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アニメの歴史的変遷 アイドルと作品規模の側面から

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-漫画からアニメへ-
00(ゼロゼロ)年代、或いは0(ゼロ)年代と呼ばれる2000年から2010年までのアニメ界は、ある意味2010年代のアニメ界の変革の前提となる土台作りと考えることもできると思います。00年代のアニメは、非常に狭められら世界への追求がなされたといっていいでしょう。それはたとえば『けいおん』に始まり、アニメは今までの仮想で壮大な物語から、現実で日常化された世界が描かれるようになりました。
思えば、アニメにおいてどうして日常が描かれなかったのかということも不思議ですが、もともとアニメの前身となったのは漫画(マンガ)です。漫画はその媒体の特質として、動きを求めました。漫画は、モノクロの二次元的な記号のみによって構成されたメディア媒体ですから、非常に表現力に欠けたわけです。それを補ったのが、まず一つは動き。漫画は必要以上に動きを求めた媒体です。そうしてその動きと相互補完的に発達したのが、オノマトペ表現です。音愉と呼ばれる音の模写です。絵と言葉だけでしか表現できないために、読者をあきさせないための動きと、それらが躍動感を持てるように音が書き込まれたのです。
そうした漫画から発展して、二次的なものが一繫がりで動き出したのが、初期のアニメです。ですから、アニメは漫画の延長線上でしかなかったのです。ところが、それが60年代、70年代、80年代、90年代と続いてくると、アニメ界だけでの熟成がなされるようになったのです。ですから、アニメ表現は、漫画の持っていた動きから離れることができたと私は考えています。
また、一方で、フィクションばかりで現実感がなく、感情移入が出来ない作品から若者は遠ざかったとも考えられます。ロボットだ戦艦だという男の浪漫や、魔法少女ものといったものは、もはや大衆受けしなくなってきたとも考えられます。そうしてフィクションにあきた観客は、より写実的な、現実感のある作風を求めるようになったのだと私は思います。

-アイドル性-
アイドルとの関連からもこれは言うことができると思います。偶像としてアイドルは常にごくごく限られた人間が頂点にたつという、中央集権的なアイドル像が今まで構築されてきました。吉永小百合には誰も勝てないのです。アイドルといったらこの人という、共通した巨大なアイドルがあったのです。当然ヒーローにもそうしたことが言えると思います。しかし、それが次第に個人主義のようなものの台頭によって、細分化されてきたというのがここ数十年の流れではないでしょうか。おにゃんこクラブに始まり、モーニング娘、そうしてAKB。AKBのファンというのは、私はアイドルの追っかけではないので本質的にはよくわかっていないのですが、恐らくAKB全体が好きということではなくて、その中のだれだれが好きということなんだろうと思います。そうしてAKB自体も、その理念が、会いに行けるアイドルというもの。アイドルは、今までの神格化された状態から、人間として共感できるレベルまで降りてきたのです。
これがアニメの作風でも大きな流れを作っていると思います。神格化された世界から、より自分の身近な世界が描かれるようになったのです。もしかしら、その場所で、その人がという、極めて起こりうる可能性の高い物語が広く享受されるようになります。そうした作品が求められるようになった要因の一つには、所有欲の強さもまた影響していると私は感じます。
全員が知っていると、自分ひとりのものには出来ません。ですからアイドルは全体のものです。しかし、それが細分化して、より小さなアイドルになってくると、知っている人も少ないし、なにより応援してきた自分が育てたという、保護としての側面が出てきます。小さくなったアイドルは自分と対等か或いは、自分の擁護すべき存在としての側面が付加されたのではないでしょうか。存在依存といってもいいでしょう。自分の存在のよりどころとなるアイドル、作品を求める力が強まったのではないでしょうか。

-00年代10年代を比較して-
これは、90年代の『新世紀エヴァンゲリオン』からアプローチすることが出来ると考えています。当時の若者は、まさしく自分たちの存在のよりどころとして、この作品のなかに自分たちの心の居場所を得たのです。エヴァンゲリオンはその作品上フィクション的要素がまだ強かったですが、それが次第に、より小さな作品となるにつれて、自分が居るべき作品とでも言うようなもの、自分の存在依拠としての作品が強まったのです。そうして、そのような作品のほうが、実際グッズなどの販売の効果も良かったのだろうと思われます。当然自分の依拠した作品は、少数に限られるけれども、その少数の人間たちは必ずその作品のグッズを大量に買い求めるのです。作品と観客の密着度が強まったといってもいいでしょう。こうしたことを、例えばアニメなどに理解を示さない人たちは「オタク」という言葉で一括りにしたのです。
そうして、00年代は言わば「日常の商品化」です。ありふれた日常が、アニメで描かれることによって、理想化された日常を疑似体験することが出来る。そこに自分の居場所を見つけることもできるし、何より自分たちと主人公たちとの距離感があまりに近いのです。当然若者の心との距離が皆無な作品をつくることが出来れば、たちまち大ヒットということで、『けいおん』は成功したのだと私は考えます。
そこには、どこにでもありふれた少女たちが、何のフィクション的な物語展開もなく、ただ日常を平和に暮すというほのぼのした内容が展開されます。そうしてそこに、自分の求めるアイドル像を発見し、その閉鎖された居心地のよい日常への同化をしているのです。それが00年代の特徴といえるでしょう。
ただ、そうした流れに対して、私が驚いたのが、10年代のアニメの「問い」です。今まで誰も何も疑問を持たずにただ了解していたアニメ、漫画の存在に対してまったを掛けたのが、ここ2年の作風といえるでしょう。丁度それは震災と前後していることも念頭においておきたいと私は思っています。前回までで取り上げた『まどか☆マギカ』や『タイバニ』などは、今まで魔法少女ものや、ヒーローものといった一つのジャンルに対しての一つのアンチテーゼをしています。ジャンルの根幹を揺るがす、構築し続けてきたアニメの世界をもう一度ある意味では破壊しようとしているのです。
また、これは『新劇場版ヱヴァンゲリオンQ』にも関連して述べることが出来ると思います。またエヴァンゲリオンの新劇場版についてはそれのみで論じますが、今回の作品は、ある意味でいえば「突き放し」です。90年代に多くの若者が、心のよりどころとして享受したエヴァンゲリオンは、製作者側、作品側から観客を突き放すように変容したと考えることが出来ると私はおもっています。ですから、アニメは今までの流れのような閉鎖された、ごくごく少数の人間に享受されるための作品から、また再び大衆の作品へと生まれ変わろうとしている流れがあるということが確認できるのです。
アイドルもまた、そうした流れがあと数十年の間に出てくるのではないかと、ここで予想しておきます。アイドル性の回復がなされる日が来るかも知れないのです。

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