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映画『男と女』への試論 感想とレビュー ヒーロー性とヒロイン性の外部委託



-はじめに-
『男と女』(原題Un homme et une femme)は、1966年制作のフランス映画。監督はクロード・ルルーシュで、この作品により、彼は映画界での地位を確立。フランシス・レイのボサノバ調の音楽や、モノクロームとセピアを織り交ぜた映像、縦や横の自由な動きなどにより、洒落た映像美を魅せた。

-映像と音楽の融合-
古い映画評などを探してみると、そこには当時この映画がどのように評価されたのかが映し出されてくる。この作品は、当時評論家にはあまり評価されず、それに反比例して多くの観客に受け入れられたのだという。この作品は、内容だけで考えれば、確かにベタな恋愛の物語に終始しており、ここから何かを論じようとするのは非常に難しい。『男と女』という最もシンプルかつ、この上ない根源的な二項対比によって、フランス・パリを舞台に、男女の恋愛が美しく展開される。
この映画はまた、映画史における転換の作品になったと考えられている。それは、現在で言うところのプロモーション・フィルム、MTVに見られる映像と音楽の一体がなされたからである。ちなみにこのMTVという言葉は、ミュージックテレビジョンという音楽専門番組の番組名でそこから、音楽と映像が一体となっているものをも指すようになっているようである。

そうして、ルルーシュ監督の一つの特徴であるカーレース。私はこれを恋との関連性からも考えたいが、その前に映像に与えるスピードとしての意味を考えておきたい。既にフランシス・レイのボサノバ調の音楽と、芸術的な映像について述べた。それにスピードが付加されるのである。内容は最も人間の根幹にある、恋の感情。
これだけ分かりやすく恋を描いた作品もまた稀である。ベタな作品であることには間違いない。であるから、当時の評論家が評論できなかったのも無理はない。そうして論理もへったくれもない恋をお洒落に描ききったからこそ、観客の感情を揺さぶる作品となったのである。誰もが共通して有する恋の感情を、映像、音楽、動き、この三点で見事に表現されている作品である。

音楽との融合というものを考えた際に、私の見たことのある映画から二つを挙げて考えてみたい。一つは、1971年公開の『ベニスに死す』(Death in Venice)である。トーマス・マン原作の、同盟作品を巨匠ルキノ・ヴィスコンティが描ききった作品である。私はここで、映画史においてクラシック音楽と映像の融合がなされたと考えている。マーラーの交響曲第5番、特にアダージェットと呼ばれる第四楽章は、静かにすすんでいくゴンドラと、比例してしずかに近づいてくる死の影とのモチーフを鮮やかに表現したものである。私は『ベニスに死す』を観た際に、クラシックと映像との融合がこんなにも美しいものかということを体感した。
そうして、今度はロック音楽との融合である。これは、1986年公開の『トップガン』(Top Gun)である。この作品では、ケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」が特に有名。テレビなどでも多様して使われるようになっているため、戦闘機が出て来た際には必ずといっていいほどこの音楽が流れるまでになった。音楽と映像が完全に一致した時の心地のよさというものは、観客が実際に戦闘機にのって操縦しているような感覚である。
『男と女』はまさしくこうした音楽と映像との一致の先駆として、語るべき作品である。比較に挙げた二つの作品も、どこかしらこの作品に影響されていると私は考えている。映画というメディア媒体が、音楽という媒体をも包括して、芸術性を高められることを証明したすばらしい作品である。

-ヒーロー性とヒロイン性の外部委託-
何故この作品が、そこまで観客の感情を揺さぶるのかを考えたい。私はこの作品のことを、「恋愛の商品化」であると考えたい。つまり、ここで登場する男女は、完璧に造形された男女なのである。本来ありえないほどの完璧なカップルを描いているのにも拘わらず、観客に嫌われないのは、共に伴侶を失っているという設定を負っているからにすぎないだろう。もしも、この二人に子どもがなくて、何も恋愛を邪魔するものがなければ私たちはこの作品を観ないだろうと思う。
ここでは、恋愛を通して結婚をし、子どもが出来た人間が登場する。だから、若々しい恋愛ではないのである。大人の恋愛が、ボサノバ調の「ダバダバダ」の気だるい歌い方にも表現されているように、どこか落ち着いた余裕とでも言うようなものが二人には備わっているのである。
一人は映画のスクリプト・ガール(脚本家)として、一人はテレビにも出る有名カーレイサーとして。ここには完璧なヒロインとヒーローが登場している。しかし、その二人の障害となるのは、亡き伴侶である。レース中のジャン・ルイが愛の告白である電報を貰い、急ぎ戻ってきて、浜辺でアンヌと抱き合う姿はこの作品の最も重要な場面の一つである。愛は成就したかのように思われたが、しかし、アンヌはスタントマンで撮影中の事故からなくなった夫のことが忘れられない。
この映画のキャッチコピーは当時、「たちきれぬ過去の想いに濡れながら 愛を求める永遠のさすらい ………その姿は男と女」ということだったらしいのだが、つまり、完璧なヒーローとヒロインが恋愛をするも、一筋縄ではいかないというところに観客は共感したのである。
もともと完璧なカップルであるから、観客は安心してその美しさに浸ることが出来る。しかし、そのカップルがなかなかうまくいかないということで、観客は頑張れ、成就しろと感情移入するわけである。アンヌが、ただの美しいだけの女性であってもこの作品は成功しない。彼女は深い貞操の持ち主で、亡き夫のことが忘れられない未練があるからこそ良いのである。
理性だけではどうしようもない、感情の部分で亡き夫への想いが募ってしまう女性の苦悩というものに、多くの女性は共感したことだろう。そうして、亡き夫も直接登場はしないものの、彼女の思いによって擬似的な三角関係がなされているのも面白い。
それに納得できないジャン・ルイは、一人車のなかでぽつぽつと愚痴を零すように自分に納得させていく。きっといかれたやつだったんだと最終的に判断する彼は、雨の描写と重なって、一人のヒーローが破れさった印象を受ける。それが最後のハッピーエンドへ持っていく動機付けになるのであるが、この作品にはそうした感情の浮き沈みが、巧みに描かれている。

