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映画『悪の経典』への試論 感想とレビュー 一方的な立場からの暴力性と裁かれない悪・作品が今存在する時代の意味性

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-初めに-
2012年の秋は、洋画邦画ともに、話題性の高い作品が多く上映されました。中でも圧倒的なグロテスク表現で、話題を読んだ『悪の経典』はその作品としての価値と、また今の時代に登場したという存在意義性を考える必要があると思わせるテクストでした。
今回は映画自体と、その作品が今登場したこと、この二つの意味性を考えて行きたいとも思います。

-今出て来たその意味-
 今原作も読もうとしているのですが、この作品の原作は貴志祐介の2010年刊行の作品です。映画予告では、これから公開する『脳男』と非常に似ている点が気になりました。どちらの主人公も、感情が欠如しているということです。人間が人間に対して行える悪や暴力というのは、通常限界があります。
 数年前に話題となった『バトルロワイヤル』も、通常では考えられない暴力性が描かれています。私個人としてはこのようなグロテスク表現は気持ちが悪くなるので嫌いなのですが、やはりこうした作品がヒットしている点を鑑みると、その価値は否定することはできません。
 こうした作品に出てくる暴力性というのは、おそらく「暴力性の仮託」というように考えることが出来ると思います。アメリカ映画でグロテスク表現が盛んなのは、アメリカ人が国民的にそうした激しいものを持っているからでしょう。アメリカでは点数が入りにくい野球やサッカーよりも、たくさんの点数がはいるバスケットボールの方が人気です。だから、一般の人間は、そうしたスポーツやバイオレンス映画を見ることによって、ストレスを発散しているのです。
 物語の最も原始的なものは、神話ですが、こうしたものにヒーローの悲劇性などが多いのは、自分たちでは体験しえないことを、物語に仮託することによって擬似的に体験するということが必要になるからです。ゲームがこれだけ根強く多くの人間にとって楽しいのは、自分たちがその物語内で通常では体験できないことを、自分を主人公と同化して疑似体験することができるからです。ですから、数年単位でこうしたバイオレンス映画が登場するというのは、何かしらフランとレーションが溜まってきたことを示しているとも考えられると私は思います。
 
 この映画は、丁度現在のいじめ問題、体罰問題と前後して登場しました。このあまりにも狙い澄まされたように同時に登場する映画と諸問題の関連性は、無いとは言えないでしょう。やはりここには、教育現場での大きな問題があり、それが表出したのが今回の映画であり、諸問題であると私は考えます。
 『悪の経典』は、あまりに内容がグロテスクで酷いですが、ここには一方的な力関係の暴力性が描かれています。通常であれば生徒が主人公となって悪い教師を倒す、と言ったような体制批判や力への抵抗が描かれますが、この作品がほかの作品とは異なる最も重要な点は、絶対的な力を持った教師が生徒を殺していくという構図です。これは、あまり描かれませんでした。現在の諸問題の多くは、教師が生徒を殴った蹴ったの体罰問題です。その問題が出てくると前後して、この教師からの一方的な生徒への暴力性が描かれた作品が登場したということは、偶然ではないでしょう。
 
