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「ドキュメント“天皇の世紀”をドキュメントする」を観て 感想とレビュー 現代に歴史的偉人を登場させる意味

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-初めに-
大佛次郎の大作、『天皇の世紀』。私はまだ原作を読んでいないが、この歴史小説がどのようにして、このようなドキュメントに変容したのか、そこを考えて行きたい。「テレビは生の真実を見せる力を持っている。『天皇の世紀』はドキュメンタリーでやってほしい」。そう語る大佛の肉声が残されているという。未完のままこの世をさってしまった大佛次郎は、どうして自分の作品をドキュメント調にしてくれと頼んだのであろうか。ここには媒体を巡る重要な意味があると私は感じる。

-歴史の見方、写し方-
『天皇の世紀』をドラマ化した第一部は1971年に放送されている。このドラマ版は特にこれといった表現上の特色は少ないように思われる。ただの大河ドラマである。時代設定も100年前。背景も道具も全てその時代のものに合わせて造られる。今回のドキュメント番組の中ではこの第一部にはあまりに費用がかかりすぎたという指摘がされていた。なるほどセットを全て造っては撮り、また別の部分を造っては撮るというようなことを繰り返していれば費用もかさむ。
私は先日、もとNHKの社員だったという人との縁があったのでNHK本社の大河ドラマの撮影所を見学させていただいた。通常は入れないらしい。後日、見学した際に撮影していた場面を見たが、ほんの数十秒しか放送されなかった。にも拘わらず、見学時には、何十分もかけて撮影していた。役者が入る前になんだかんだと大忙しであった。
撮影スタジオは一つしかないということなので、一度セットを作ってしまったら、ストーリー上そのセットが必要になるすべての場面を撮るのだという。時間もかかるし、お金もかかる。時代劇というのは大変なものなのだと実感した。ドラマであるからには、資金的な面での限界がある。人気を集めた『天皇の世紀』の第二部を造るにいたってどのようにしたらよいかというのが、製作スタッフたちの心境であったろう。

今みても、歴史上の人物が現在の町を堂々を歩いている姿には驚嘆する。画面内で道行く人々がちらちらと覗き込んでいる映像を見て、私たちもやはり何かおかしいのだと感じるわけだるが、当人たちはいたって堂々としているので、なんだか妙な説得力を持っている。
番組名を忘れてしまったが、現在ではこのような歴史をドキュメンタリー調で描く番組で、こちら側の人間が当時の世界に入りこんでいるというものがある。これはなかなか面白いと思って見ていたのであるが、それよりも40年近く前に、歴史上の人物がこちらの世界にやってきているという映像を見て驚いた。さて、その番組であるが、現在のレポーターが歴史上の場面に立ち会ってインタビューをしてまわるという方式をとっている。戦国時代が割りとよくとりあげられているが、武将同士の戦いに、両陣営に対してレポーターが配属され、現状はどうだとか、敵に勝てそうかとか、そのような質問をして、それに武将が答えるというものである。
この方式をとったことも、それ自体かなり秀逸な表現方法だと私は感じている。現在の人間の視点から、どのようにして過去の人間が行動したのかということを理解しようとしているのである。私たちの代表となったレポーターが当時の世界に赴き、そうして何を考えているのかを聞くことによって、過去を理解しようというのである。
当然この番組が、ドキュメント天皇の世紀からその表現方法のアイデアを得たことはだれでも理解できる。

-歴史と時間-
何を思ったか、第二部の製作スタッフたちは歴史上の人物を現在にひっぱりだしてきた。時代錯誤ではないかと批判するひともいたのではないだろうか。どう考えても初めてみた場合は動揺するに決まっている。しかも、その登場人物たちが、未来にきてしまったという認識をしていないのだからなお更おかしい。
登場人物は100年前と変わらないのである。だから、現代に置き換えたらとかいうような転換をしているわけではない。実に説明が難しいが、100年前の人物が、現在において100年前のことを行い、時代が動こうとしているのである。
歴史を考えるのは面白い。なぜなら見る人、考え方、どこから見るかなどによって、一つの事実が大きくいくらにでも変容するからだ。このドキュメントは今野勉が考えた現場主義という考えに基づいて行われている。実際にその事件が起こった場所にいって、考える。そうしてそこに人物を登場させて演じさせる。しかし、ここに演技というものが感じられない。演じている役者たちが自然と、坂本竜馬なり西郷なり桂なりになっているのである。
それは現場にいるからこそそういう心持になるのかも知れない。いくらセットがすばらしく準備されていたとしても、それはセットでしかない。これはフィクションであると誰もがおもう。それを見ている私たちもフィクションだと思えば、演じている人間もこれはフィクションであると思うだろう。
それに対して、その現場に人間を置く。そうすると、100年という歳月のために風景は全くことなってしまったものの、何か感じるものがあるのだと思う。よく考えてみれば、100年も10年も1年も1日も同じ時間の流れの上でそう変化のあるものではないのかも知れない。
今野勉は「現代と過去が断絶したものではなく、つながり、重なっている。その臨場感、緊張感を出したかった」とインタビューに答えている。何か事件があった。その翌日そこに行ったら、これは現場検証と同じである。まさしくドキュメントである。そうして時間の流れがあっても、やはりその場に行くことに重点を置くのであれば、100年も1日も大した差はないのかもしれない。そういう点で、この作品はまさしくドキュメントなのである。
レポーターとして伊丹十三が我々観客を導入する。そこに歴史上の人物が登場する。あえてセットなどを完全に排除することによって、逆にリアリティーが増すという不思議な現象がそこには起こっているのである。

-終りに、立場から空間へ-
大佛次郎が人生の最後にドキュメントにしたててくれと頼んだのにはわけがあるだろう。それは大佛次郎の歴史観というものなのではないだろうか。その歴史観がどんなものであったのか、私は原作を読んでいないからまだ知らない。しかし、激動の時代と呼ばれる明治維新への転換期に、幕府からみたらどのように見えるか、薩摩から、長州から、土佐から、あるいは志士からというような、もう出尽くした見方に待ったをおいたのではないかと私は考える。
どのような立場から歴史を見るかということは、とても重要なことであろう。私は歴史の専門ではないからあまり詳しいことは述べられないが、そうした立場という見方に捉われるのではなくて、その「場」、空間からものを見ようとしたのではないだろうか。
そうしてそれを表現するのに適していた媒体が、映像で、そのなかのジャンルでいうところのドキュメントということだったのだと思う。だから、レポーターも登場し、場を取材していくのである。それが歴史というものを新たに捉えなおす大きな指標になったのである。

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