最も効果的な心情描写は言うまでもなく天気である。雨というモチーフが男女の恋愛の感情の様々な感情を表現する。それは台詞より時には饒舌に語る。それと平行して、男女の恋愛という一種男性からは理解しがたいベタな作品を、男性視点でも分かりやすくしたのが、レースの存在である。この作品は『男と女』というタイトルであるが、恋愛を描いた作品がどちらかの性の視点に準拠しやすいのに対し、この面でも相対化されていると考えることが出来る。
無口な男として、ジャン・ルイは寡黙に運転し続ける。その際の音楽の合わせ方がまた上手いことは言うまでもないが、時にあらあらしい運転や、スピード感のある映像は、ただの恋愛ドラマに一風を差込み、ジャン・ルイの心象表現にもなっている。
車ほど男根思想の強いモチーフもまたないと思うが、それと対比してパリの雨は、慈母のイメージとして浮き立ってくる。この作品はこうしたモチーフの使い方や、心象の状態によってモノクロになるのかカラーになるのか、その絶妙な表現がすばらしい。通常の映画を「物語的」ということが出来るならば、この作品は「詩的」映画であると私は言いたい。

-終りとして、『男と女Ⅱ』との比較を通して-
せっかくなので、続編である『男と女II』(Un homme et une femme, 20 ans déjà)についても論じたい。前作では、最後にホームで抱き合うという感動的なラストを迎えた二人であったが、その恋の行方はどうなったのか全くわからない。
実際に20年経った1986年に、前作の俳優を再招集し、現実世界でも作品内時間でも20年の時間が経ったということでこの作品は始まる。
衝撃的なのが、あの後すぐに別れてしまったということである。どうやら青春はそれほど甘くないようである。これは全くあのベタな作風からは予想できない展開である。この20年後では、映画監督となったアンヌが自分たちの物語を描くことになる。
映画は、過去の自分たち『男と女』を撮影している現在と、作品内で起こった事件が同時平行で描かれる。そうして御互い老人となった今でも恋多き存在として、成熟した大人の魅力を失わない。しかし、それぞれに若い恋人がいるなかで、過去の自分たちを撮るという行為を通して次第に想いが募ってくる。
私はここに恋愛という、多くの人間が論を挑んで未だに明確な答えの出ていない未知の領域に一つの仮説を立てることが出来ると思う。当然といえば当然であるが、それは思い出の共有性である。同じ時を過ごし、同じ時代を過ごし、同じ風景を見た。男女の恋愛に歳の差は関係ない、歳の差カップルでもいいんだという風潮は映画公開時(80年代フランス)においてもあったようである。だが、この作品ではそれを描きつつ、一緒に歳をとることの重要性を説き、老人同士の恋愛をも肯定している。

また、この作品は、メタフィクションを作り上げていくという入れ子構造的な複雑なものとなっている。結局メタフィクションとしての『男と女』は20年後の現在では大衆受けしないということになる。これは、一種の製作者側の当時の社会に対する批評であると考えられるが、同時に時代の流れによって作品が変容していかなければいけない宿命をも明示している。そうして作中でおこった事件をもとに、『男と女』の作中時間における現在の作品として作りかえられる。この事件はメタメタフィクションとなり、余計にややこしいことになっている。
観ていないのだが、『男と女』シリーズには、『続・男と女』という作品があるあらしい。これは『男と女』を西部劇でやったらどうなるかというリメイクだったらしいのだが、それを踏まえて考えると、『男と女Ⅱ』におけるメタフィクションとしての『男と女』も、今作ったらどうなるかというリメイクだということが出来る。
既に80を越えてしまったクロード・ルルーシュであるが、出来ることならさらに20年後の『男と女』も製作してもらいたい。孫世代が現在における恋愛をしてもいいのである。『男と女』には映画史における変革をもたらしたと同時に、恋愛という人間の根源的なテーマを扱っているから、何度も姿かたちを変えて描き続けられるのである。
アヌーク・エーメ:アンヌ
ジャン=ルイ・トランティニャン:ジャン・ルイ
ピエール・バルー:ピエール
ヴァレリー・ラグランジュ:ヴァレリー

テーマ : 映像・アニメーション
ジャンル : 学問・文化・芸術

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