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池澤夏樹『スティル・ライフ』試論 感想とレビュー ミクロとマクロからの視座・成長物語としての視座

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-はじめに-
 現代小説のなかでも、極めて異端な部分の小説を書いている作家のひとりは、池澤夏樹でしょう。彼の文体は、もともと詩から発展したもので、読み人間に散文調では味わえない詩的なうつくしさを感じさせます。「彼女」のことをガールフレンドと呼んだりする点はどこか、村上春樹とも共通しています。池澤夏樹と村上春樹は非常に文体が似ていると私は思います。
 池澤夏樹が詩的散文なのに対して、翻訳調の村上春樹の文体が似ているというのはどこか不思議でもあります。これは、個人の問題ですから、彼らの文体が肌に合わないという読者もいます。私個人としては、村上春樹の文体はあまり好きではないのですが、池澤夏樹の文体は好きです。比較的抽象的な文章が好きだということなのかも知れません。

-『スティル・ライフ』ミクロコスモスとマクロコスモス-
 中公文庫から出ている『スティル・ライフ』は、『ヤー・チャイカ』を含んでいます。本作で芥川賞を受賞した池澤夏樹、まだ作家の若々しさが伝わってくるようなみずみずしい作品です。
 『スティル・ライフ』というのは、直訳すれば、静かなとか平穏な生活ということでしょう。この小説は、語り手のぼくと佐々井という男二人の関係性を描いた作品です。冒頭で突然この世には二つの世界があるという始まりには驚きました。語り手は二つの世界を木に喩えて説明していますが、私は人間の内側の宇宙と外側の宇宙、つまりミクロコスモスとマクロコスモスのことを指しているのだろうと解釈しています。この二つの対比が象徴的にはじまるこの小説は、二人のまったく異なった人間の関係性が構築されます。
 タイトルの通り、語り手のぼくは、とても受動的な存在として安穏な生活を送っています。二十台後半にもなって、バイトをするだけの生活で、仕事でミスして上司にしかられるくらいが、大きな出来事なのですから、およそ平凡な生活ということができると思います。そこに突然の異種としての佐々井という男が来訪してきます。これは、異界訪問譚としても読み解くことができると私は思います。まったく性質の異なる他者が、自分の世界に入ってくるということなのです。ですから、上で述べた宇宙の話をすれば、自分の世界に、自分の外の世界の住人が来訪してきたということになります。
 この佐々井という男は、全く地に足を付けないで生活している不思議な男です。生活感もなく、別段隠しだてているわけではないのだけれど、秘密のベールに覆われている。本当はかつて違法な仕事をして金を使用したことにより逃亡生活をしているということがあとで分かりますが、それを聞いてもあまりおどろかないぼくと、その後も変わらない二人の静かな関係性は奇妙でありながら、どこか霧かかった湖畔の空気のようなおももちを私は感じました。
 異界訪問譚として読むと、やはり最後はまたどこかへ旅立つというのが必定です。佐々井は、ある意味鶴の恩返しのような典型的な話形の異種に相当します。突然ぼくのもとへやってきて、ぼくの広い家に住み、そうしてそこでぼくがかわりに佐々井の仕事をすることによって、お金をもうけて、ふたたび佐々井はどこかへ旅立っていく。ただ、この小説が、古典的話形と異なるのは、ぼくにとってお金が全く必要のないものだという点です。ぼくは、金持ちの叔父の家にただで居候させてもらっている身分で、およそ財産には困りません。そうして佐々井とともに働いて稼いだお金も、別段必要とはしていないのです。では、ぼくにとって、佐々井が与えたものはなんだったのか、ここが問題になると思います。
 
 佐々井がぼくに与えたものは、物質的なものではなく、ある一つの価値観だったのだろうと私は思います。それは、冒頭の世界の話にかかってくるのです。つまり、自分の内側の世界しかしらず、そうしてそれに満足していたぼくに、佐々井は外の世界を見せるという役割を担っていたということです。語り手が、この小説を佐々井がいなくなった後に書いているとしたら、「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない」という言葉は、語り手がかつてのぼくに対して発しているのか、あるいはこの部分だけ外界=佐々井が発しているのかという問題になると思います。
 ここに登場する二人は、お金を稼ぐという極めて実利的なことをしていながら、なぜかこの小説はまったくそうした生活感や、地に足をつけているという感覚がしません。これは、ネット上の用語でいわれるいわゆる「世界系」としての側面もあるのではないでしょうか。「世界系」というのは、自己と他者の関係性が、そのまま中間的な世界、実生活の世界=社会をはさむことなく、大きな世界、つまり世界の崩壊などとイコールで結ばれるということを指します。この二人の関係性は、社会をはさむことなく、そのまま内面の宇宙と、外面の宇宙とにイコールで連結されているのです。だから、どうしても飄々とした人間になる。
 佐々井が見せたのは、外の世界です。小説では写真をスライドしてぼくに見せる場面がなんどかあります。肉体としての佐々井が去った後、ぼくは、一人部屋のなかで雲のように成文化された佐々井と対話をすることになります。これは、佐々井の空気が家にのこっていたと考えることも出来ますし、ぼくのなかに残存した佐々井の断片だったのでしょう。ぼくが、佐々井という存在によって、外界との繫がりを回復していくという自我同一性の問題をも含んだ作品であると私は思います。