-都合の悪いものを消す行為・裁かれない悪-
 一見良好な教師に見えた蓮実聖司は、しかし、都合の悪い人間を次々に殺していくという猟奇的な人間です。仮面を被った良い教師としての一面と、人間を殺すことになんの躊躇いもない一面の二面性があります。 この人物の特徴を現代の問題と重ねて考えるのならば、必死に人間の悪い面を隠そうとしてきた仮面の化けの皮がはがれて来たということでしょう。
 そうして都合の悪いことをもみ消していくというのも、これまで日本が全体としてやってきたことにほかなりません。3・11の問題にしても、政府や企業は必死になって自分たちの都合の悪いことを隠してきました。時には口封じのためにいろいろなことをしたのかも知れません。日本の国民性というのは、ことなかれ主義ですから、何よりも無用な混乱を避けることが主眼になっています。大丈夫なはずがないことでも、大丈夫だ落ち着いて、安心してと取り繕います。こうした状況が、どこにおいても、この作品で言うのならば教育現場においても行われていたということへの鋭い批判になっているのです。
 この教師も、自分に都合の悪いことを隠そうとします。その隠し方というのが、殺人ということになります。ただ実はこれ五十歩百歩なのです。究極的に考えた場合殺人になるということであって、実は何か権力でもって黙らせることも、金などで口封じすることもまた、本質的には一緒なのです。自分に都合の悪い人間の口を封じるということは、本質的にはその人物の人間性を殺すということになります。この作品は、それをわからせるために、敢えて極論を持ち出しているのです。
 ただ、この自分に都合の悪い人間を殺すということ。これは実はまったく意味のないことであると誰もが知っています。この問題はドラえもんで素晴らしく鋭い指摘がなされています。「どくさいスイッチ」という道具があるのですが、のび太君が自分に都合の悪い人間を消すためにこれを使用します。消された人間は消した本人には記憶が残っているのですが、その世界には最初からいなかったことになるという道具です。初めにジャイアンを消すのび太ですが、しかしそのジャイアンの位置には、ジャイアンが消えたあとまた別の人間がそこを埋めます。こうした連鎖によって、結局はのび太君は全員消えちゃえと言って、地球上の全員を消してしまうのです。
 都合の悪い人間を消していくというのは、つまりどこかでその連鎖が切れることはありませんから、一人を殺したら地球上の全員を殺さなければならないということになるのです。ですから、最初数人だったのが、最終的には学校に残っていた自分のクラス全員を殺さなければいけないことになるのです。

 昨今の教育現場はとかく教員が責められる状況ですが、しかし、この作品が問題提起しているのは、教師側だけの問題でもないということです。学校でさまざま起こる問題は、一つには保護者が原因のものもありますし、生徒が原因のものもあります。もし、この作品内で、保護者、生徒の問題がなければ、この教師は生徒を殺さなくても済んだのではないかという予想が立てられます。そう考えると、反対に、教師が生徒に対して復讐するという構図が浮かび上がってくるのです。
 この作品の問題性は、何よりも最後まで悪が裁かれないという点にあります。クラス全員を殺すという猟奇的なことを行っておいて、映画ではこの教師蓮実聖司は最後まで裁かれないのです。通常であれば生徒に殺されるなり、警察に殺されるなりしなければいけないものですが、ここではただ捕まるだけという、あまりにお粗末な結末が待っています。
そうして、カラスの眼というイメージが、この教師から片桐怜花という少女に伝承されます。何ども登場していたカラスのイメージですが、この作品内では北欧神話オーディンの二羽のカラスをモチーフにしていることが示唆されています。神話では記憶と思考を司る二羽のカラスです。ここではそこまで深い意味はないでしょうが、罪の継承のようなものは感じさせます。カラスが実は蓮実聖司をのっとっていたというようにも解釈できます。そのカラスが、こんどは生き残った少女怜花に乗り移ったというように解釈できるのです。ですから、この時点で蓮実を罰しても意味がない。なんの罪もない少女をすぐに殺しでもしない限り殺人の連鎖は止まらないということが示唆されています。『悪の経典』はまさしく、悪が決してなくならず、裁かれないという絶対的に有利な立場からの一方的な攻撃性を描いた作品なのです。

-終わりに-
 正直グロテスクな表現が苦手だった私には、映画中何度も目を瞑ったり、気持ち悪くなることがあり、観るに堪えませんでした。AKBの大島優子も途中退出したとか。バトルロワイヤルやこの作品、脳男など、人殺しを主眼とする作品が数年のインターバルで流行るのは、どうしても仕方のないことなのでしょう。普段押さえつけられている感情の爆発をこれを見ることによって外部仮託するということが、ある点では必要になっているのかも知れません。

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No title

本で読むほうがいいと思います。

Re: No title

本の方もチェックしておきます。比較研究することでまた新しいものが見えてくるかもしれません。
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