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映画『レ・ミゼラブル』試論 感想とレビュー 2 作品を貫く二つの視点、正義と自由

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-正義をめぐる物語-
 多くの人々が感動し、それをなんとか言葉で表そうとして、映画の評論や感想を書いている多くのブロガーの方々が自分なりの意見を述べています。これが本来はあるべき姿だと私は思っています。映画や小説などの作品は、よくランキング付けされますが、それぞれの人々の中にそれぞれのランキングがあるというのが最も好ましい状態です。この映画がそのように人々の心を打ち、それを何とか言葉にしようとするということは非常に良いことだと私は思います。多くの人々が様々なことを述べていますが、私も一つここに描かれている普遍的なものとは何なのかを論じてみます。
 まずは正義の問題です。正義の反対は何か。正義の反対とは実は悪ではなくて、別の正義だということがこの映画では描かれていたのではないでしょうか。小説だとジャベール警部はもう少し悪い人間に描かれるのですが、この映画のみだと、ジャベールも決して悪人とは言えません。まさしく法と規則の人間で、人間が作った人間を正すものを最上のものとし、崇高にかつ公平に法の力を行使します。あのような時代には、登場はしませんでしたが、ティナルディエ夫妻よりも凶悪な犯罪者は当然ながらごまんといます。そうした悪人を捕まえて社会秩序を守っていたのは誰か、紛れもなくジャベール警部たちなのです。ですから、一概にジャベールが悪人で、ジャン・バルジャンが善人という対比は成り立ちません。
 ジャン・バルジャンはパンを盗んだことによって19年投獄されたとありますが、流石にいくら国家の権力が大きくて法律絶対の時代といえどもそれはありません。映画では明かされていませんが、原作では何度か脱獄を図ったのです。ジャン・バルジャンは確かに、神父にであって神の愛を感じる前はある程度の悪いことはしていたのです。
 ジャベール警部が自殺する場面をどう解釈するかということですが、これは私は自我同一性の問題だと思っています。自分が信じて来た国家、法、規律、社会というような体制が、実は正しくないのではないかと悟ってしまったために、自分が生きている必要性がなくなってしまったのだと私は思います。ですから、悪がジャン・バルジャンという正義によって倒されたという簡単な構図は成り立たないでしょう。ジャン・バルジャンの正義を理解した際に、自分の今まで信じて来た正義が正しくなかったかもしれないと悟った。しかし、今となってはもう自分を変えることができなかったということも同時に悟るのです。自己同一化が国家権力を守る番人としての人間になされていて、今からそれを変えることはできなかった。しかし、だからといってこのままそれを続けていればバルジャンとまた戦わなければいけなくなる。だから自分は死んでそれを食い止めるしかないという非常に悲しいことになるのです。

 正義をめぐる物語はまだ続きます。マリウス、アンジョルラス等が起こした革命。これは社会に対する革命です。1787年のフランス革命によって打破されたはずの王政。しかし、1832年の作品内においては再び自由が奪われた社会になっていました。そこから脱却するために若者たちが立ち上がり国家を打破するための革命は、まさしく正義です。それに向かい合ったジャベール率いる警察もまた、社会秩序を守る正義なのです。正義と正義の戦いのなかで、ジャン・バルジャンという正義もまた、そのなかで自分の正義を貫きます。
 ある意味ではテナルディエ夫妻もまた正義と言えるかもしれません。彼らにはどうしても生きていくうえで必要なお金を稼がなければいけない。そのためには中流階級の人間からいろいろなものを盗みながらも生きていかなければならないという辛さがあります。意地が悪く、やっていることも悪いことです。しかし、それをしなければ生きていけない人間にそれをやめろと誰が言えるのでしょうか。社会が本当は悪いのですが、そのなかで必死に生きようとしているテナルディエ夫妻もまた、単純に悪と呼ぶことはできません。彼らにとってはあれが正義なのです。