-『ヤー・チャイカ』 成長譚としての側面-
 池澤夏樹が他の作家とまったく異なる点は、「北方」の要素を作品内に取り込んだことでしょう。「ヤー・チャイカ」という言葉は、この作品ではヴァレンチーナ・ヴラヂーミロヴナ・テレシュコーヴァが1963年に宇宙船ヴォストーク6号で女性で初の宇宙飛行を果たした際に無線交信で彼女の言った言葉として紹介されます。池澤夏樹文学は、こうしたロシアやアイヌなどの北方の知識を含んだために、どこか寒い地方の秘められたものを感じさせる部分があります。
 この小説は全く何を言っているのかわからない不思議な小説です。一人称小説ですが、ひとつは鷹津文彦という男の一人称小説、もうひとつは「わたし」の日記的な小説、もうひとつは「わたし」の一人称小説。
 非常にわかりにくくなっているのが、ふたつの「わたし」の物語です。ひとつは、恐竜を飼っているという少女の、理科の観察日記のようなもの。これがまったくわかりません。もうひとつの「わたし」のものがたりは、鷹津という男の娘である「わたし」の視点から書かれた小説です。この三部がそれぞれおりまぜられながら展開していく小説になっています。
 ここで分析できる問題のひとつは母の不在です。離婚したと思われますが、鷹津にとっては妻がおらず、少女といっても高校生の女の子にとっては母がいない。そこに、やはり異界訪問譚的な話形が組み込まれます。ロシア人のパーヴィル・イワノヴィッチ・クーキンという中年の日本が堪能な男性がこの関係性の間に入り込むのです。
 
 ひとつこの「わたし」の恐竜観察日記がなんであるのかを考えるとすると、母不在の欠落した関係性のなかで、父鷹津との関係が何らかの限界を迎えたということです。むすめの「わたし」は第二次成長期にあり、あたらしい自己を確立しなければいけないという時期。そこに母がいないのですから、それがうまくいかず、少女は別段なんの問題となって表面化しているわけではないものの、父と子(まだ性的に画一していない)としての関係性を乗り越えられません。そこに、母ではなくて外界から、ロシアからの男性が介入することによって、少女が性的に発達していくということなのでしょう。
 それが少女の内面で象徴的に描かれていたのが、あの恐竜日記のような一人称の部分です。少女は、恐竜をかっているわけです。この恐竜というのは、なにを象徴するものなのか、多義的に解釈できますが、私は父鷹津であると考えます。父との関係性はいつも良好なのです。たまにどちらかが、いつもの時間にえさをやらなかったり、こなかったりすると、心配になって探しに出かけたりする。それが、小説最後では、少女の「わたし」が二分化します。恐竜となかよくしている「わたし」を見守る「わたし」が突然登場するのです。これが、かつての父との関係性から、独り立ちするということを象徴的にあらわしているのだと思います。
 それがタイトルの「ヤー・チャイカ」にもかかってくるのではないでしょうか。「私はかもめ」と宇宙飛行士が言ったということは、まぎれもなく人類史上最高の解放を得たということと同じです。このセリフを言ったのが、女性飛行士であると言う点でも、実はこの小説の主人公は鷹津に思えますが、少女「わたし」が成長する成長譚として読み解けると思います。

 また、この側面を反対から見ればこの少女の成長を、二人の大人が見守っているという構図にもなります。二人が共通して共有している湖面での経験。霧につつまれて、少年心に死と恐怖を覚悟するも、そこから何らかの外界からの手助けがあってそこから生還する。これも一つの異界訪問譚でしょう。霧に囲まれるという幻想的な世界のなかで、ふたりの少年は自分のいた世界から旅立つわけです。そうして、恐怖や死の恐ろしさを経験することによって、ひとまわり大人になってかつて自分がいたコミュニティーに戻ってくる。死と再生の物語がここにはあるのではないでしょうか。少年が大人になるのには、そうした異界訪問が必要になります。それは『スティル・ライフ』でいうところの外界の世界、マクロコスモスなのでしょう。しかし、それと対比される少女は、マクロに飛び立って大人になるというよりは、自分のうちがわの世界での解放が必要になるわけです。だから、妄想を続ける少女に、そとからのクーキンという異性(あるいは、鷹津の代わりになる新たな父=母)を取り入れることによって、成長することが出来たということになるのです。

-終りに-
 科学的な知識と、民俗学的な非科学的な思想とが、おりまざり美しい布を織成しているような文体が、池澤夏樹の文体ということができるでしょう。そのため、大変わかりにくいという点もあります。どこか主人公たちはみな飄々としていて、浮かんでいるような感じもする。それは、自己と世界との関係性に主眼がおかれているからなのでしょう。
 池澤夏樹に宇宙の描写をさせたら私は日本一うまいのではないかと思っているのですが、こうした詩的で抽象度の高い文学作品は、村上春樹、池澤夏樹以降、出てきていません。こうした文学がこれから出てくるのか、それが注目される動向ではないでしょうか。

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