映画『ふがいない僕は空を見た』試論 感想とレビュー 群像劇から見る生=性の構図・現実逃避とコスプレ

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-初めに-
 窪美澄原作の『ふがいない僕は空を見た』が2011年の文学界を賑わしてから、短いスパンで映画化がなされ、原作を読んで感動した多くの人々が映画を観に行ったのではないでしょうか。文学作品の映画化というのは、メディア媒体を考えるうえで非常に重要な視座になってきます。媒体を超えるということがどういうことなのか、今回の映画化は作品それ自体だけでなく、こうした側面をも考えさせられる出来事でした。
 特に原作は文学のなかでも純文学です。エンターテイメントではないので、一般読者が読んでも面白味や愉しみというものはありません。そこには人間が描かれているのです。こうした人間の深い部分を現すのに映像がどこまで表現できるのかということが問題となってきます。
 大学に客員講師として来ている映画の監督も、自ら映像を撮りながら、その媒体としての限界を感じていると話していました。心理描写が言葉ではなく、映像でしなければいけないということになります。私たちは笑っていたって内心では怒っているかも知れない。それは文学では表現しやすいですが、映像では表現しにくいということになります。

-作品をめぐる5つの視点-
 『ふがいない僕は空を見た』というタイトル、現在文学やアニメなどの作品のタイトルが徐々に長大化している流れにのっています。ただ、原作では空を見上げるという描写はほとんどなく、その代わりに映像では、それぞれの主人公の章ごとに空を見上げた際の空の映像が映し出されました。
 この作品は原作がそれぞれの人間をめぐる群像劇として描かれます。この群像劇の中心になるのは、一つには斉藤卓也という男子高校生を中心とした人間関係。そうして、もう一つは川の近くという場所をめぐる人間関係です。
 一章が卓也の視点から描かれる物語。30代のコスプレイヤーあんずとの恋を描きます。この作品がR指定になるのは、この二人の性交渉があるからです。そうして、次は一章と被る部分があるものの、視点が変わって描かれるあんずの物語。あんずの視点から見ることによって、卓也との関係のほかに、彼女の夫との関係や、姑との関係が浮かび上がってきます。次は卓也の母寿美子の視点。寿美子は助産師という、今では病院での出産が当たり前となってしまった時代に、ほぼ独力で助産師としての仕事をしています。この一見強そうに見える母も、実は夫、つまり卓也の父と別居中であったり、コスプレイヤーあんずとの関係がネットに晒されて大問題となっていたりと大きな悩みを抱えています。
 次の章は、卓也の友達の福田良太という高校生の視点の物語。彼は卓也がネットでさらし者になって、家に引きこもってしまった代わりに現実を見るための存在として視点を提供しています。しかしまた、彼の視点からは、その土地独特の暗闇が照らされることになるのです。川のある田舎として設定されている舞台は、作家レベルで言えば窪さんは明確にどこをモデルにしているか明らかにしていますが、この作品内では、水との関係性が重要になってきます。その土地をめぐる物語として、団地地区の人間は一種阻害された存在として描き出されます。団地の人間は、碌に勉強もできずに、それは自分の問題でも周囲の問題でもありますが、良い仕事も得られず、悪いことをする巣窟として町の人間から忌嫌われています。良太はそのなかでたくましく暮らす存在として登場します。ここでは一つのミステリ要素として、ネットで晒された卓也のコスプレをして性行為をしている写真を町中にばらまいている犯人は誰なのかということが問題となります。それは視点がバトンタッチのように移り変わる過程で明らかになるのですが、良太と同じく団地にすむあくつという女子高生なのです。
 
-生=性をめぐるテーマ-
 この作品に流れているのは、生命というテーマ。原作者も今回の映画監督も、生=性という「せい」を善悪なく賛歌するというテーマだと述べています。原作ではこの生=性のテーマを強調するものとして、水の横溢という事物が付加されていました。それはこの町に台風が来ることによって川の水が氾濫し、洪水のようになるという描写です。これは出産時の羊水をイメージさせるものです。
 文学を読み解く一つの視座としては「胎内回帰願望」があります。これは、人間が無意識のうちの母親の胎内を覚えていて、人間が最も安心していた状態に帰りたいという願望です。しかし、この作品はそうした観点から見ると、胎内回帰願望の反対の概念はまだ提示されていませんが、どちらかというと回帰するというよりかは、この世に生まれてくる方にテーマを置いた作品だと私は思います。
 この物語は卓也の母寿美子が助産師ということもあり、常に出産というラインが同時並行しています。妊婦として登場するのは、一人は卓也の担任の教師です。この教師はあまり人間として成長していない、子供がそのまま大人になったような存在として描かれますが、その教師が母になるという経過がこの作品の別ラインとして平行しています。また、卓也とは全く関係のない、一組の夫婦も出てきます。この夫婦は自然出産にだけ視点が固定化していて、絶対に自然分娩でなければいやだと言います。確かに自然に生まれてくるということはいいことなのかも知れません。それは現在の科学至上主義へ対して懐疑心をもったために起こったごく自然な感情でしょう。しかし、人間の自然性というのは本当はなんなのかよくわからないことになります。よく人間と自然を対比させて考えますが、そうすると人間の自然性とはなにかよくわからなくなるのです。人間がやることはすべて人工的であるともいえるし、自然であるともいえます。いざこの妊婦が出産間際になって自然分娩が難しいということが判明しますが、そうすると突然手のひらを返したように、この夫はだから病院できちんとやってもらったほうがよかった、こんな信用のおけない助産師なんかに頼むからこうなったと怒り始めます。そうして運んで行った病院でも看護師からいざ、最後に困った際には病院に頼みこんでくると嫌味を言われます。
 私は人間の出産とはもっとも根源的で自然な行為と考えていますが、この出産というひとつの生命を新たに育むという行為をどのように行うのか、この問題での争いに過ぎないのだと思います。しかし、この作品で重要なのは、このように一方では子供の生み方でこれだけもめている反面、子供がまずできなくて苦しんでいる女性がいるということです。

