トーマス・マン『ヴェネツィア(ベニス)に死す』試論 感想とレビュー 本当に同性愛小説として読み解けるのか?

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-はじめに-
 以前映画を見て、大変感銘を受けたので、映画の記事を書いたのですが、今回はその原作を論じます。海外文学は、今のところ私が信頼を置いている光文社古典新訳文庫から出た岸美光氏の訳のものを読みました。
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-67.html
 
-アッシェンバッハという男-
 今までこの作品は同性愛の小説として読まれてきました。おそらく作者もそれをわかった上で書いているのでしょうし、そうした読み方が間違っていないとも思います。しかし、どうもそうした読み方が強すぎるような気がします。中には同性愛が描かれているのだろうと端からくくって馬鹿にするような人もいますから、今一度本当に同性愛かどうか確認する必要があると私はおもいます。
 私はこの作品は同性愛的な側面もありながら、実はそうではないだろうと考えています。もともとは別の言語で書かれたものですから、どうしても翻訳だと言葉の深い多義的な部分まで見ることができないのですが、限界を感じつつ論じてみます。
 
 先ず、この小説は三人称小説で、グスタフ・アッシェンバッハという高名な作家を描いています。小説が小説家を描いているため、どうもこの小説自体をアッシェンバッハが書いているという謎の解釈がありますが、それは違うでしょう。そうして、この主人公であるアッシェンバッハがどのような人物なのかをもう一度考える必要があります。
 アッシェンバッハがの精神状態は通常どのようであるのか、「キケロが雄弁の本質とよんだ「絶え間ない精神の運動」」をしていると書かれています。
 「完成できないという芸術家としての恐れ―自分の仕事を果たし、完全に自分を出し尽くす前に時計が止まってしまうのではないかという心配」が老齢になったアッシェンバッハを焦燥に駆り立てているとしても、完璧主義者的な側面がここから読み解けます。
 「そしてまた自分のしぶとく誇り高い、繰り返し実証されてきた意志の力と、次第に募ってくるこの疲労感との間の、神経を磨り減らす日々新たな戦いも嫌いではなかった。この疲労感は人に知られてはならなかったし、作品に淀みや弛みが現れて人に悟られてもならなかった。しかし、弓を張りすぎてはならないこと、これほどの生命力で飛び出してきた欲望は自分がそう望んだからといって押し殺すこともできないこと、それは自明の理であるように思われた。」これを一言で表すと「堅忍不抜」であると書かれています。このように、アッシェンバッハは非常に耐えるという性質の強い、意志の強い人間であったことがわかります。芸術派ある意味精神活動をかなり酷使して行われます。だから、多くの芸術家が精神崩壊してきたということを歴史が証明しています。そのなかで、アッシェンバッハはその精神の疲弊、これ以上もう描けないという状況になりつつも、まだ憤然として高みをめざさずにはいられない。そうした人物なのです。

 「彼らは体格に恵まれず、資産もままならず、それでも高みに昇る意志の力と賢明な自己管理とによって、少なくともしばらくの間は我が身を削って偉大さの効果を勝ち取るのである。彼らの数は多い。彼らは時代のヒーローである。孤独と沈黙の人が行う観察や、その人が出会う出来事は、仲間の多い人の観察や出来事よりも曖昧であり、同時に切実でもある。そういう人の考えはより深刻で、変わっていて、どこかに悲哀の影がさしている。ただ一度の視線、一度の笑い、一度の意見交換で簡単に片付けられるような映像や発見が、異常にその人を刺激し、沈黙の中で深められ、意味を持ち、体験となり、冒険となり、感情となる。孤独は独特なものを生み出す。大胆で異様に美しいものを、詩を生み出す。しかし孤独はまた倒錯したものを生み出す。均衡を欠いたものを、不条理で許されないものを生み出す。」
 こうした、人間の限界に挑むような極限での精神活動をするものにとって、彼らにはほんの些細なことが全てになりうるような感受性を持っているわけです。ここでふとであったのが、あまりにも美しい少年タジオでした。ほんの些細なことから、物語を紡ぎだすまでに高められた感受性に、このような誰もがはっとするような美男子が目に入ったらどうなるのか、想像に難くありません。暗闇になれて、ほんの小さな光でも見えるようになった眼が、突然通常の明るさでも眩しいと感じるような光を見るようなものです。感覚は麻痺し、下手をしたら失明するかもしれません。このアッシェンバッハも、美男子に遭遇したことによって、芸術家としての感覚を麻痺させられたことでしょう。そうして、即座にこのタジオの美しさが完全であることを認識したのです。完全や完璧については、上でも述べましたが、もう一つそこを言及している部分がありますので、それを載せます。

彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事をつづける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。次に、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ誘惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。」
 アッシェンバッハは海に対してこのような感情を抱いています。思えば、海という広大なものを眼にすると、人間のこころは休まります。大きな存在に対する時に何かを感じるのは人間の本質的なものでしょう。私が現在研究している「エヴァ」でも、主人公のシンジが、星空、宇宙を目の前にして安心するというような旨を述べていますし、オーストラリアの先住民があの大きな岩に対して神的な存在を見出すのもそうしたことがあるからだと私はおもいます。そうして、アッシェンバッハが、不思議と水の都であり、海と隣接したベニスという土地に足を運んだのは、そうした巨大な存在、ある意味では母なる存在を求めていたからでしょう。自分を抱擁してくれる大きな存在に引かれていったのです。この傾向は、同時に胎内回帰と考えることもできるでしょう。完璧な存在のなかにはいりこみたい。そうした思いは誰もがあるわけです。ましてや感性が洗練されたアッシェンバッハにとってはこのような休息が必要だったはずです。
 父親の家系は現在で言えば公務員のような、堅牢で忠実な家系で、母親が情熱的な詩人であったということからアッシェンバッハのような才能が現れたとこの小説では書かれています。だいたいアッシェンバッハの美への強い欲求、そうしてそこへ向かうだけの強烈な意志の力や、精神の破滅を防ぐ誠実さなどが備わった稀有な芸術家であるということがわかったと思います。

-アッシェンバッハ、美の保存-
 「自分を犠牲にして精神の中に美しさを作り出す人間が、美を体現した者に父親のように好意を寄せ、心からの愛情を捧げる、そう思うと彼の心は満たされ、感動にふるえた。」
 「「あの子はとてもひ弱で、病弱なのだ」と思った。「おそらく年をとるまで生きることはないだろう」。そう考えるとなぜか満足し、ほっとしたが、その気持ちに細かく説明を付けることは断念した。」

 この小説で最も謎だと思ったのが、このP68の部分です。この小説は三人称小説ですが、アッシェンバッハに寄り添う視点で書かれています。そうして、このアッシェンバッハは非常に高度な精神と観察力を持って、極めて論理的に説明ができる人物です。その彼が、何故かタジオと出会い、そのタジオが病弱で、これからあまり長く生きることがないと判断したあと、その思考を急激にストップさせてしまったのかが問題になるだろうと私は思いました。そうして、ここを解き明かすことが、この小説を本当に同性愛の小説であると読めるのかという部分に関わってくると思います。
 ここには、芸術家の本来の衝動があるのではないでしょうか。それはすなわち保存の衝動です。彼は後に「言葉は感覚の美をただ讃えるだけで、再現することはできないと思った。」と感じて落胆しています。私も小説や絵を描く人間なので、多少は分かるつもりでいますが、時にわたしたちはすばらしい風景や感情に出会うことがあります。それを何とか冷凍保存してしまいたい、こうした感情があったのではないでしょうか。タジオが歳をとらずに若くして死んでしまうことを悟ったアッシェンバッハは安心して思考するのを放棄しています。これはつまり、こういうように解釈できないでしょうか。タジオはアッシェンバッハの求めていた完全な美を有していた。しかし、当然タジオも大人になる。そうしておじさんになったタジオは当然その美を失うことになる。しかし、若くして死ぬということが分かったので、その美が失われずに済むということに安心したのではないでしょうか。ある意味では坂口安吾の『堕落論』的な考えにも近いでしょう。処女の美しさが失われてしまうのなら、処女のまま死んだほうが良いという考えです。美が失われるのなら、死んでしまったほうが安心できる。それがアッシェンバッハの思考を止めた原因ではないでしょうか。もし仮に、タジオが健康で、この先何年も生き続けるように感じられたなら、アッシェンバッハは急いでその美の冷凍保存をしようとしたはずです。すなわちアッシェンバッハにとっては小説を書くことによって、その美を閉じ込めるということをするはずなのです。しかし、この小説では、タジオについて短い論文程度のものは描いたという描写がありますが、それ以外でタジオのことを記したものはありません。ある意味で言えば、この小説自体がタジオの美を保存するというメタテクスト的な構造にはなっていますが、作家アッシェンバッハは保存をしていないのです。
 
