるのにもかかわらず「うち」に帰りたいと無意識ながらに言ったと手記にはあります。それは時間と場所という二つの軸を超えて、母親の胎内というもっとも安全な場所に戻りたいという意味だろうと私は解釈していました。今回の映画でも胎内回帰を想起させるような映像が最後に描かれました。鉄との濃密な関係において、鉄は葉造の母なる存在として描かれています。
 子守唄を歌いながら、葉造を寝かしつけ、夢とも幻想ともつかない映像で、裸で鉄が葉造を抱え込むようにしている場面がありました。この物語は最終的に葉造は胎内回帰を果たしていると読み解くことができます。ですから、そのあとに葉造がどこかへ旅立ったのは、死と再生で言えば再生だろうと私は思います。一度胎内に帰ることが出来たので、自己同一性が画一され人間としてまた外界に出ていくことができるようになったのだと思われます。

-原作との比較-
 原作が1章と3章を語り手不明の人物が葉造という人間の手記を2章に引用するかたちで紹介しているという構図だったのに対し、この作品では2章だけを映像化しています。ですから、この映画では葉造の手記というメタフィクションの構図は排除されているのです。最初から葉造の物語になっています。また、少し危惧を感じたのは、葉造=太宰という構図がかなり濃密に描かれていると思われる点です。確かに原作でも、「人間失格」は太宰の遺書というような構図で読まれているのですが、それは文学の読みとしては解釈を狭める危険な行為として考えられています。ですから、この記事を読んでくださった方は、葉造=太宰という安易な構図で解釈するということに対して懐疑的になってほしいと思います。
 いちいちメモしなかったので忘れてしまいましたが、いくつもの太宰作品へのオマージュが見られました。バーの映像では「Hollywood」という文字が表示されていますが、これは『女生徒』に出てくる美容院「ハリウッド」だと思われます。また真偽のほどは定かではないのですが、太宰治は中原中也と議論したことがあると言われています。それを葉造と中原中也が議論している映像を流したために、余計に葉造=太宰という構図につながりやすくなっていてあまりよろしくはないのですが、この映画では中原中也や井伏鱒二まで登場しています。
中原中也との邂逅が決して小さくない意味を持っていますが、原作ではそんなものはありません。この映画ではトンネルを中原中也に導かれて潜るという構図がありますが、トンネルも考え方によっては隧道ですから、どこか胎内と外界とをつなぐ役割を果たしているとおも思えます。トンネルを潜った先には、どこか幻想的な(桃か桜かどちらか判然としませんでしたが)花弁が散る場面があります。命のはかなさのようなものもここにはイメージされているのではないでしょうか。そのあとの中原中也が突然死ぬことが暗示されていたわけです。
原作では手記がマダムに送られてきたということになっていますが、手記そのものが存在しない映画では、おそらく最初と最後にマダムのバーでつぶれている葉造と思われる人物は、物語の後に津軽から舞い戻ったと考えることが出来ます。あるいは物語途中でマダムのバーで居候している際の時間がなにかしら超越して、作品の前後に配置されているのかもしれません。原作でもマダムは特別扱いですから、バーでのマダムとの時間が最も重要な意味を持つことは確かです。

-終わりに-
 最近話題の生田斗真が主演したということもあり、話題を呼びました。現在生田斗真主演の『脳男』が公開されていますが、私はもう『悪の経典』でグロテスクな表現には参ったので行きません。予告ですでにだめでしたからね。『ベルセルク』でのガッツが腕を切るシーンも目を瞑りました。
 最近『脳男』に登場する「サイコパス」と呼ばれるような精神の持ち主がテーマとなった作品がはやっていますが、これは一体どういうことでしょうか。例えば2008年の秋葉原通り魔事件や今話題になっているグアムでの無差別殺人事件などが影響しているのでしょうか。先行きが見えない状況はバブル崩壊からリーマンショクで続いています。そうした不安的な時期になるとこれが絶対、唯一というようなものが尊ばれます。サイコパスは完全主義者ですから、そうした社会的な状況が何か作品に影響していると考えられるのでしょうか。社会の影響も考えて行きたい私としては、この問題に対してみなさんの意見を聞きたく思います。正しいとか正しくないとかありませんから、是非皆さんの意見をコメントしてみてください。

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