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映画「浮雲」への試論 感想とレビュー 男女を巡る関係性と終末

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-初めに-
1955年に公開された成瀬巳喜男監督による日本の映画。原作林芙美子。森雅之、高峰秀子という豪華な俳優を揃えた名作である。

-ゆき子から見る関係性-
世の中に男女を巡るものがたりははいて捨てるほどあるが、この作品はそんな男女の仲をでも、最も道徳的にも倫理的にも低い男女の物語である。戦後という混乱の時代のなかで、日本は復興へ向けての新しい道のりを歩もうとしていた。ところが、戦後間も無いこともあり、今までの価値観はすべて消え去り、いまだ秩序だったものは出来ていない頃であった。世の中は極めて不安の中にあったと思う。
その不安のなかで、高峰秀子演じる幸田ゆき子は、戦時中、仏印(ベトナム)で出会った森雅之演じる富岡兼吾に会いに行く。
ここから既に人物の性格づけが行われる。妻と子があることを知りながら、ゆき子は富岡の実家をおとづれる。当然そこには、富岡の妻が居る。その妻との邂逅というあまりに危険な道のりを経てまでして、彼女は富岡に会いに行くのである。ここからゆき子は、自分の恋に極めて従順な人であることがわかるが、同時に彼女は恋愛のために周りが見えなくなるという危険性もはらんでいる。
どうしても、私はこの富岡というどうしようもない男に共感が得られないので、何故ゆき子が彼をしたって、富岡の妻に会う可能性があるのにも拘わらずこのような危険を冒したか理解しがたい。それに戦時中に、タイピストとしてベトナムに派遣されていることから、当然英語に堪能であり、実際外国人とのコミュニケーションも取れている場面もあり、そのような高学歴を持った頭の良い女性がこのような男にひっかかってしまうのに、私は感得できない。
ただ、ゆき子が男性との一般的な恋愛が出来ない女性であったという可能性もある。義兄に貞操を犯されたことにより、彼女は本質てきに男性への不信感を有していると考えられる。途中一所に仲良く食事をしている場面や、その後大日向教という新興宗教の教祖となっている彼のもとへ転がりこむという部分も同時に考えると、そうした本来であれば恨みきっても恨みきれない相手でさえ、頼りにせざるを得ない状態が彼女にはあるように思われる。それは当然経済的理由もあるだろうが、どこかで彼女の精神がすでにおかしくなっていると私は考える。通常であればこのような義兄を許せるということはありえない。やはりどこか精神的にまいって正常な判断が出来ていないのではないだろうか。
富岡の家の訪問後、富岡が妻や母と暮らしていることに傷ついたゆき子は、その後町で話しかけてきた外国人の男性と関係を結ぶ。戦後アメリカ人兵士が日本で、かわいい娘に声をかけてガールフレンドにしようという魂胆であると思うが、英語に堪能な上に、外国で暮らしていた知識経験もありながら、その要求を素直に受け入れてしまっているゆき子は、すでに自分の身体についてあまりに無頓着である。諦念にも似た、虚無感のようなものが彼女の身体を覆っているようである。それは戦後日本の状況と重なり、さらには富岡という人間にも当てはまる。

