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綿矢りさ『ひらいて』への再論  『斜陽』との比較、恋と道徳革命・新たな関係性

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-初めに-
 私の作品分析をする際のスタンスは、作者を完全に抹殺した記号論的なテクスト論とは異なり、作者を含めた上で、作品そのものを論じるものである。前作『かわいそうだね?』が第6回大江健三郎賞を受賞し、綿矢りさは女性作家のなかでも最年少の純文学者として活動している。
 今回の『ひらいて』は、前作『かわいそうだね?』や『勝手にふるえてろ』が社会人としての女性の視点で描かれていたのに対して、再び綿矢作品の出発点であるいわゆる「学校小説」「教室小説」への回帰が見られる。
 『インストール』では、押入れに篭って、そこから外界との関係性を再び新たに構築するという構図があった。評論家の榎本氏はこれを村上春樹の『ねじまきどりクロニクル』で井戸に篭る主人公との関係から「ひきこもり文学」と指摘していたが、私はこれを「母体回帰」の構図でも読み解けると考える。『インストール』の主人公朝子は、高校から大学へと大きな大人の世界に羽ばたいていく際に、出て行った世界との関係が結べるのかどうか不安で引篭もる。そうして押入れという、暗く、狭く、自分以外の他者のない安全な空間、「母体」に回帰することによって、安心すると同時に、インターネットを通じてにせの人格を形成することによって、今までの自分でもなく、インターネット上のにせの人格でもない、第三の新しい人格形成をして、見事に自己同一性の確立をする。
 『インストール』におけるこの構図は、綿矢作品の全体でも見られるのではないかと私は思う。つまり、綿矢りさ自身が「教室」という場所から出て、「社会」「会社」を場として描いていたものの、新しい関係性を再び構築しなおすために、「教室」に戻ってきた(母体回帰)、というように考えることができるのではないだろうか。
 そのため、この作品の最後の部分をどう解釈するかという、本論の重要な部分とこの問題は関わってくる。


-綿矢作品と三角関係-
「やみくもに、自分本位に、あたりをなぎ倒しながら疾走する、初めての恋―。」という文句からはとてもかけ離れた内容である。白が基調の装丁、純白、純粋、そのような言葉が連想されるような、甘い初恋のような雰囲気を纏っていながら、内実そのようなイメージとは反対の、高校生独特のエネルギッシュで、多少のグロ的要素が含まれた作品だと私は感じる。
恋愛を扱った小説は今まではいて捨てるほどある。様々な作品の恋愛は、パターン化され、ヒロインの特性、物語りの構造、その話形は殆ど出尽くしてしまったと言える状況ではないだろうか。恋愛小説が既にありきたりになってしまった現在、恋愛小説にどのような新風を巻き起こすのかという問題が生じてきていると私は思う。
このような状況のなかで綿矢りさが採ってきたスタンスはどのようなものであろうか。恋愛を描く際に彼女が持ち込んだ視点は、「三角関係」である。綿矢作品は三人関係の恋愛が多く存在する。一作前の『かわいそうだね?』の三角関係もかなり特異なものだ。あまりに特異な関係性であるために、どうしても破滅的な終末を迎えなければならないようになってしまったが、それに比べて、今回の作品は、『かわいそうだね?』で恐らく表現し切れなかった部分を、彼女の本来の小説の場、つまり教室内へと持ち込むことによって、成功を収めたのだと私は考える。
綿矢りさの作品は、『蹴りたい背中』『インストール』共に、内側に閉じられた世界が小説の場となっている。この「教室小説」から出発し、そうして「社会」を描くことによって、内側に閉じこんでいただけの世界は、相対化されたのだと私は考える。つまり、教室は綿矢りさにとって一元的な世界でしかなかったのである。それが社会人となって、教室から飛びぬけた彼女の作品は、飛び出したことによって、新たな教室のあり方や、存在を見出し、いわば相対化した教室へ再び戻ってきたのだと考えられないだろうか。
そのため、今までにはなかった精密な描写や、主人公の心理の正確さなどが際立って表現されている。