 ですから、私は言いたいのは、アッシェンバッハがタジオに対して抱いた感情は、肉体的な感情、同性愛的な側面よりは(決してそれが全くないとは言いませんが)、美の保存という芸術家としての側面が強かったのではないでしょうか。それが偶然男同士だったから、こうした精神的な芸術的な感覚を理解できない人たちが同性愛という簡単なレッテルをはることによって理解しようとしているのだと私は思います。
 
-終りに-
 最後に、アッシェンバッハがタジオという完璧な美を見た結果、美に対する認識がどのように変化したのかを引用しつつ論じます。
 「私たちだって奈落は否定したい、威厳を獲得したいとは思う、しかしどこを向こうと、奈落は私たちを引きつけるのだ。だから私たちは、たとえば認識が解決してくれるという考えを退ける。なぜなら認識には、パイドロスよ、威厳も厳格さもないからだ。認識はものごとを知り、理解し、そして許す。矜持も形式もない。そこには奈落への共感がある。認識が奈落なのだ。だから私たちは断固としてこの認識を退ける。そうなると私たちの目指すものはただ一つ、美だけだ、つまり単純さと、偉大さと、新しい厳格さと、第二の率直さと、形式なのだ。しかし形式と率直さは、パイドロスよ、陶酔と欲望に導く、高貴な者をおそらくおぞましい感情の犯罪へと導く、それは彼自身の美しい厳格さが破廉恥として非難していたものなのに。そう奈落への導くのだ、その美しい厳格ささえも奈落へと。」
 アッシェンバッハはベニスにくる以前には、最初に引用したように、自分の体調や年齢を考えて完全な美を求めることができないかも知れないという意識を持っていました。それがベニスという海に囲まれた地で、考え方によって胎内に回帰した状態で、完全な美に出会うのです。そうしてその美を見た際に、すでにそこには完璧さがあり、そうしてそれを自分が保存する必要のないことを感じました。そうして、やはり堕落論のように、美しいままで死ななければならないという思想に帰結するのです。
 上で引用したのは、最後にアッシェンバッハがタジオとの関係を神話に仮託して話す部分です。パイドロスはタジオのことを述べていると考えられます。結局はタジオの美も奈落へと落ちていかざるを得ないということだろうと思います。
 ですから、ある意味ではアッシェンバッハは人生の最後にして彼が求めていた完全の美に出会うことになったのです。反対から言えば、完全な美を見てしまったがために、彼は自己同一化が完結されこれ以上この世に生きている必要性がなくなったために死んだとも考えられます。何もアッシェンバッハが死ぬ必要はなかったのです。これは小説・フィクションですから、生かしておいてもよかったはずなのにわざわざ殺すということは、彼の目的が達成されたためであると考えることが可能だと思います。

 まさしく芸術のための芸術作品です。理屈が多かったり、抽象論が多かったり、神話へ移行してしまったりと、中篇小説の割には非常に読みづらく難解な感じになっている小説ですが、そこに描かれているのは一代限りとは言え、貴族の称号を与えられるほどの大芸術家と、完全な美が封じ込められています。これを保存することができたトーマス・マンは、架空の人物アッシェンバッハを勝るとも劣らない作家であるといえます。光文社の古典新訳で非常にわかりやすくなりましたので、読んで愉しむことが出来ます。

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