-富岡からみる関係性-
今度は富岡という男から映画を見てみたい。彼もまた頭の悪い人物というわけではない。戦時中の体験をもとに何か文筆活動を行っているあたりからすると、何か物書きかもしれない。このあたり、作家太宰治のイメージと混合する。退廃的で、無頼派のようで、酒とタバコと女を愛するというような人物である。
国に妻や母を残しながらも、戦争で訪れたベトナムでタイピストの女性と関係を結ぶ。戦後も妻と別れることなく、また彼女の突然の訪問にも然程驚いていない様子から、こうしたことには平常から慣れきっていることなのかも知れない。中盤ゆき子との縁が戻した二人は、伊香保温泉へ旅行に行く。しかし、そこで意気投合した清吉という男の若い妻おせいとも関係を結んでしまう。
ゆき子という女性と旅に出た先で、そのような関係を結ぶとは全く常人の私からは理解できない。こういう点、富岡という男もまた自分の欲求にあまりに素直すぎる男として造形されている。理性というものがほとほと感じられない作品であるのは、こうした男女間においてもモラルもなにもあったものではないからである。そこに先行するのは自分のひと時の願望、欲求である。この異性と関係を結びたいという、一般にある感情であるが、それが極端にデフォルメされ、強調されている。
私たちはそれをたとえ心の内で思ったとしても、行動には移さない。それは理性が働いているからである。その理性が崩壊する原因となったのは、やはり戦後日本の破壊された価値観のためだったのだろうか。富岡という男は、男性の代表である。確かにこの女性がいいなと思うことはだれにでもある。それを行動に移すかどうかが、私たち一般人の悩みどころであるが、富岡は行動に移すのに悩むのではなくて、行動に移した後に悩むのである。
結局おせんと同居するという考えられない展開をした後、ゆき子の妊娠騒動があり、清吉はおせんを殺し、妻は死に、そうして飲み屋の小娘も惹かれてやってくるという、一大人事異動が起こる。この人間の関係性の混雑から、結局富岡は逃げざるを得ない状況になる。当たり前のことといえば当たり前のことであるが、これは彼自身がまいた種でもある。
しかし、自分で自分の首を絞めようとも、彼はそれすらも反省することはないのである。中絶をして泣くゆき子の、全部僕が悪いんだ、僕という男は空だから、そんなに僕に責任をおしつけたってしょうがないじゃないかというセリフを吐く。今で言うところの開き直りである。
ゆき子はこの場面で、富岡に見切りをつけて別れるべきであった。しかし、彼女はまた富岡のことを求めずにはいられないのである。ここから究極的な崩壊へと突き進む。結局二人は似たもの同志だったのだと私は考える。自己の中に何も入っていないから、自分で自分を認識することができない。自分のアイデンティティーとなるのは強く依存した恋人であるほかないのである。

-最終場面へ-
戦後日本という中で、この二人の男女は、不幸な男女の代表である。今までの価値観が全て崩壊し、秩序のなにもないなかで、しかし懸命に生きた強い男女であった。価値観の崩壊は彼等のアイデンティティーをも奪った。そのよすがとするために、男女は御互いを求め合わざるを得なかったのである。であるからして、彼等二人は戦争の被害者であると言ってもよい。
かろうじて理性の残っていたほうは、むしろ富岡のほうであった。こういうことをしていてはいけないという理性が少なからずあったから、何度も同じことをしてしまったのである。その間にはこんなことをしていてはいけないという気持ちが強く働いて、何度も途中で女遊びをやめたために、何度も女遊びをするという皮肉が存在しているのだろう。ゆき子が連れて行ってくれと懇願するなかで、彼が返答を渋るのはこの最後のなけなしの理性が抵抗したからである。ゆき子を連れて行けば、彼女が崩壊することはすでに富岡には見えていたのではないだろうか。自分と付き合うことによって、映画のなかで次第に成長していった彼女が、盲目的に破滅への道にいることを似た道を歩いてきた彼は感覚的に感じていたのではないかと私は思う。しかし、それでもということで結局最後の破滅を迎える。
最後の死化粧を施す富岡の姿には、全ての哀愁が込められている。それはこの戦争を始めた日本に対する怒りや憎しみでもあり、彼女の運命でもあり、島につれてきてしまったことへの後悔でもあったろう。
白のワンピースをきて舞う彼女の幻影は、かつての幸福だった彼女の姿を思い出すことによって、あまりにつらかった帰国後の二人の記憶を多少でも純化しようという気持ちの表れである。幸福だったことに立ち返らなければとても現実を見つめることはできないという反抗でもあると私は感じる。

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