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映画『ONE PIECE FILM Z』試論 感想とレビュー 多元的世界を一元化へしようとする師と、過ちを正す弟子の関係性

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-初めに-
 2012年は秋から様々なアニメ映画が登場し、ブームとまではならなかったものの、多くの人々がアニメ映画を観に映画館に足を運んだことでしょう。中でも突出していたのが、冬に公開された『ヱヴァンゲリオン新劇場版Q』と今回の『ONE PIECE FILM Z』。私はエヴァの方が興行収入は上だろうと予測していたのですが、エヴァのリピーターの数よりは、ワンピースの視聴者の幅の方が広かったようで、ワンピースの劇場版の方が興行収入を上回りました。
 アニメ映画がこれだけの興行収入をたたき出すというのは、外国ではあまり考えられないことでしょう。これは日本のアニメ業界が非常に洗練されていて、サブという名が冠されているものの、カルチャー(文化)に近い位置にまでたどり着いてきたからです。日本のアニメーションというのはとても素晴らしいものですし、私にとっては広い意味での文学ですし、誇りをもっていいものだと思っています。
 この二つのアニメ映画が特に突出した理由は、それぞれの世界観を作ったいわゆる大きな作品だからだと私は思います。エヴァはそれまでのロボットアニメでもなければ、どのジャンルにも分類することが出来ません。エヴァンゲリオンというジャンルを作ったのです。そうして、ワンピースもそれまでの海賊ものや、冒険ものというくくりの中には入りません。やはりワンピースという一つのジャンルを作ったのです。今、大きなヒットをする作品というのは、この世界観を一つ作り上げた作品に多いということがわかっています。また、それと同時並行的に、それまでの大きなジャンルに対して疑問を投げかける作品、例えばまどか☆マギカや、タイバニなども規模は小さないながらも重要な意味を持っています。これからのアニメがどのように発展していくのかが、今後見ていく重要な視点であります。

-ワンピースフィルム概略-
 ワンピースの映画は、それまでが主要キャラクターのひとりひとりを追ってきた物語だったものが、次第と映画だけで独立した作品になってきました。それまでの映画が、漫画、アニメの別の視点から描かれたというのに対して、それだけで独立するようになったので、劇場版という意味性が強まってきたと思います。
 前回の『ONE PIECE FILM STRONG WORLD』では、金獅子をCV竹中直人が特別出演するということで、大変な人気を博しました。私個人の感想としては、悪役というのは根から悪に染まった人間よりも、多少ユーモアのある人間の方が迫真性がありますから、とてもよかったと思います。ナミに対するときの軽い感じと、どすの利いた時の差異がメリハリがあって素晴らしかったです。
 今回の映画では、最大の敵であるゼファーことゼットを大塚芳忠が務めていてしびれました。こうした声優とは関係ない人間を起用することで成功したのが宮崎アニメなのですが、それを小手先だけでマネると大抵失敗するということになります。そうした部分に私はきちんと声優を起用したらいいじゃないかと思ってきたので、今回の大塚さんの起用は、流石に大ベテランだということもあり、見事でした。そうしてやはり、一つ失敗であると指摘しておきたいのが、アインを務めた篠原涼子とビンズを務めた香川照之両氏です。もし、この二人を起用するのであれば、このような脇役ではなく、ゼットレベルの人間に起用しなければいけません。こんな脇役に起用したばっかりに、二人とも演技で培った技術や経験のほとんどを活かせずに、むしろプロの声優を起用したほうがしっくりくる結果となってしまいました。これから未来のあるワンピースフィルムには、なんでもかんでも吸収するのをやめて、きちんと選別して質を高めて行ってもらいたいと思い、指摘しておきます。

-悲しみから一元化への道筋-
 今、ワンピースの映画の流れをごくごく簡単に追いましたが、作品内において、今の海軍をつくったのは誰かというのが、今回の主題です。前回の金獅子はある意味わかりやすい悪役でした。最初から最後まで悪役なのです。しかし、今回のゼファー、ゼットを映画を観終わった後で悪役だと断言できる人間はいないでしょう。今回の作品では初めて明確な悪役がいないという悪不在の戦いになりました。正義の反対は悪であるというのは、実は非常に断片的な問題であって、正義の反対はほかの正義なのです。私たち観客は海賊視点でこの作品に長い間触れてきましたから、海賊は悪ではないという視点が確立されています。海賊同士のなかで悪があるとしても、少なくともルフィ一味を悪だとはもう誰も考えられないでしょう。
 ではルフィ一味が悪ではないとすると、正義という文字を背負った海軍はどうなるのでしょう。ルフィの祖父がいることもあり、海軍もまた、内部でのいざこざがあるにしても海軍を悪だとは言えません。今回の映画は、元海軍の人間であり、現在の大将クラスの人間を育てた人間が、海軍にも海賊にも属さない新たな一派を立ち上げたという三つ巴の戦いが描かれます。ここには悪はやはりいないのです。