-現実逃避とコスプレ-
 それがあんずの苦悩になっているのですが、あんずは子供ができません。そうして子供ができないことをその姑は非常に古典的な人間として子供をなせない女性は昔は出ていかなければならなかったというように責めるのです。子供ができない原因はその姑の息子である、あんずの夫の精子にもあったのです。それを聞いて激昂する姑などは、迫真性がすさまじかったです。
 子をなせないこととそれへの姑の強いプレッシャー、夫との性生活の問題から、あんずが卓也との性交渉を一時的にでも癒されるためにしていたということがわかります。このコスプレというのも非常に重要な視点だと私は思っていて、コスプレというのは、つまりほかの皮を被ること、演じることになります。それは古くから文学世界ではシェイクスピアの登場人物がほかの衣装を着たり、仮想したりすることによって、普段の自分とは異なった人格を演じるということが言われています。コスプレも、衣装をきることによって、演じることによって、普段の自分とは別人格に変質するということになるのです。それは日常、非日常ということもできますし、また、このようなプレッシャーから逃れるために演じざるを得なかったということにもなります。

 この作品が素晴らしいのは、妊娠できる女性と妊娠できない女性の苦悩を描いて相対化している点、そうしてもう一つが現実逃避のためにコスプレして何とか自分の逃げ道を確保できた人間と、確保できなかった人間の対比、相対化をしている点です。
 あんずはそれが彼女の人生にとって良かったのか悪かったのかはわかりませんが、一時的にでも辛い現実から逃げることはできました。しかし、コスプレという手段にたどり着かなくて現実から逃避できなかった人間はどうなるのでしょうか。それが、この土地での暗闇として描かれる団地の人間です。高度経済成長期に都心の地方にベッドタウンとして多く建造された団地。しかし、バブルが崩壊したのち、そこで生活している人間の面倒を見る人間はいませんでした。だから、金がない、教育ができない、学歴がないから働けない、金がない、悪いことをするという負の連鎖がそこでは根付いているのです。その犠牲となったのが、良太とあくつです。この二人は団地の人間というだけで、町のバイト先で「団地の人間は」と根拠なき批判をされます。団地の子供がコンビニの商品を盗んだ際には、まるで良太が悪いように叱られます。あくつはそれを黙ってみていました。
 この二人は団地という場所から抜け出せない存在なのです。団地はアリ塚のように、どこまでも人間を負と暗闇のなかに取り込もうとします。そんななで、あくつが自分の友人である卓也のスキャンダルを発見した際に、憂さ晴らしのためかネットの画像をばらまくのです。そうして卓也の親友でもあった良太は、ビラをばらまいているのがあくつだとわかった時、この作品の大きく解釈の分かれる部分の一つ、親友の卓也をかばうためにあくつを糾弾するのではなく、あくつのビラくばりを手伝うのです。
 良太は卓也の親友ですから、普通の感覚で行けば、そのせいで学校にこれなくなっているのですから、あくつを止めるはずです。しかし、良太は何故かあくつのビラ配りを手伝うのです。これは親友良太を裏切る行為にもなります。しかし、そのあと何の罪悪感もないようなまま、卓也の家に行って、いつまでひきこもっているのかと叱咤激励したりするのです。一つは、団地というだけで批判されることへの反抗的な感情が、憂さ晴らしの形となってこの行為に代弁されたのでしょう。また、この抜け出せない地獄からもがき、外界への働きかけとして現れた行動かもしれません。もう一つは、卓也にとってスキャンダルとなることをしていながらも、こんなことに負けるなよという相反する、好きだからいじめるみたいな感情に似たものがあったのかも知れません。

-終わりに-
 この物語は、このように現代の問題を抱えた五人のふがいない人間を描いた物語です。しかし、そこではふがいないながらも、必死に生きようとしている姿があります。それは醜くもあり、汚くもあります。望まない性行為によって子供が生まれることもあるでしょう。しかし、それでも生=性を肯定する。これは3・11があった後のどの文学も言及しなかったテーマです。人間はやはり生きているだけで偉いと私は思います。
 原作での心理描写、例えばあんずが自分の心を自分でだますためにわざとらしい語りをしたりする部分は映像では描かれません。それに台風や洪水といった羊水の横溢というテーマも現実レベルで時間と費用がなかったためか映像化されていません。その代わりに、それぞれの章では晴れ渡る空の、ほんの数秒の映像が実に印象的で、こころがふっと軽くなるようなカタルシスがそこにはあります。
 映画は、最後に卓也の担任の教員が生んだ男の赤ちゃんの映像で終わります。男性器を見て、卓也は厄介なものを付けて生まれてきたなというのです。男は子供を産めません。しかし、いついかなる場所で女性を妊娠させてしまうのかという責任は男性のほうがあるでしょう。自分で子供を産むという責任が取れない分、余計に厄介なのかも知れません。どちらにせよ、生きること自体が素晴らしいという作品です。この映画と原作が、より多くの人間に触れるように願い、論じました。

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