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現代日本における個人の存在の問題とその解決へ

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-縦軸の時間・横軸の時間-
今回は、現代における人間がどのような状況に置かれているのかという視点から、それを実際に教育現場に立った際にどのようにしていくのかという視点で論じる。
私は以前、内山節の『時間についての十二章』を読んだことがあったので、縦軸と横軸の時間というのは、既に知っている概念であった。そうして、内山氏の言うことは極めて納得のいくことである。私はさらに、この時間軸というものを、別の視点から捉えた論文から見てみたい。私の専門である文藝で、アニメについて研究をしていた際にめぐり合った論文であるが。その論点が今回の時間の認識と交差する部分があったのでここに記しておく。十津守宏『新世紀エヴァンゲリオンの終末論』で、氏は「東」と「西」の宗教的感覚の違いを明確にし、それを作品に応用して論じている。氏の論によれば、縦軸の時間「絶えず一定方向へと進行し、不可逆性を示す直線的な時間―歴史という概念は」西洋的であると言う。これがキリスト教の伝統に基づいた「歴史」という概念がもたらしたものだそうである。つまり、キリスト教、ユダヤ教などの西洋文化は、元々が縦軸の時間の流れた文化であると言うことができるだろう。それに対して、死と再生を繰り返す円環的、循環的な時間軸が東洋の文化には根付いていると氏は言う。
 氏の論は、この西洋的な思想を振りかざして、その枠組みに入れこもうとした作品が20世紀、90年代をにぎわしたアニメ『エヴァンゲリオン』だと言う。このアニメは、西洋的な思想を構図としていながらも、最終的には実に不可解な終わり方をするのは、東洋的な円環する時間軸が勝利したからだと述べている。現在私は『エヴァンゲリオン』をその時代背景とともに研究している最中であるが、こう考えると、西洋的な思想と東洋的な思想、つまり縦軸の時間と横軸の時間という矛盾を孕んだがために、エヴァンゲリオンは作品として崩壊し、その矛盾が現代そのものであったために、多くの若者に熱狂的なブームを引き起こせたのだと考えている。
 私がここで述べたいのは、元々農耕民族で、円環する時間のなかにいた我々日本人が、西洋の思想を無理やり枠組みだけ借りてそれに当てはめようとしたために、無理が生じたのではないかということである。さらに、先の十津氏はキリスト教以前の古代文化は、すべて円環する時間軸であったと述べている。それが、内山氏のフランスでの体験とも重なってくるのだろう。すなわち、フランスという西洋文化の中心を担うような国でさえ、田舎の農村に行けば未だ円環的な時間軸が残っているということである。それが、フランスの都市、日本の都市になると、西洋文化の縦軸の時間に支配されるために、矛盾が生じる。この矛盾が現在、今までにないほどその差が開いてきてしまったのだと私は感じる。このことが、後でも述べるが自殺の問題に少なからず繋がっていると私は考える。

-日本における価値の問題-
 ここでは内山氏の『子どもたちの時間』を中心に、子どもだけに限らず人間がどのような存在であるべきなのかという視点で論じる。
 氏は実にフランスの農村の子どもたちを生き生きと描写している。フランスの農村では、子どもたちは大人から仕事を少しずつ与えられることによって、徐々に大人へと近付いていくことになる。これが、現代日本では鮮やかなほどの対比が為されている。日本では、子どもは今すぐには役に立たない存在である。言い方が悪いが、当然子どもたちは将来役に立つからということで、勉学に勤しんでいるのである。いい中学、いい高校、いい大学へ入って、いい会社に就職して、いい給料をもらう。これがまるで人生の最上のコースで、それ以外は無であるかのような認識が日本にはあると私は感じる。フランスの農村の子が、前期に学んだ職人よろしく、徐々に大人たちから仕事を与えられて、育っていくのと対比して、日本の学生は、ずっと勉強だけをやってきて、モラトリアムである大学が終了と同時に突然仕事を任されるようになる。
