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桜庭一樹『伏 贋作・里見八犬伝』への試論 感想とレビュー 多義的テクストから因果の物語を俯瞰する

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-初めに-
 最近アニメでも八犬伝をモチーフにしたものが公開し、今なぜか滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のブームが到来しています。その火付け役となったのが、桜庭一樹の『伏 贋作・里見八犬伝』でしょう。2010年に発表したこの作品は、その後アニメ映画化され、先日まで東京ではテアトル新宿をはじめとして公開されていました。残念ながら私は映画を見損なったのですが、この原作をどのように映画化したのかが非常に気になっていたぶん、悔しいです。
 
-桜庭作品の文学性-
 今、力のある作家のひとりに数えられる桜庭一樹が、どうしてこのような古典文学を基礎にした作品を書いたのでしょうか。私は原作の滝沢馬琴『南総里見八犬伝』を読んでいないので、本来であれば批評できないのですが、あくまでこの作品にみを論じるという点から考察していきたいと思います。
 桜庭一樹の最近の小説は、彼女がデビューしたジャンルであるライトノベルに多少近づいている感じがします。あとで桜庭さんの最新作『無花果とムーン』も論じますが、いずれも純文学の分野からライトノベルに近づきつつあると感じました。その存在意義性を考えると、純文学という、今出版業界が厳しく、活字離れが進行しているなかでもっとも読まれにくい分野を、ライトノベルの要素を取り込むことによって活性化させようということになると私は思います。人気作家がジャンルという壁に立ち向かっているといえるでしょう。
 古典文学作品を下敷きにした作品を残した作家は、まず思い当たるのが三島由紀夫や芥川龍之介でしょう。いずれも当時の流行作家でした。桜庭一樹のこの作品は、ライトノベルという要素を入れ込みつつ、歴史小説調の作品に仕立て上げられています。江戸時代の市民の生活をいきいきと描写しながら、視点が14歳の少女の眼からのため、だれでもわかる娯楽小説になっています。

 現在文学界では、この作品のように一つの世界観を構築できるいわゆる「大きな作品」が出てきていません。私はそうした「大きな作品」、つまり一つの世界観を構築できたのは、小野不由美の『十二国記』が今のところ最新であると思っています。それに続くライトノベルの作品はいくつもありますが、いかんせんライトノベルだけという小さなジャンルのなかでしか成立しえない作品の普遍性のなさを考えると、やはりそれらの作品には一つの世界を構築できていないと考えるのが妥当だろうと私は思っています。
 この作品も、ひとつの世界観を構築しているとは言え、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を下敷きにしているので、すでにある一つの世界に便乗したということになります。それがいけないというわけではありません。芥川にしろ太宰にしろそうしたコラージュでもあり、オマージュでもあるパロディの文学性を極めた人間ですから、ここにももちろん文学性はあります。問題となるのは、私たちがそのような状況にあるということを認識することだろうと考えています。

-テクストの多義性-
 この作品は、三人称浜路視点の物語です。それぞれの段落ごとに、巻名がついていて、まるで巻物を読んでいるような雰囲気が出ています。これがこの作品の一つの世界観を作り上げている要素の一つでもあります。さらに、この作品は、作品自体が滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』という古典を下敷きにして、インターテクスチュアリティとしているのに、さらに作品内にもう一つの滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』というテクストを組み込むことによって、メタテクストの構造をつくりあげるという、非常に複雑で多重的なテクスト構成になっています。
 ひとつは三人称浜路視点の物語、一つは滝沢馬琴の息子という設定の滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』、そうしてもう一つが犬人間である信乃の語りという三つのテクストが展開されています。さらにこれに、テクスト外として『南総里見八犬伝』があるという構成です。
 ですから、いくつもの異なった視点のテクストを三つないし、四つならべることによって、私たち読者は客観的に状況を眺めることができ、それぞれの語り手には知りえなかった情報を統合することによって、ひとつの物語を紡ぎだすことができるのです。作家レベルで桜庭さんの作家としての態度がよく表れていると思います。つまり、作品は作者のものではなくて、読者がそれぞれに構築していくものであるということです。それを成し遂げることができたというのは桜庭さんの作家としてのレベルが高いからでしょう。

