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ことなかれ主義へ待った! KY(空気読まない)人間の重要性

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-ことなかれ主義の横行-
私が昨今感じるのは、非常に自分の言いたいことが言えなくなっているなという雰囲気です。日本人らしさというものがあります。外人から見て、これが日本の美徳だという人もあれば、だから悪いんだという意見もある。今回私が言いたいことについては、この日本人らしさが、悪影響を及ぼしているのではないかと考えています。
私が今、ここで述べている日本人らしさとは、「出る杭は打たれる」精神です。集団に準拠し、己というものを非常に押さえつけることです。集団意識と言ってもいいかも知れません。良い意味でも個性がなくなってしまったのです。
2013年1月1日の読売新聞では、「周囲の顔色うかがう傾向」と題して、「周囲に同調し、摩擦を避ける傾向は近年様々な調査からも浮かび上がる」と述べています。昨今流行語になった「KY(ケーワイ)」という言葉。この意味は、「空気よめない」という意味で、その場にそぐわないことをしたり、述べたりした人間に対して「お前KY(空気読めない)だな」と使います。ここには、集団の輪を乱した人間に対するレッテル貼りと、警告の意味が込められているのだろうと私は思います。

しかし、このように誰もが自分の言いたいことも言えずに、ことなかれ主義を貫いてイツワリの自分を装っていれば、どうなるかは当然想像ができます。心理学的に考えれば、自己同一性の確立がずっと抑圧されているのですから、そのゆがみはどこかに出てくるはずです。最も簡単に想像できるのは、というか我々が感じているのは、本当の自分を表現できない「ストレス」でしょう。いつも、他の人との強調を意識して、何か意見を言うのにも他人の顔色をうかがい、他人と意見が分かれて口論になるのを怖れている。今、問題になっているのは、それで本当にいいのかということです。
そうしてまた、このイツワリのしわ寄せは、陰惨な「いじめ」に繋がっているのではないかと私は考えています。どうして、ここまでいじめが悲惨なものになり、命を奪うまでになってしまったのでしょうか。私は、このイツワリを要求される力が強まったために、そのストレスの解放が、クラスのほんの少しでも自分たちと異なる部分のある他者に向かったのではないかと考えています。
いじめはどうして起こるのか。いじめはある側面では、自分たちの共同体とは異なる部分を持った人間に対して行われることがあります。例えば、自分たちよりほんの少し勉強が出来ない、動作が鈍い、運動が苦手、話し方が独特、好きなものが変わっている、ETC。社会人になれば全く気にもしないようなことですが、それを閉塞された空間で、しかも極限にまでイツワリをかぶり続けることを長時間要求されると、このようになってしまうのではないでしょうか。

仲間はずれにされることへの恐怖心が非常に強いのが、現在の人間の心理だと私は思います。すべて、マジョリティーに属し、ことなかれ主義を貫き通す。上の人間の言うことに従い、機械のように働く。こんな状態でよいのでしょうか。しかし、答えはもう恐らくみんな知っていることなのです。それは良いことではないと。例えば、最近のテレビを見ていますと、ふつうこんな変な人間が出てきていいのかなと思われるような、言葉が悪いですが、社会不適合者が尊ばれています。どうして、このような極端に通常とはかけ離れた芸能人がテレビに出てくるようになったのでしょうか。私はここに、自分たちが抑圧されたものであり、本当はもっと個性を主張したいという欲求が表れているのだと思います。それが、ねじまげられて、社会不適合者がテレビに出て来たということなんだろうと私は思います。

-では、これからどうするのか-
では、どうしたらよいのかという問題です。先ほど挙げた読売新聞の記事では、「もめ事解決の知恵 革命の母」と題して、「悪口」の奨励をしています。山本幸二氏は「悪口を告げ口や陰口を含まず、公の場で使う物言い」としています。実は悪口は、物事を平和的に解決する手段なのだというのがここに書かれています。
現代社会では、あまりにも言葉の毒やトゲを抜きすぎた、いわば潔癖な状態です。だからみんな疲れてしまう。悪口というのは、他人に直接、対等な立場で言う意見です。この意見を言うことによって、他者理解が深まるのではないかと私は考えています。
他者理解の方法が、今の状態は極めて危険な状態なのです。現在の他者理解は、最初から出来ているものという不思議な前提が登場しています。「以心伝心」、私たちは話さずとも、もう御互いのことをわかりあって、わかるからあえて言わないというような状況になっています。これはある意味では、日本の美徳です。外国人ではできないことです。ですが、これが今悪い方向へ向かっている。極端になりすぎているのです。
私は文学が専門ですが、言葉を用いたものを扱っている関係上、本当に他人の気持ちというのは簡単に分からないものだということが実感としてあります。それなのにも拘わらず、みんなが知ったかぶりで、他人のことはわかっているという感情がどこかにひそんでいるのです。
これは、ある点ではコミュニケーショツールの発展によって引き起こされた弊害かも知れません。簡単に他人と繋がれるようになってしまったので、その簡単さが誤解して、他人のことも簡単に理解できるという意識に変換されてしまったのかもしれません。
ですから、今ここで振り返らなければいけないのは、他者はそう簡単に理解できるものではないぞという前提です。

これから求められることは、相手や空気のことを読みすぎることではなくて、一旦ぶつかることによって他者を理解するということです。人間なんて分からないことだらけなのですから、他人へ気兼ねなく意見を述べて、そうして全く異なる価値観、考え方、生活スタイルなどをぶつけ合わせることによって理解していくというやり方です。
ここで気をつけなければいけないのは、一方的な自己主張になってはいけないということです。ややもすると、では意見を述べればいいのだなという短絡的な考えに結びつきかねません。ここでは、本来の目的は何かをいうことを念頭におく必要があります。それは他者理解です。ですから、本当は相手の意見を聞いて、それを認めるということが必要になるわけです。そのためには、自分も意見を述べなければいけないよということなのです。

また、もう一つ注意しておきたいのは、相手との意見のぶつけあいで感情を爆発させてはいけないということです。感情の爆発と、心を閉ざしてしまうことは、相手との関係を絶つ点では同じです。順序を踏んで、御互い対等に意見を述べ合い、耳に痛いことも聴く忍耐が必要なのです。
今までの安易な関係の中に閉じこもっていて良い時代は終わりました。これからは、ある意味では辛い時代でしょう。他人とぶつかりあう必要があるのですから。しかし、そうした痛みを感じることによって、また他人の痛みも分かることになると感じます。そうしたぶつかり合いを通じることによって、豊かな人間性が育まれるのではないでしょうか。
ことなかれ主義の風潮があまりにも強いと感じたので、その危険性とどうしたらよいのかということを考えてみました。

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