 日本の教育は、果たして仕事に役立つことなのであろうか。否である。いざ仕事を始めて役に立つ知識や経験は、6・3・3・4年間の中では殆ど学べていないのが現状ではないだろうか。私はここに大きな問題があると考える。つまり、将来のためと言って勉強させておきながら、その勉強の内容自体は全くと言っていいほど仕事には繋がらないのである。これが、勉強をやっても何の役に立つのかという最もな意見となって、教員や親に向けられることがある。そうした際に大抵の親や教員が明確な答えを出せないのは、親や教員もよくわかっていないからである。教育改革をするのであれば、役に立つ教育をしなければいけない。少なくとも、勉強している人間が、その学んでいる内容が必要であると感じることが重要である。ある点では、こじつけでもいいから、関連性を持たせるべきであると私は考える。何かをぶつぎりにする西洋的な考えではなくて、東洋的な、すべてはどこかで関連しているのだという思想をもう一度持つ必要があるのではないだろうか。
 現在勉強しているものが無駄だとは私は考えない。私の専門は近現代の文学や文藝だが、それらは当然歴史的な知識も必要になるし、数学的なものも直接的ではないが必要になってくる。これからの教育はまず、受けている人間が、今受けているものは将来なにかしらの役に立つ、或いは今役に立つという考えを持つことが重要になり、私たち教師となるものは、その関連性を伝えていかなければいけない。
 教育には教科カリキュラムか体験カリキュラムかという考え方がある。私はこの両方、つまり中道を目指すべきだと考える。今の日本の教育が比較的教科カリキュラムよりで、フランスの子どもの成長過程が体験カリキュラムの極端な例だとすると、やはり現実的には限られた時間の中で集団を教える必要があるので、いかに現在の教科カリキュラムのなかに体験カリキュラムを組み込めるかという問題になると私は考える。これが、なにより生徒が学ぶ意義について納得することにもつながり、今現在勉強をする必要性を感じることに繋がると考える。

-自我同一性の喪失-
アイデンティティーの問題が、今考えらるべき最も重要なものの一つであると私は考える。エリクソンの精神分析によれば、自我同一性の確立の問題になる。内山氏は「抽象的には価値ある人間であっても、具体的にはその価値がみえてこない、そんな世界のなかに日本の子どもがおかれている」と述べている。あまりに、社会が経済熱におかされてしまって、不可逆性の時間軸の中心となってしまったために、そこには具体性というものも消滅してしまった。常に向上、進行が求められる経済至上主義の社会においては、停滞は完全に排除されるべき存在ということになった。ここでは、常に向上、進行するものが求められる。人間は、具体的な個人としての人間から、抽象的な向上、進行しつづけるものへと変化した。
 このことが、加熱して崩壊したのがバブルである。神野直彦氏の『「分かち合い」の経済学』で氏はこの循環する社会について極めて高度な分析をしている。バブル以前は日本でも、会社の存在が大きく、それは一種の家父長制のようなものでもあったが、社員のことは永久雇用で、会社が面倒を見るという時代であった。しかし、バブルの崩壊後、その会社に残っていた家父長制的な制度まで排除されたのである。その次の時代は、アメリカナイズされた、実力至上主義である。つまり、「己」としての人間は必要となくなり、「もの」としての人間が求められるようになった。徹底的な合理化、無駄の排除により、人間の感情や自己というものも必要とされなくなったのである。この社会では、人間は取替え可能な歯車と見なされ、さらに、常に向上し続けることが要求されるようになった。要求されるだけであればまだしも、その要求に応えられない固体はどうなるかというと、リストラである。つまり、向上できなくなった時点で既に用済みなのである。
内山氏は「現代社会とは、何かを確立して安心感をえる社会ではなくなったのです。労働も人間存在のあり方も、価値観も、その他一切のものが、たえず新しく生まれ、たえず古くなり、たえず見捨てられていく、非確立系の社会が展開しているのです。この社会のもとでは、誰もが安定した自分の役割をみつけだせずにいるような気がします。なぜなら、自分の役割もつねに新しく創造しつづけなければならないにもかかわらず、その創造された役割も、たちまち古いもの、必要のないものとして見捨てられつづけていってしまうからです」と述べている。