-因果をめぐる物語-
 作品はこのようにいくつものテクストから織りなされていますが、その根底にあるのは、一つは仏教的な因果の物語です。前世に悪い行いを行ったから、現世に禍が起こる。だから仏教に帰依して徳をつもうというような思想です。この作品は非常に明確な二つの力の対比が描かれます。一つはもちろん主人公である浜路側、人間です。そうしてもう一つは人間ならざるもの、つまり犬と人の間のもの、犬人間になります。この対比は、さらに人間が犬人間を狩るという対比になります。犬人間は身体能力を高く、非力な市民を次々に殺していくのですが、狩人である浜路とその兄は、彼らを狩るというこういう対比になります。これは非常に明確でわかりやすいのですが、この対比が確定しているのは、一つ目のテクストまで。
 ひたすら暗躍して犬人間のことをくまなく調べている浜路たちと接触のある滝沢冥土は、父馬琴の『里見八犬伝』の完成を間近にして、ひそかに自分の『八犬伝』すなわち『贋作・里見八犬伝』の筆を急いでいます。父が記した『八犬伝』がいわゆる正史のようなものであるとすると、子冥土が書いた『八犬伝』はその裏を記しているような構図になるのです。すなわち見られなかった視点に光を当てる。まさしくこの作品全体がそのような構図になっているのと、ここでも対比がなされています。
 いったいどうして犬人間が生まれたのか、この生き物は何なのか、何が目的なのか、そうした原因を突き止めるための書物なのです。そうして、今まで語るすべもなく、光も当てられてこなかった部分に冥土がメスを投入した際に、その作品が狩人である浜路のこころに深くしみます。この明確であった狩るものと狩られるものという二項対比が揺るぐのです。
 そうして、最後のテクスト、犬人間である信乃の語りによって、さらにその対比は揺らぎます。狩るために信乃を追っていた浜路は、ひょんなことから江戸の地下に位置するという洞窟に落ちてしまいます。仕方がないので、敵同士であった二人が、協力してここからの脱出を図るのですが、その際に信乃は自らの一族の悲運な因果を語り始めます。
 一つ前のテクスト『贋作・八犬伝』で、犬人間の生まれが分かった読者は、その後彼らがどのようになったのかということを、信乃の語りによって知ることができます。そうすると、本当に彼らは殺され、狩られるべき存在なのかという疑問が生まれます。そうしてこの小説の最後も、一つとした明確な答えを出していません。浜路は、それでも狩る旅はおわらないと旅に出ますが、もしかしたら、彼ら犬人間との共存もできるかもしれないという可能性をも秘めています。そうした狩る、狩られるもまた、生まれという因果によって決まります。その因果を断ち切ることができるのかというのが、この作品の根底に流れているものだと私は思います。ある意味では、その因果はみっつの視点から支えられることによって断ち切ることができているとも思えます。

-終わりに-
 桜庭作品の文学性は多義性と、読者の読みの自由さがポイントになると私は思います。浜路が多様する「ん」というセリフ。これはうんともすんとも判断が付きません。はい、なのかいいえなのかはっきりしないのです。どちらにも解釈できる。一応狩りをして育ってきたために、勉強などはしていませんから、彼女はあまり頭が良い人間としては描かれません。そうして、「ん」という言葉で判断を濁す。この作品は浜路の成長物語としても読めます。彼女は最初からずっと悩み続けて判断を遅らせているのです。それがいくつもの人間や犬人間、話をきくことによって一つの答えを見つけていく。こうした面が、一種ミステリの要素も含みすばらしい作品を構成しているということになっているのです。

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