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綿矢りさ『勝手にふるえてろ』試論 感想とレビュー 綿矢文学を読み解く指標

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-はじめに-
他の作家に比べて比較的遅筆な綿矢りさですが、この作品も数年の空白の後に書かれて登場しました。「勝手にふるえてろ」という一瞬相当強い言葉にも感じられるタイトル。この作品は、江藤良香(よしか)という主人公の一人称小説です。

-綿矢文学を読み解くキーワード-
綿矢文学には、今のところ二つの段階があると私は感じています。一つは主人公の年齢が学生であること。ティーネイジャーと言ってもいいかも知れません。いまのところ大学生がモデルとなった作品がないのでこの大学生がかかれた場合は、学生小説に入れるのか、どうするか議論が分かれるところでもあると思います。もう一つは、OL小説。これはどちらかというと、作家レベルで考えれば綿矢りさ自身とほぼ同年代の女性がモデルになっている小説です。
大別すると、綿矢文学は、学生小説と、OL小説の二つに分かれると考えることが出来ます。そうして、この二つにはさらに、胎内回帰願望と、外界へ向かおうとするリビドー(情動)という二つの相反する概念が付加されていると私は思います。
今まで見た『インストール』と『蹴りたい背中』は内向の小説であったと考えられます。そうして、昨年出版された『かわいそうだね?』は完全な外向の作品。以前この『かわいそうだね?』を論じましたが、私はこの作品がどうして大江健三郎賞を受賞したのかまったくわかりません。私はこの作品は綿矢作品のなかで最もよくない作品だと考えているからです。それは、初めて完全な外向をしたために作品が大きく失敗していると感じたからです。それをある意味では、作者も感じていたのかもしれません。その次の作品となった、去年刊行の『ひらいて』は、再び内向作品となり、私はこの作品に大変感銘を受けました。
今回論じる『勝手にふるえてろ』は、内向から外向へうつろうとしていることが感じられます。この作品はちょうど『蹴りたい背中』から『かいわいそうだね?』の中間で書かれたのです。

また、綿矢文学を読み解いていく上で重要なキーワードは、三角関係と、ヴァルネラビリティです。ヴァルネラビリティ(vulnerability)とは、人類学では、攻撃を招きやすい性格のことををいいます。「攻撃誘発性」とか「被撃性」と訳される概念です。社会学や現代思想の分野では「可傷性・暴力誘発性・傷つきやすさ」などと訳されます。(広辞苑より引用)
綿矢文学のヒーローは、しばしばこのヴァルネラビリティを付加された造形になります。簡単に言えば、クラスのなかのいじられっこ、いじめられっこということです。この攻撃誘発性は、『蹴りたい背中』が最も顕著に現れました。にな川は、まさしく初実にとって攻撃を誘発させる存在だったのです。ところが、ここではまだにな川は、初実だけに誘発させる存在でした。それが、『勝手にふるえてろ』では、クラスの全員から攻撃を誘発させる人物へと変化します。このヴァルネラビリティを有したヒーロー像は、『ひらいて』にも継承されています。
三角関係については、『かわいそうだね?』と『ひらいて』に顕著でした。この『勝手にふるえてろ』は、妄想して三角関係を擬似的に作り上げるということをしています。

-三角関係から、理想と現実の問題-
三角関係がこの作品でも主題となりますが、この作品の三角関係はほかの作品とは異なり、現実的には三角関係ではないということになります。妄想で、自分は三角関係である、三角関係になりたいと考えているだけなのです。綿矢文学でこれだけ妄想が烈しかった作品も珍しいともいえます。妄想だったという作品は、森見登美彦の『太陽の塔』の系譜があるとも考えることができます。
この作品では、彼氏が1彼と2彼というように分別されています。現代の女性にはこのような思考があるかわかりませんが、これは理想と現実という意味でも、深い試論になっていると思います。
この作品では、1彼が自分の理想。だけれども決して手に入らない(と思い込んでいる)。そうして、2彼が、現実。いいかなと思ったりするのだけれど、やはり気持ちわるいという嫌悪感を抱いてしまう(と思い込んでいる)。あえて、私がどちらの最後にも思い込んでいると書いたのは、やはりこれだけ妄想の強いヒロインだと、書いてあることが客観的に見たら本当のことであるか不明だからです。彼女にとっては、もちろん真実でしょう。しかし、真実と事実は=では結ばれません。事実は一つしかありません。しかし、それは真実となった際に、いくつもの真実が生まれるのです。

