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『「映画をつくる子どもたち」オーストラリアの挑戦』試論 現代教育にこそライティング・スクリーンを

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-はじめに-
 特に昨今、若者の活字離れが増加の一途を辿り、日本ではサブカルチャーというアニメや漫画の世界が非常に隆盛している。それを、本の世界に戻るべきだという考えはやはりおかしいだろう。私は、現在の状況を認め、ではそこから何を学んでいくのかという方向へ転換したい。
 横溢する情報化社会のなかで、どのように情報を取捨選択していくのかが問題となってきている。近頃気になったことは、NHKが画面のはじっこに視聴者のツイートを載せることになったことである。私はこれに対して大いに反対である。情報を取捨選択し、発進するはずのNHK,ニュース番組がこのように何の見識ももたない多くの人間の意見を「そのまま」垂れ流しにしているからである。考え抜かれ、誰が発したのかという責任がわかる意見ならよい。NHKは出来るだけ公正かつ正しい情報、主観ではなく客観的な情報を発信するべきである。
 このように、一つの例をとっても、現在はニュース番組さえ情報を取捨選択できていない状況にあるといえる。このような中で、私たちが情報に飲み込まれずに自ら選択し、自分に必要なものを見つけ出す能力が求められている。この能力は一般に情報リテラシーとよばれるが、私はこの情報リテラシーは、本質的に読み書きの能力と同じであると考える。つまり、読書をしてそこから必要な知識や、豊かな想像をすることなどと本質的には同じだろうと思っている。

-現在の教育とライティング・リテラシー-
 ジェーン・ミルス先生が行っていたシネリテラシーというのは極めて有意義な教育であると感じた。読み書きの能力が決して活字だけに限ることではなくて、映像媒体でも同じことが言えるということを見事に証明したのである。現在私は幸運にも、大学で映像を専門に読み解く授業を受けている。他にも国文学特講では評論家の榎本教授がアニメなどの映像媒体を読み解く授業も行っている。これらの授業はたいへん役立ったと私は感じている。こうした授業こそ、さらに教育現場でなされるべきであると私も考える。
 ただ、問題は現在の日本の教育現場の融通の利かなさ、非常にお役所仕事的で柔軟性の無さである。最も専門的で自由なことが出来る大学だから、このような映像を読み解くという授業がかろうじて成立している。それも、文学部、国文学科という極めて狭い分野だけである。これが、どうして他の文学部や、経済学部、法学部などのような分野でも行われないのだろうか。あるいは、こうした教育が必要なのはむしろ、小学生、中学生、高校生である。私は教員を目指しているので教職をとっているが、とても実際に国語の教師になったとしてそこでこのような映像を用いて授業をすることはできないだろう。総合の時間などを用いて行うことは出来るかもしれないが、国語としてやるのは現実問題難しいと感じる。このような教育現場における教育の質の「狭さ」、これが意識されなければならないと私は思う。

 今、ようやくアニメやドラマ、映画も文学であるという認識がされつつある。何故か国語というと、活字だけを眼中に、文章を読み、作者の心情を考えるという実に狭い教育がされている。これからは、このような映像も文学として読み解く必要がある。ただ、このように考えている私自身も実はかなり凝り固まった考えをしていたと、今回の映像を見て考えさせられた。私が考えていたのは、シェーン先生の言うところのリーディング・スクリーンだけだったからである。
 シェーン先生は、かなりリーディング・スクリーンの方は省略して、ライティング・スクリーンに時間と労力を割いていた。これは、映像最後のインタビューでリーディングをもう少しやらなければいけないということが自覚されていたので、そのバランスが問題になるだろう。ただ、私は完全にこのライティングということを考えていなかったのである。そうした考えの堅さを指摘されたようではっとした。
 文章も同じことで、いくら読み解きを練習していても、いざ書くとなると別問題になる。今まで特に意識もせずに読み流していた部分が、書くとなるとどのようにしたらよいのかわからなくなる。例えば文頭を一文字下げるということも、読んでいるときには意識しなくても、書き始めると「あれ?」と疑問が湧いてくる部分である。かぎ括弧がついていたら下げるのだろうか?そのままなのか?書くことによって発見されることは大きい。
 映像が今、極めて私たちの身近な存在となった。3・11やそれ以降の大きな事故、事件などが起こるたびに、報道関係で流れる映像は、その多くが視聴者による投稿になった。これは、携帯型の端末があの小ささでとても性能の良いカメラが通常装備されたことによるだろう。スマートフォンなどは、僅か1センチもないカメラであるにも拘わらず、テレビの画面に映してもそれなりに良い画質の動画が簡単に撮影することができるようになった。もう、カメラを買わなくとも映像を撮ることが出来る時代なのである。

-終りに-
 ライティング・スクリーンは、今までの勉強が出来る子達だけが活躍するという状況に終止符を打つ。この点に関して、映像のなかではそうしたエリートの子達の自尊心を損なわないように配慮する必要があると述べていた。その点に気をつけるとしても、このライティング・スクリーンは今までには発言の場が与えられなかった子どもたちが発展する機会を与えてくれるだろう。また、ライティング・スクリーンは私たち教師が教材がつくるのではなく、生徒たちが教材を作っていくという、極めて主体性の高いものとなっている。本を読んだらすぐ感想文という、極めて受動的でつまらない、時に子どもたちの苦痛になるような一元的な授業を打開するすばらしい可能性を秘めた教材である。
 ただ、こうした教育は、質の教育であるから、それを評価できる教員でなければいけない。点数化することが難しいことから、多くの教員はこれを敬遠するだろう。だからこそ、そうした部分を教育し、評価できる人間をつくっていかなければならないという逆説にもなり、この教育の必要性が認められるわけである。また、映像では学校と生徒と地域社会とが三角関係になって連携することが必要であると述べていた。今現在の日本の教育は、表向きには開かれた学校づくりが必要である、地域社会との連携が重要であると声高らかに叫んでいるが、実際はそのような方向へ少しでも行動をしようという教員はほとんどいない。そうした点をも、この教材は解決する糸口になると私は感じた。
 映像という媒体は、それを見る際には多くが受動的な体制になってしまう。何気なく見ているということになりかねない。しかし、それがライティングになると否が応でも考えざるを得ない。こうした場合はどのようなアングルから撮るべきなのだろうか、こうした心情を映したいときにはどこを写したらいいのか、時間は、光の強さは、などなど、実際に自分たちが作るということになると、見えていたものががらりと変わると感じる。この教育を現在の中学、高校にも持ち込むことが目下求められることであると私は考える。

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