ルネ・ジラールが提唱した「欲望の三角形」(『欲望の現象学-ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』)は、今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げた。ジラールは「欲望する主体と欲望される対象の間に、主体にそれを指し示して欲望させる、媒体となる第三者の存在」を発見した。これがメディエーター(媒介者)である。つまり、主体と対象の間に、媒介者があるという指摘である。これで多くの三角関係の物語りは読み解けるようになった。夏目漱石の『こころ』にも、この三角関係から読み解く論文がある。
 『かわいそうだね?』では、主人公の樹理恵が隆大と結ばれなかったのは、この樹理恵が実は主体ではなくて、メディエーター(媒介者)であったからではないかと私は考えている。通常は主体が物語りの主人公になるのだが、『かわいそうだね?』では、メディエーター(媒介者)が主人公になっていたために、このような結末になったのではないだろうか。そうしてタイトルの「かわいそうだね?」は隆大に向けて樹理恵が放った言葉と考えることもできるが、私は語り手からメディエーターになってしまった樹理恵への語りかけであると考えることも出来ると思う。
 さて、問題は『ひらいて』である。この作品の三角関係は、愛、たとえ、美雪の特殊な関係を元に発展する。愛という主人公の視点で描かれる一人称作品。彼女の名前もまた、作品としてはあからさまなほどの動機付けが為されていると私は思うのだが、主人公の性質を如実に現す名として表出されている。愛は、たとえというクラスメイトのことが好きになる。しかし、そのたとえに近づいていくと、彼には中学時代から付き合っていた美雪という彼女がいることが発覚する。
そこで彼女はたとえ君を美雪から奪うのではなく、奪うのであればルネ・ジラールの法則が通用するのだが、逆に美雪へと感情の発露を方向展開する。一種の百合小説、レズビアン小説としても読むことが出来る作品であるが、興味深いのは、これまでの作品の傾向であれば、恐らく愛がバイセクシャルで美雪との関係にあまり抵抗を感じないものが多く描かれるはずなのだが、この作品ではあからさまな嫌悪感をもって美雪との性行為に望んでいるということである。
ここでは完全に論理が崩壊しているのだ。愛はたとえが好き。しかし何故か自分でも制御しきれなくて、愛の感情は彼の彼女の美雪へと向かう。それでも美雪が好きなわけでも同性愛者であるわけでもなく、嫌悪や憎悪を感じながらも彼女との関係を深めていかざるを得ない人間なのである。
そうすると、やはりここでは愛は「欲望の三角形」の主体ではないと考える方が妥当である。彼女がメディエーター(媒介者)であると考えると、たとえと美雪という硬直しきった関係を一度壊して、介入しようとした存在であると読み解くことが出来る。


-小説内記号、名前と手紙-
愛という少女を考えるとき、先ずその名から考えてみたい。愛という名前の特殊性について、綿矢りさはインタビューでも答えていますが、愛(LOVE)という人間の感情をそのまま名前に出来るのは日本くらいしかない。客観的に考えると、実は相当どぎつい名前であることがわかる。悪く言えば、一年中発情しているということである。こうした一方向性の極めて強力な情念が、この主人公には動機付けされているのである。それは高校生という少女の性質の本質を捉えたものなのかもしれない。不幸にも私は男性であるから、第二次成長期の少女の実際を体感することはできない。しかし、多くの作品と触れ合うなかで、第二次成長期の女性には非常に強力な、それこそ自分でもコントロール不可能な情念があると私は感じる。だからそこに物語が生まれる。ありふれた力が色々な話をつくる。昨今話題となったアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』も、第二次成長期の女性の本質を突いた部分があると考える。今まで少女だったものが、女性へと変化する。これは子どもを産める状態になるということで、生命を生み出す力を得るということである。だから、男にはない強力なエネルギーが、若さとも相まって、第二次成長期には表出されるのではないだろうか。
愛も、まさしく自分の力をコントロールできない少女なのである。この作品の後半で、最も盛り上がりを見せる場面の一つの、愛が夕方の学校でたとえを呼び出して彼の机の上に裸で坐っているという場面。これも、彼への屈折した愛情と、その形は非道徳的なものであったとしても、自分の傷つくことさえ怖れない裸という状態、純真無垢のような情念が表象されているのだと考えられる。

