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旅行記  太宰治ゆかりの地を巡って 

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安田屋旅館のホームページ
http://mitoyasudaya.com/
静岡は沼津市、三津浜にて、太宰治ゆかりの地を巡る旅行をしてきました。三津浜は、みとはまと読みます。ここの旅館、安田屋旅館は、太宰治が『斜陽』を執筆した宿屋として有名で、太宰治が『斜陽』を執筆した部屋が現在でも見られます。
『斜陽』は昭和25年に出版された、太宰治戦後作品の代表作の一つです。この作品が流行し、没落していく人々のことを示す「斜陽族」という言葉さえできたほどです。
『斜陽』は、太宰作品の中でも、多くの換骨奪胎を行った作品です。この作品は、太田静子という女性がモデルになっていますが、この太田静子の『斜陽日記』というものが、発表され、ほとんど太宰がその日記そのままを写している部分があることがわかりました。太宰文学における換骨奪胎を巡る議論は一応は落ち着いたものの、はじめて知る人にとっては驚くことでしょう。このような換骨奪胎を行った作品の一つに、中篇の『女生徒』があります。これも有明淑という文学好きで太宰ファンの少女の日記からほとんどを引用し、手を加えただけの作品です。
この換骨奪胎の問題は、はじめこれは創作ではないという意見が多く出され、剽窃だと非難されましたが、ほんの僅かの手を加えることによって、極めて高度な文学性を帯びていることや、作家が新しい独自の記号を作ることは不可能で、今ある記号を使用せざるを得ないという記号論的な立場からも、太宰治のパロディであるとして文学性が認められています。

さて、この『斜陽』のモデルとなった太田静子という女性。太宰治の編集者の野原一夫によれば、「決して美人ではなかったが、育ちのよさからくるやわらかな気品があり、たえずなにかを夢見ているようなあどけなさと、まるで童女を思わせるようなおさなさが、およそ肉感を伴わない不思議な魅力となっていた」と記されています。
太田静子は『斜陽』のモデルといわれていますが、貴族ではありません。裕福な医者の娘だったそうです。太宰を語る上で欠かせない、太宰治の最初の妻である小山初世、二度目の妻である石原美知子よりも一歳年下でした。ですから、太宰よりは四歳年下ということになります。彼女は22歳の時に歌集『衣裳の冬』を刊行しているなど、文学好きな人だったようです。
一度太宰とは違う男性と結婚していますが、出産した子が生後間もなく死に、どうやらそれが原因の一つとなって翌々年には離婚したようです。太宰と初めてであったのはこの後です。

太宰との出会いは、1941年(昭和16)で、静子が28歳の時です。28歳というのは、数え年で29、斜陽のなかでヒロインは29だといっています。友人たちと一緒に、三鷹の太宰宅を訪問したのが最初。その後妻に内緒で密会しています。これは明らかに、妻美知子との結婚を周旋してくれた太宰の師の井伏鱒二との誓約書に違反しています。
静子は43年に母とともに現在の小田原市に編入されている土地の大雄山荘で二人暮らしをはじめます。翌44年には、太宰がやってきて山荘に一泊しています。これは紛れも無く不倫です。
45年の終戦四ヵ月後には静子の母が病死します。金木の実家に疎開している太宰宛に手紙を出しています。その返書として、太宰からは46年の一月に、「一ばんいいひととしてひっそり生きていて下さい コイシイ」という文面が送れらています。このようなものを返されたら、女性はたまったものじゃありません。太宰も罪な男です。妻美知子には内緒で変名して文通を行っていたようです。