 私はこれを常に更新ボタンを押し続けている状態であると感じた。自己というものが立ち上がる前に、更新ボタンを押されてしまうので、常に白紙に近い状態が続く。そうして、たとえ何か自己のようなものが立ち上がったとしても、それはその立ち上がった時点から過去のものとなり、再び更新が要求されるようになる。縦軸には、絶対的に終りがないのである。これを自我同一性の問題で考えると、自我同一性が確立した瞬間にそれが、社会という大きな力によって破壊され、再び作られるという構図になっているのだ。だから、私たちは本質的にはこの更新の求められる社会では自我を確立できないということになる。これが、自信の喪失という大きな問題になっている。
 この自信の喪失が、より社会を悪化させているのである。年長者でさえ、自信がないために、自己の地位保全を第一として思考し、行動する。すると後進への道が開かれない。トップが重い会社が出来、若い人材は不必要となくなる。そうすると、我々若い人間も自分が今までしてきたことはなんだったのか、自分は必要とされていないということを、思わなくても社会の状況から思わざるを得なくなる。そのことが総じて、私は年間3万人を越える自殺者の問題に繋がっていると考える。自我なき自我を持ち続けることに疲弊した人間は、どうしても自分は代替可能で、無用なものだとしか認識できなくなる。そのため、自我を更新しつづけるのであるが、それに疲れた人間が最終的には自殺という行為を得て、この終り無き世界に終りをもたらそうとするのだと私は考える。そうして、当然無意識であるにしろ、例えば交通機関などに飛び込む人間というのは、ある種のこの社会への報復と考えることもできるのではないかと私は思う。歯車として使用され、全く存在を肯定されなかった自分が、己の死というものをもって、他人への影響力を発揮する場所が最後の行為になるというのは、やはり無意識であったとしても考えられないことではないと私は思う。そうして、こうした自殺者を私は擁護したい。彼らは自分の手によって自殺を選んだのではなく、社会によって殺されたのである。それにもかかわらず、自殺はいけないと大手を振って述べている社会に対して、私は甚だ懐疑的である。まるで責任は自殺者にあるように聞こえるからである。

-まとめ・関係性の改善から具体策へ-
 そのため、現実レベルの話では、この経済至上主義の社会において、どのように自信を獲得、構築していくかという問題になる。ここでは、そのプロセスについて理念から教師としての立場での具体的な方法まで論じたい。
 先ずこの経済至上主義であるが、これを何とかしなければいけない。この概念に対抗すべきものは今までないかのように思われたが、今年発売された池澤夏樹の『氷山の南』という小説で、その「アイシスト」という概念が鮮やかに提示されている。この「アイシスト」というのは、池澤夏樹が考え出したフィクションの団体であるが、その思想はこの大きくなりすぎた経済社会を、氷(アイス)のように冷やして、停滞したものへかえていこうというものである。この小説があまり評判に上がっていないのは、現代文学を専門とする人間としては悲しいことであるが、池澤夏樹はここで経済至上主義へ対する概念を見出している。私もこの考えに賛成である。今、日本の政治は経済問題を何とかしなければいけないという局面に立たされている。しかし、私は敢えて経済大国を目指さなくても良いと思う。TVを観ていると、多くの知識人たちが文化の力で日本を盛り上げようと言っている。私も、経済で世界と張り合うのではなくて、そこから一歩退いて、経済的には多少貧しくなるかもしれないが、文化の力を盛り上げて文化大国として世界と張り合おうというのが、私も一致する考えである。
 この問題について教師個人ができることといえば、こうした考え方、お金がすべてではないのだという考え方を、永久に生徒へ伝えていくことのみである。この考えを受け継ぐ生徒たちが次第に大人になり、広まっていくのを見守るほかない。地道な辛い戦いとなるだろう。