新潮社のインタビュー記事のなかで、綿矢りさが「太宰治の『斜陽』を読んで、手紙の文学っていいなと思っていました。美雪は、手紙によって、人のこころを温めようとしている。あまりにも古典的ですが、美雪ならそういうこともするだろうなと。愛という我の強い女の子の世界をずっと書いているなかで、美雪の手紙の部分のところにさしかかると、ようやくまともなことを書けるとほっとしました。」と述べている部分がある。
この作品を読み解く上で重要な視点の一つは、現代には珍しい書簡小説であるということだ。現代の小説を読み解く上で、ひとつ重要になるポイントは、登場人物たちが持つ連絡を取る媒体である。当然携帯がない時代は手紙がほとんど、時には電話も登場した。しかし、20世紀の終盤からは、インターネットが発達し、パソコンやメールがそれに取って代わることになった。『インストール』は特に顕著で、インターネットを媒体とした小説であると言うことができる。
このような情報媒体過多の時代に、この作品は珍しく主人公たちが殆ど携帯を使用しない。たとえを呼び出すために、最後に愛は緊急用として美雪の携帯を使用したが、それを例外とすれば、この作品は書簡を中心に物語が展開していくことになる。また、最後の緊急の携帯の使用は、そのほかでの使用が見られないことからも、重要な局面に変わるという小さくない意味が含まれていると私は考える。
書簡という媒体。現在では使用されなくなってしまったこの媒体がなぜ選ばれるのか。作者のレベルで考えれば上に挙げた綿矢りさの心の問題があるだろう。しかし、テクストで考える際に、書簡という媒体がもつ意味は、メールよりもより親密な関係性がそこにあるということなのではないだろうか。手紙は、当然その人の直筆であるから、字体にも感情が表れる。字面だけ読むことが出来る私たち読者と違い、美雪とたとえの間にはそのような言葉では表現できない、繊細な感情の糸のようなものが今にも切れそうなほど微弱に伝っていたはずである。明治期の小説には、手紙や書簡が連絡媒体として用いられているが、そこでは、文字を一瞬見ただけで、誰の手によるものかすぐにわかるという描写が多くある。たとえと美雪は、現代においては失われてしまった、文字で感情を読み取るという高度な感受性を、二人の非常に親密な、インティメイトな関係のなかで成し遂げていたのである。
ただ、美雪とたとえの関係性は、それ自体全く発展のないものであった。
P152美雪のセリフ「私たち、長く付き合ってきたけど、いつもどこか距離があったね。でも距離を埋めようとせずに、お互いの悩みを持ち寄って慰めあうことで、見て見ないふりをしていたね。これからはお互い、心をひらきましょう」
美雪は病気を、たとえは病的な父を持ったもの同志、仲間という意識のもとで関係性が築かれていた。その関係性において、たまたま二人が異性であるということから、二人の共感性や同情といった感情が混合して付き合うということに発展したと考えられるが、しかしそれは錯覚であって、恋愛感情から生まれた関係性ではなかったのである。外界からの恐怖、それは病気や父であるが、それらから逃げている最中に、たまたま自分と同質なものと出会った。その関係性でしかないわけである。だから、本質的には恋愛感情から発展したのではなくて、そうした同情性のようななかでの関係性でしかなかったのである。


