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金原ひとみ『蛇にピアス』試論 感想とレビュー 縦の関係性と横の関係性、人体加工の意味

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-はじめに-
 綿矢りさの研究者としては当然2000年代前半をにぎわせた二人の若き芥川賞作家を考察しなければなりません。ただ、私事で恐縮なのですが、どうも生理的というかグロい表現が苦手で、手術とかの映像を見ることも辛いですし、血などの表現もだめなものですからずっと避けてきました。ですが、まあ読まなければなと思い、かなり無理をして読みました。

-横の関係、縦の関係-
 特に最初の描写は非常にすばらしすぎるために、私はもう読むのが辛くてしょうがなかった。電車のなかで読んでいたら貧血になって倒れるかと思いました。それはさておいて、スプリットタンに引かれてアマという男と共生することになった主人公のルイ。この小説は女性アマの視点から語られる一人称小説です。
 このルイという女性は、客観的にはギャルと認識される10代の女性。しかし、このアマ同様、ルイも十代の割りにとても大人びて見える。この小説にでてくる人物たちは肉体的には若いのに、ひどく早熟した老成した人物として描かれます。二人が出会ったのも、黒人が勧誘しているようなディスコ。ルイはギャルとして、いわば当時の派手な十代らしく世の中を粋がって生きていたのです。ところが、このディスコでであった同じく十代の男アマ、見た感じでは若くも年取っても見えるという不思議な様相をしているようですが、この男のスプリットタン、蛇のように分かれた舌をみて、それに魅了されます。
 一般的なギャルで、人体加工にいままで興味の無かった少女ルイがどうしてそのようなものに興味を感じ始めたのか、これがこの作品を読み解く手がかりになっていくのではないでしょうか。
 
 人体加工というのは、この作品でも問題になりますが、ある意味人間ならざるものになろうとする、つまり神の力を得ようとする行為でもあります。少し宗教的に考えれば、自分のことを痛めつけることによって得る快感、エクスタシーのようなものがあるのでしょう。それは人間をトランス状態にして、神に近づけます。こうした思想は、極めて西洋的な思想でしょう。古くからの日本の思想とは相反します。先日ラフカディオ・ハーンの『小泉八雲集』を読んだのですが、ここには非常に日本人らしい思想のエッセンスがありました。こうしたものと真っ向から対立するそういうテクストです。
 日本の身体感覚は、例えば「親のからだ」と考えられる思想や、現代でも「貴方だけのからだじゃないのだから」といった言葉から、自分のからだは自分のからだであって自分のからだではないという考えがあります。自分のからだは、それを生んで育ててくれた親のからだでもあり、自分の配偶者や子供たちのからだでもあるわけです。だから、からだを大事にしなければいけないという思想になる。しかし、この小説ではそのようなくびきから完全に解放された世界が描かれます。そこには現代の家族のあり方に対するするどい批判も含まれているかもしれません。この世界は人と人とが線でつながらず、点と点の関係性しか築かれていないのです。

 ある意味では横のつながりと考えることも出来ます。人間同士の繫がりはない。実際、アマとルイは同棲していながら、お互いの本当の名前も知らないという関係です。しかし、それではあまりに寂しいから、縦の関係を考える。すなわち人間と神の関係です。だから、ここに登場する人物たちはピアス、スプリットタン、刺青などの身体加工を通じて神的な存在に近付こうとしているのかも知れません。

-同性愛的な視点-
 後半から多少サスペンス要素を含んでくるという点が、多少作品をありきたりなものにしているかなとも思われます。ただ、肉体関係がありつつも、恋人だとは認識していなかったアマが消えたことによって、突然その大切さに気が付いたように感情が乱れるルイは、やはり表面上は大人ぶっていても、まだ子どもであったと考えられます。
 犯人は最後までわかりません。状況証拠だけを考えると、もう一人の登場人物であるシバさんというアマの先輩のような人物であろうことは確かですが、少なくともルイはそのように判断したようですが、問題はどうしてシバがアマを殺したのかという点です。
 最も簡単な解釈は、ルイを奪い合うアマとシバという三角関係。アマという後輩が連れてきたルイという女性が可愛かったからその女を自分のものにしたいということで、男が邪魔になるのでアマを殺したというのが一番簡単な解釈です。
 ただ、このシバの攻撃性というものを少し考える必要があると私はおもいます。シバというのはシバ神のシバでしょう。破壊の神ですから、そうした性向が動機付けされている人物です。性交をする際にも、ルイの首を絞めて、苦しむ表情を見ないと勃たないという極めてねじまがった性癖を持っています。ただ、人というのは他人の苦しむ姿が快感であることは間違いはないので、これはある意味かなりねじまがっているようにも見えますが、最も根源的なことでもあります。やはり他人の不幸は蜜の味ですし、いじめの問題にしても他人をいじめるのは楽しいのです。これは否定のできないことです。仕方がないことなのです。
 そのような殺人的な衝動があるシバは、何度かの性交のなかでルイのことを殺したいと言います。本当に殺したいのかどうかはわかりませんが、シバにとって殺すということは愛情の裏返しでもあるわけです。ですから首を絞めつつ性交するわけです。

 私は、シバは本当はルイと同様に、あるいはそれ以上にアマのほうを愛していたのではないかと考えます。つまり、シバの同性愛説です。シバはどうしようもない、なんとか理性で抑えているもののすぐに野獣とかしてしまうような子どもであるアマの面倒をよく見てきた人間であることがわかります。バイト先を紹介したのも彼ですし、刺青を彫ってやったり、その他いろいろな面倒を見ていたのは彼です。ただ、二人の時には恋愛感情や肉体関係はありませんでした。その関係性に入り込んできたのが、ルイです。
 ルネ・ジラールの欲望の三角形を持ち出すと、ルイがメディエーターとなって、アマのことをシバとルイが奪い合うという構図ができるわけです。同時にシバはバイセクシャルですから、ルイにも手をだした。そうすると反対にシバを中心に、アマとルイがシバを取り合っていたということも擬似的に起こっていたとも考えられますが。ここでは、アマのことをシバとルイが奪い合っていたのだろうと私は考えます。
 アマのことがなんとなく気になっていたシバ。そこにアマに彼女のルイができることによって、シバはそれに刺激され、アマをうばいたくなってしまったということでしょう。だから、ルイには殺人的な衝動がおこっても、実際に殺すまでには至らない。その程度の愛情なのです。しかし、アマに対しては爪をすべてひっぺがし、殺すまでに至るほどの残忍さを見せている。これはそれだけシバにとっては愛情が深かったということの裏返しなのです。
 最終的にはアマはシバのことを受け入れ、幸せに死んでいっただろうということが予想されます。そうして、シバと共に歩んでいくことになるルイ。彼女は何故か何の根拠もないのにシバとの関係は大丈夫だと断言します。これは殺されるほどの愛情をもらえないということも気が付いているのではないかと考えられますが、ここは永遠の謎です。

-終りに-
 この小説に登場する人物たちは非常に痛々しい人間です。生きながら死んでいるようでもあります。さらに、ルイがつぎつぎに身体加工をして神に近付いていくなかで、生きる気力を失うというのもとても象徴的な構図になっています。この物語は上で述べたように、縦と横の関係性や、現代社会の家族のありかた、それから同性愛的な関係性の伏線など様々な視点から読み解けますが、根底にあるのは生死の問題でしょう。
 生きるのが下手な人間なのです。社会に適応することが出来ない。でもそうした人間に対して社会というのは非常に冷たい。だから、ある意味ではそうした社会への批判でもあり、アンチテーゼとして彼らは身体加工をして生きるしかないのです。

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