『斜陽』と静子と安田屋旅館
46年11月に太宰一家が青森から三鷹に戻ります。そうして、チェーホフの戯曲「『桜の園』の日本版を書きたい」と言って、その作品の「題名は『斜陽』だ」と述べています。47年1月に三鷹で静子と会い、静子の「日記が欲しい」と言ったところ、「山荘に来てくれたら」ということで、『斜陽』の材料としての静子の日記を得るために行きます。
2月21日には、太宰が山荘に静子を訪れています。ここで五泊した太宰ですが、このときに静子は懐妊します。『斜陽』の末尾のかず子の手紙の日付には、「昭和二十二年二月二十日」となっていますが、これは太宰が太田静子の山荘を訪ねる前日の日付です。
26日から3月の7日まで、三津浜安田屋旅館、当時の「松の弐番」に滞在して静子から借りたノートを材料にして『斜陽』を執筆します。安田屋旅館は、太宰の弟子の田中英光という作家が紹介しました。この田中英光は、オリンピックにも選手として出場した経験を持つ、体育会系の作家で、太宰の猛烈なファンだったようです。この田中が借りて住んでいた桜井書店の別荘の前にあったのが安田屋旅館ということで、これはいい宿屋だと思った田中が太宰に勧めたようです。ちなみに、この田中は太宰が自殺した翌年に、太宰の墓の前で自殺をしています。
3月6日には、安田屋旅館で『斜陽』連載第一回分(1章、2章)を新潮社編集部員に手渡しています。3月30日には、妻美知子との間に次女の里子が生まれています。この人は後の作家津島佑子です。しかし、そのめでたいことと前後して、3月20日過ぎに、山荘に立ち寄った際に、静子から妊娠を告げられています。自分の妻との間に子どもが生まれているのに、愛人の妊娠を告げられ、それが井伏鱒二の誓約書に反していることですから、太宰は戦々恐々としていたことでしょう。しかし、静子との面会はこれが最後になりました。太宰はこの年の翌年の6月に自殺しています。ですから、太宰は静子の子どもとは直接顔を合わせないまま新でしまったのです。
5月には静子が弟と三鷹に来ています。静子は自分のお腹の子の父が太宰だということを認知してもらいたかったようです。6月には『斜陽』の原稿が完成。7月から10月にかけて『斜陽』が『新潮』にて連載されました。

「斜陽の娘」太田治子
11月12日に、静子は女児を出産します。この年、太宰は母の違う娘を二人もち、二人とも作家になりました。15日には、静子の弟が「認知と命名」を求めて三鷹に来ます。山崎富栄(太宰の愛人)の部屋で認知と命名の文書を渡します。「治子(はるこ)」には、太宰治の「治」の字がつけられました。これは本名の津島修治の「治」でもあります。太宰は美知子夫人との間の子どもには自分の名前をつけてはいません。ここから何を受け取ることが出来るのでしょうか。
作家太田治子は、「たえず何かを夢見ているようなあどけない」母が幼い娘を抱えて、戦後を二人だけで生きることの大変な苦労を経験し、父太宰のことを快く思っていないようです。

太田静子の『斜陽日記』
太宰が大雄山荘で静子から借りた日記(ノート)は、太宰没後に太田静子著『斜陽日記』として刊行されました。太宰は換骨奪胎の名人(見方を変えれば「パクリ」の天才)ですが、特に『斜陽』は静子の日記の文章をほとんどそのまま使っている箇所が多いのです。このようなわずかな書き換えで、剽窃ではなく太宰の作品にしてしまえる点が太宰の天才性だと高田教授は言っています。


安田屋旅館
安田屋旅館には、太宰縁(ゆかり)のものが多くあります。宿屋の玄関の前で出迎えてくれる石には、『斜陽』から「海は、かうしてお座敷坐ってゐると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらゐの高さに見えた。」という文字が刻まれています。
宿屋には、太宰が見た景色を、見てインスピレーションを得た画家たちが描いた富士の風景画が沢山飾られていて、それを見るのも一つの楽しみです。はなれのようになっている資料室があります。ここでは、太宰に関する本や、古い書籍などが集められています。部屋には、それぞれ太宰の作品からとった名称がつけられています。温泉にも、『思い出』や『満願』という名称がつけられていました。しかし、流石に『人間失格』や『HUMANLOST』や『グッド・バイ』などはありませんでした。
今回は、折角三島まで来たということで、そのまま電車にのって、修善寺にも行きました。修善寺は、私が最も好きな作家夏目漱石が、養生しに行ったにもかかわらず、吐血して往生しそうになった場所です。その際の体験を漱石は後に短編集で描いています。漱石先生が、担架に担がれて電車で東京まで帰ったという描写は少し滑稽でもあります。さらに、修善寺は、『伊豆の踊子』などにも地名として登場しますし、なんといっても石川さゆりの『天城越え』の天城もすぐ近くにあります。
修善寺自体はあまり観光する場所はありません。さびれた温泉街というイメージでしたが、こうした場所であれば、小説に静かに向き合って製作することができそうだと感じました。やはり、太宰がとまった部屋の眺めはすばらしく、そうしたするどい感性があったことが窺えます。山、海、富士山を一度に一望できる場所というのは限られていますから、太宰が気に入るのもわかります。小説を書いて疲れたら景色を眺める。そうしたすばらしい環境でした。

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