 そうして、またこの作品で言及された重要な視点は、何か一つの悪や悲しみという側面を見て、それは般化させて悪や悲しみのない一元化された世界にしてもいいのかどうかということがあります。たとえばエヴァは、他者との関わりがうまくいかない、他者があるから自分が傷つく、そんな傷つく人生なら、傷つかないように他人と自己を分け隔てているものをなくしてしまったらいいじゃないかというのが作品の根底にあります。それがATフィールドでもありますし、人類補完計画でもあります。『ねらわれた学園』でも、他者があるから、傷つく。だからテレパシーでお互いがわかるようにしようということがテーマです。『NARUTO』も同じで、悲しみが続くから、悲しみのない皆が平和に暮らせる世界、地球上のみんなを幻術にかけて一元化された世界にしようというのがテーマになっています。今回の映画Zも、海軍や海賊といった対立する構図があるから、それらをなくしてしまおうというのが、ゼット先生の目論見なのです。だから、ゼット先生は、海軍でもなく、海賊でもない第三局を作ったわけです。
 憎むべき海賊の抹殺をしようとしていたとパンフレットにはありますが、ゼット先生の最初の動機はそうだとしても、やろうとしていることの根幹にある思想は、このような多元的な世界から一元的な世界にしようということだと私は思います。エンドポイントのマグマによって海をなくしてしまえば、海賊も海軍もなくなるわけです。もし、海賊だけの抹殺を目的としているのならば、海軍にのこって自分が育てた大将レベルの人間を全員かき集めて海賊討伐に向かえばいいはずですから、やはりそうした単純なことではないと私は思います。

-多元的な世界を一元化へ・師と弟子の関係-
 ただ、多元化された世界を一元化するという物語は、大抵の場合失敗します。なぜならそれがなされた瞬間物語が終わってしまうからです。文学作品やアニメの中にはそうした一元化がラストにされることもあります。まどかは一元化されました。そのあとも別の可能性があることを示唆しているために、完結したという感じを抑えるのに成功していますが、一元化されると物語は終わってしまいます。まして、ワンピースはまだ続きますから、勝手に終わられては困るわけで、最初からゼット先生の目論見は完結できないことが最初からわかっていたという、実に明確で明快な作品です。作品の深みがないと言えばそういうことにもなりますが、続き物の劇場版を作るのは、原作のストーリーに影響しないように制作するために多くの制約が生まれますから仕方のないことです。
 その代わり、この作品が非常に感動できるのは、別な普遍性を内包しているからです。それは師と弟子の関係です。通常師匠の側の人間が主人公になるという物語は少ないです。それは師匠が人間としての成長を弟子を教えることによって得られる度合いが少ないからです。当然物語は弟子の成長にフォーカスされます。しかし、この作品は敢えて師匠の側の人間をフォーカスしました。もし、自分たちの師が、間違った道を歩んだら、一体だれが師を止めるのかということです。
 自分を導いてくれて、今の自分があるのはあの先生のおかげだと言う人間が道を誤った場合どうしたらよいのでしょうか。この作品はそれに対して、弟子たちが先生の過ちを正すという一つの視座を与えています。青キジが登場したのは、漫画で言及された赤犬との戦いのあとどうなったのかを示すためでもありましたが、それ以上に、自分ではかつての師匠を正すことが出来ないので、ルフィたちに頼みにきたということにこそ意味を見出すべきでしょう。
 黄ザルは唯一大将のなかでは二年前とポジションが変わっていないために、動きやすく、自ら非情とも思えるほど自分のかつての師と戦闘を繰り返します。ある意味ではあの非情さのなかに、せめて自分の手で師匠の過ちを正したいという気持ちがあったのかも知れません。結局は、ルフィとの戦いのあと、自分の理想がかなわないということをわかりつつも、男として自分のそれまでに為したことの責任を取るために自分のかつての生徒たちに殺されに行きます。ルフィとの戦いによって、過ちは正されたのです。しかし、だからと言って、じゃあ海軍に復帰するということにはなりませんから、最後まで過ちを犯した人間がどのようにしてその責任を取るのかということを、生徒に最後の教えとして残すために、生徒たちに全力で向かっていったということになるのです。大将クラスの人間が流した涙は、自分の師匠を自分の手で殺さなければいけないということもありますが、既に過ちに気が付いた先生が、最後の教えとして責任の取り方を教える姿に涙したと私は考えます。黄ザルの登場はあまりに遅いですし、ルフィとの戦いを見守っていたと考えることもできるでしょう。敢えて黄ザルは嫌な役を買っていますが、ある意味ではそうでもしないと泣いてしまうために、演技しているとも考えられます。この普遍的な師と弟子の関係性が描かれたため、この作品は非常に感動できる作品になっているのです。
 海軍が歌っている海導(かいどうではなく、うみしるべだそう)は、師匠と弟子との教えの導きというテーマを、海と人間との関係で唄っただけであると私は思います。

-終わりに-
 今回特に無理が生じたのが、アインとビンズ。派手なキャストを起用したわりには全く存在感がなく、存在価値もなく、何とかそれを捻出させるために、アインには「モドモドの実」という、作品を崩壊させかねない恐ろしいものを出してしまいました。大体「時間」を操れるものを出すと作品は崩壊します。ハリーポッターでも、あの時間を戻せる時計を登場させたがために、じゃあなぜダンブルドアはそれを使用して、ヴォルデモートと戦わなかったのかということの理由を言うためにほぼ理解できない内容を口にしています。なのでSF出ない限り、時間を問題とするのは私は大きな駆けなのでやらない方がいいと思っています。この作品でも、それだったら何よりもまず自分の身近にいるゼット先生を最盛期の状態に戻してあげればいいわけで、何も老人にあそこまでやらせなくてもと思いました。ロビンちゃんがどうしてあの年代の身体ではいけないのかというのはわかりかねましたが。
 ゼットは単なる恨みではないのに、わかりやすいように恨みとしている点や、アインとビンズの問題などかなり無理が生じていると私は思いました。これからのワンピースフィルム発展のために、論じました。

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