そうして、この作品では、便宜的に理想と現実という対比がなされ、非常に明確化されています。結論は、理想を切り離して現実に目を向けるという穏当な方向へ向かうことによって作品は幕を閉じます。しかし、この二人の彼氏の脳内対比は、我々現実世界のある一面を捉えていると私は感じました。
この作品では、理想の彼と、現実の彼はどちらも実体として存在しており、別の人物です。しかし、もしこれが二人は別の人物ではなかったらと考えると非常に面白い考えができると思います。そうしてこの作品には、それを考えさせるテクストの空白があると私はかんじました。
私たちは彼氏、彼女と付き合っている際、本当に彼氏彼女を理解することはできません。本当の理解というのは、例えばエヴァで言えばATフィールドが無くなった世界、固体と固体の境界性が分からない世界にならないと得られないのです。そうして、私たちが普段他者を理解しているのは、自分のなかに作り出した他者のイメージを理解していることに過ぎません。
ですから、付き合っている人がいるとして、その付き合っている人を理解するということは、自分のなかに抱いた彼氏彼女のイメージを理解しているだけなのです。この作品は、その自己のなかのイメージと、物理的、現実的な彼との折り合いをどうつけるかという問題でもあると思います。ただ、それをそのまま描くのは非常にややこしく難しいことですから、あえて便宜上二人を別人としたのです。
だから、本質的には1彼と2彼は一緒だということもできると私は思います。自己のなかの他者のイメージと、客観的な彼。この二つがもしだんだんと離れていってしまったらどうするのか、それを問題にしているのです。

他者理解というのが、この作品の根底には含まれているのです。会社を辞めるというところで、すでに一から二、つまり理想から現実へ移行したことがわかります。そこから、ではどうやって現実を受け止めていくのかという問題です。ここで両親が電話で登場するというのは、親子の関係性が他者理解の根底にあるという意味を含んでいると私は指摘しておきます。
そうして、ヨシカを理解するにはどうしたらよいのかということで、ヨシカは二彼にアニメイトに2時間一緒にいたらわかるということを述べます。ただ、そのようなことをしても決して全て、完全に100パーセント分かり合えるわけではありません。それはヨシカも分かっているのです。ですから、理想からはなれて現実をとったとしても、その現実もやはり理想でしかないのです。100パーセント現実はないのです。最後の「二」という表象が、「霧島」という固有名詞に変わったのは、現実も1パーセントの理想が含まれているということに気が付いたからなのではないでしょうか。
完璧、完全から離れて、ある程度の現実でしかないということを認めることが出来たというのが、この作品の最後に繋がっている問題ではないかと私は思います。

-最後に-
一つ残る疑問は、この一彼が一体なんだったのかということです。一彼はヨシカが現実に目を向けるようになってから消えていってしまいます。この攻撃を誘発させるような、脆弱な少年の存在は一体なんなのか。どうして、綿矢文学に出てくる彼らはそのような引力を有しているのか、それがまだ分かりません。
また、この作品には短編『仲良くしようか』が同時掲載されています。この短編は、いくつかの場面が交錯しているために、非常にわかりにくい小説になっています。いずれこれを精読してみようとも思っていますが、ここではこの作品は少女マンガ的作品と指摘しておきます。特に80年代90年代の少女マンガは、内向が極限まで極められた時代です。いくつもの心理的な階層の言葉が同時並行的に羅列される。そのため、最後は読者もわからなくなってしまったくらいです。
そうした、自分の内面、記憶、心理的階層が幾重にも重なって出来ているため、わかりにくいのです。これはそれぞれ解きほぐして分別すると、そこから見えてくるものがあると思っています。

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