-自由をめぐる物語-
 別の側面はやはり自由をめぐる物語としての視点です。1800年代前期はジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を発表するなどして個人の自由が尊ばれる時代でした。
ミルの『自由論』を読んだ際の記録
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-388.html
 『レ・ミゼラブル』でも、とにかく国家の権力が強すぎるのです。パンを盗んだだけで数年間投獄されたり、自由を簡単に奪うくせに、弱者を擁護する部分にあまりにも手を抜いていた時代です。国からの大きな抑圧や規制に対して、個人がどのようにして自由を獲得していくのかという問題でもあります。
 国や権力によって自由をはく奪され、貧しさと苦しさのなかで生きた人間はどうなるのか。ジャン・バルジャンのような悪人になるのです。しかし、バルジャンは完全に何物をも包む神の愛に触れて、人間性を回復します。通常であれば悪の道に走るところを神は救ってくださったとバルジャンは悟るのです。息苦しいなかでどのように自由を獲得していくのか。身分を隠しながらも徳によって市長まで上り詰めたものの、冤罪によって捕まった自分と間違われた人間を助けるために正体を明かします。本当の自由というのは、おそらく市長であり続けることではないのです。冤罪によって捕まった自分と間違われているかわいそうな人間をすくわずして本当の自由は得られないのです。
 些細な手落ちがファンテーヌというかわいそうな女性を貶めてしまいます。彼女はその運命に嘆き悲しみ、バルジャンに唾を吐きます。その原因が自分にあったかもしれないと考えたバルジャンは、ファンテーヌを救うことはできなかったものの、その娘であるコゼットを救います。自分には家族がいませんから、父や母に対する愛情も、妻に対する愛情も息子や娘に対する愛情もすべてをコゼットに注ぎます。それが一つのバルジャンにとっての自由だったのかもしれません。しかし、革命の若者と恋に落ちたコゼット。バルジャンは父の誰もが経験する愛する娘を男にやるということを経験します。ただし、バルジャンにとってはコゼットはすべてでした。妻がいる父ではないのです。自分にとってのすべての存在であるコゼットを若者に託す。初め若者とコゼットが近づくことを恐れたバルジャンですが、娘の幸せを自分が勝手に決めていいのかという葛藤に悩まされ、ついにマリウスを救出します。そうしてコゼットをマリウスに託したバルジャンは、自ら身を引き、死んでいくのです。ここには何物にも束縛されず、精神的な自由を手に入れた一人の男の姿があったわけです。
 若者たちが革命によって得ようとしていた自由は終には失敗に終わります。この若者たちが求めていた自由は結果としてもう少し後の時代に得られることになりましたが、しかし、今の私たちが本当に自由かと言えばそうではありません。やはり国による支配的なものはなくなったとしても、私は自由だと言える人はいないでしょう。本当の自由とはやはり国家の権力が大きくなりすぎないことももちろん重要ですが、それ以外に目に見えない部分であるような気がします。ジャン・バルジャンはその人生において精神的な自由を手に入れたのだろうと思います。この作品の普遍性は、自由をいかにして獲得するのか、それをバルジャンの人生を通じて私たちは考えなければいけないのです。

-終わりに-
 私はこの映画の本質は自由というものに主眼を置きたいですが、その自由の獲得の仕方はさまざまです。ジャンバルジャンは死ぬ際になってようやく本当の自由を手に入れたようにも考えられますし、ジャベールも自由になるためには死ななければいけなかった。若者たちも自由を獲得しようとしたために、みんな殺されてしまった。ではどのようにして自由を獲得したらよいのでしょうか。結論が出ていない問題です。ここ百年ちょっとでは自由を獲得できていないというのが現実なのだと私は思います。
 たとえジャン・バルジャンのように社会から自由をはく奪されなかったとしても、貧困の中で生きればどのようになるのか、それをテナルディエ夫妻が証明しています。彼らが悪い人間ながらどこか憎めない愛嬌sがあるのは、私たちとそう変わりはしないからなのでしょう。では、同じ貧困や苦しみのなかに生きていても、どうしたらジャンバルジャンのように生きることが出来るのか、これを考えなければなりません。
 ここから得られる、そうしたものを考えるヒントのいくつかは、例えば国や法律があまりにも人間を縛るなよということと、人間を愛することによって得られる精神の自由です。そうしてそれを手放せる自由や、キリスト教的な信仰心もあるのかもしれません。

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