 次に自信の問題であるが、これは関係性から改善していかなければいけない。私は関係の状態をチャーハンで喩えるのが好きなのだが、例えば濃密な関係が築かれた閉塞された空間の人間はべちゃっとしたチャーハンである。そうして、現代の日本人の関係はぱらぱらになりすぎたチャーハンである。これからは、適度にぱらぱらした中華のおいしいチャーハンの関係性を築かなければならない。要は中道なのだ。経済至上主義もだめ、かといって農村の関係性は現実的に持ち込めない。この折衷のなかで、中道を見出していくほかないと私は考える。
 現代の関係性は「自己を存在させるための関係の世界や、他者との関係が無視されてしまっています。フランスの農村でみてきたような、村のさまざまな関係とともに存在する自己という視点が失なわれ、他者は自分にとっては無関係なものになり、「裸の自己」が存在しているだけです。こうして誰もが孤独であり、バラバラになった社会が生み出されました。誰もが孤立した自分の人生を経営しようとしている」状況であると内山氏は言う。この他者との関係性を見つめなおさなければならないのであるが、一つ今回の授業でかけていた点があると私は指摘したい。それは人間の関係性を論じるうえで欠かせないもの、連絡媒体についての言及がなされていなかったことである。つきましては、今後の授業の際には子どもがどのような連絡ツールを使用しているのか、その状況についての言及もなされるとより考えのきっかけになると思われることを指摘しておきたい。
 私はこのバラバラの関係性のなかで、どうしようもなく不安であるからこそ、常に携帯を使用して他社とのコミュニケーションを図るという、ケータイ依存症が登場したのだと考えている。そうして、こうした連絡ツールへの依存は、さらに人間対人間の関係を脆弱にするという悪循環に陥っている。であるから、先ず教育現場においては、人対人のコミュニケーションの温かみから教えてなければならない。エンカウンターなどの効果的な関係性を結ぶものも考えられている。こうしたことを行うとともに、人間同士の関係性の重要さを伝え、そうして何よりも教師同士の良好な関係を生徒に見せることによって、生徒も関係について考えるきっかけになるのではないかと考える。当然生徒との関係を構築し続けるという努力が必要だ。その具体的な策は、私は文章を書くのが好きであるからクラス報を書くなどして、生徒との共通した部分を多く持つことである。
 他者との関係性が皆無になってしまっている個人至上主義の現在において、他者との良好な関係性を見出さなければいけない。他者との関係においては、信頼と依存があると私は考える。個人主義の次によろしくないのが、他者へ依存する関係である。ここには、自己というものは曖昧で、内山氏の言う「静かな多数派」を占めているのはこの関係性を有しているものたちである。ことなかれ主義と言ってもよい。常にマジョリティーに付き従うだけの存在である。そうではなくて、やはり自己というものがあり、それから他者との信頼できる関係性を築かなければいけない。自己の確立というものは、他者との信頼関係においても相互的にかもし出されていくものなのである。自己を持ち、他者と関わることによって、再び自己というものを認識強めていく。このサイクルのきっかけを私たち教員が作らなければいけない。
 教員が教育現場でできることは限られているが、例えば仕事を与えること。生徒を認めることが重要となってくる。自己を確立させ、自己とは異なる自己、つまり他者を尊重し、信頼して互いに刺激しあう関係性を構築させなければならない。具体例で言えば、課題を頑張った生徒へは公でその成果を認めるなど、小さなことを認めていくことからはじめる。そうして、他者の良い部分に働きかけることを継続しておこなうことによって、徐々にでも生徒にそのような関係性の重要さを認識させなければならない。それぞれがそれぞれのユニーク(他にはない自己)を持ち、他のユニークを認め、信頼し、時には信頼の上に批判をして、良好な質の関係を結ぶ必要がある。教師はこの良好な質の関係を結ぶ場を作ることと、きっかけをつくること、そうして教師自身がそうした関係を常に教師、生徒、保護者などの関係において築き続けることが求められる。

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