-『斜陽』との比較・新たな関係性の構築-
そこに関係破壊者としての愛が登場する。ルネ・ジラール「欲望の三角形」で言うところのメディエーター(媒介者)である。
愛がなした行動は不可解で、論理性の欠片もない。全て感情の赴くままに動いている。しかもそれが第二次成長期からくる、抑圧から解放された爆発的なエネルギーであるため、そこには私たち読者が介入する隙はないかのようにも思われる。
ただ、愛の感情を説明できなくとも、その行為と結果を考えると、新しい何かが見えてくると私は思う。一旦美雪とたとえの関係を破壊した後、新たな関係を構築する。その際に自分の存在が介入できる新しい場所が作られたのは偶然でもあり、また破壊したのが彼女であるということから自然発生的に生まれでたのだとも解釈できる。このことは、実は太宰治の『斜陽』との連関性があると私は考える。
綿矢りさは書簡小説としての側面を『斜陽』からアイデアを受けたと述べているが、彼女が意識しているかどうかは別として、『斜陽』の主人公かず子の影響が見られると私は思う。

新潮文庫百二十五刷P134「何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。(省略)破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、立て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば。永遠の完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。(省略)P136ℓ12人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」
太宰治の『斜陽』のなかで、主人公のかず子は、P202で道徳革命をしなければいけないと述べている。かず子にとってはこの道徳革命は、妻のいる上原という男の子どもを産むことだと読むことができる(かず子と上原は不倫の仲)。すると、ここには今までの古い道徳を打ち壊し、新しい構造を構築しなければいけない、そのための革命であり、その革命の原動力は恋であるということになる。道徳革命をした後がどのような状態になるのか、『斜陽』のテクストのなかには描かれていないので、読者が想像するほかないのだが、P202「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」と述べて私生児と、その母だけで生きていくことに価値を見出そうとしている。私は『斜陽』の述べる古い道徳とは、丁度戦後すぐに出版されたということもあり、戦前の日本の道徳のことも指し示していると考えるのだが、テクストの中だけで読めば、愛や恋という感情が、社会的な制度に縛られない自由な状態を目指しているのではないかと考えられる。
このかず子の原動力と同じものが、愛に共通して見られると私は思う。かず子は『斜陽』において道徳改革をする前の時点で小説が終了している。かず子はP202「革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます」と述べていることからもそのことが分かる。それに対して、『ひらいて』は一度関係性(古い道徳)を破壊した後の話まで続いているのである。つまり、道徳革命が遂行された後の世界まで描かれているのだ。だから、そこには古い道徳観念はない。この古い道徳観念というものは、私たちが通常考えられる、恋愛のこうあるべきだという考えだろう。通常三角関係で仲良くやっていけるはずがないと私たちは考える。しかし、この三人にはそうした古い道徳は関係のない境地まで辿り着いたのである。
私たちの道徳とは異なった世界がそこに構築されたのである。この小説の最後は、最も難解な部分となっている。字面が読めても意味がわからない。言葉の意味が分かっても、それが一体なにを意味するのかが本質的に理解できないのである。
そこで、私は綿矢りさがアイデアの発想を受けたという『斜陽』の道徳革命を持ち出すことによって、それが遂行されたのではという解釈を立てた。だからここには、私たちが理解できる世界ではなくて、愛、美雪、たとえの三人の新たな関係性が構築されたのだと考えられるのではないだろうか。
そうしてその関係性ですが、一つの言葉に表すとなると「ひらいて」になるわけである。三人の関係性は、御互いにひらきあっている状態になったのだ。私たちの実感では分からないが、三人にはそれが新しい関係性、彼等のいるべき準拠すべき関係性が築けたということなのである。

(文字数約6800字)




参考文献
・ルネ・ジラール著, 古田 幸男 翻訳『欲望の現象学―ロマンティークの虚像とロマネスクの真実 』(叢書・ウニベルシタス)
・[綿矢りさ『ひらいて』刊行記念特集]
【インタビュー】綿矢りさ/根源的で普遍的な愛をめぐる小説
http://www.shinchosha.co.jp/nami/tachiyomi/20120727_02.html
・太宰治著『斜陽』新潮文庫、百二十五刷

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