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読書の意義 本を読むとはどういうことかを考える

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何故子どもに読書を進めるのか
我々がこれだけの長い歴史を有してきたなかで、歴史に名を残すような人物たちが悉く、彼等の言葉のなかで読書をすべきだという内容を言っているのはどうしてであろうか。読書をすること。その行為が意味することは何であろうか。私は読書が好きな人間であるが、読書の面白みや、その必要性をどのようにして、他人に説いたらよいのだろうか。
大人は読書をしろしろと口うるさく言う。しかし、どうして読書をしなければいけないのか、肝心な理由が説明されていない。子どもたちは既に、大人から言われたことを全てその通りに聞くような従順な姿勢を持ち合わせてはいない。それは単に生意気になったとかそういうことではなくて、論理性が尊ばれるようになったからである。大人の言うことであっても、その整合性がなければ子どもは聞く耳を持たない。子どもが発達してきたのである。我々大人は、子どもたちが納得して、だから読書は必要なんだと体感させるだけの説明をしなければいけない。
今回は、私が大好きで、趣味でもあり、学問の対象でもあり、人生でもある読書について、長らく中学校で、学校図書館司書をなされてきた、松尾不二夫教授の講義ノートを参考にして、このことについて考えてみたい。

「本」を読むとはどのような行為か=本を読むという行為を通して
先ず、「本」というメディア媒体の特質から考えなければならない。本の定義はいくつかあるが、その最も根幹となるものは、文字が書かれているということであろう。例外として画だけで構成されているものもあろう。しかし、一般には、本は文字が印刷されているものである。私たちは本を読みことによって、そこから情報を引き出すことができる。
人類がこの歴史のなかで発明した最も偉大な発明は何かといわれたとき、多くの人間が「ことば」であると答えるであろう。学者のなかには、人間とその他の動物を区別する際にことばを揚げているものもいる。それくらい、ことばは我々人類を人類たらしてめている、あるいはことばによって人類は他の動物と区別されているのかも知れない。本は文字が書かれている。文字は言葉である。したがって、本を読むということは、ことばを読むことである。「読む」とは、「ことば」と「ことば」の関係を組み立てながら、そこに描かれている場景や様子や事柄を自分でイメージしていく行為である。「ことば」はことばを知らないものにとってはことばにならない。ことばは極めて高度な記号である。我々は、絶え間ない訓練によって、ことばという記号が何を意味するのかを習得してきた。それがなければ、ことばを見ても、そこにはインクの染か、ただの線の羅列があるに過ぎない。
ことばを理解して、そこに何が描かれているのか、どんな内容だったのかを認識できたとき、「本が読めた」ということが出来る。
文字は、私たちの話し言葉から成立した。私たちのコミュニケーションの道具である言葉が、次第に文字という記号を媒体として記録されるようになった。話し言葉は次第に書き言葉になった。その書き言葉が連なったものが本である。読書の意義は、言葉の獲得である。私たちは本を読むことによって、そこに書かれてある言葉と接し、そうして新しい言葉を常に習得し続けているのである。

言葉の獲得とコミュニケーション
「ことば」はあらゆることの基礎的・基本的な力となる。読書をすることは、ことばの獲得でもある。そして、多くのことばを身に付けていると、コミュニケーションを図るにも、いろいろなことばを駆使できるので、コミュニケーションも豊かになる。
読書を国語科という教科の下にあるものだと考える人があるが、それは大きな間違いである。読書は、人間が人間足らしめる上で、最も基礎的・基本的な部分となる。読書をしない人間がいくら勉強をしたとしても、土台がないところに家は立たない。我々は言葉を通して生きているのである。読書をしなくてもいいということは、こうした観点からも決して言えることではない。学問をしなくてもよいということは、比較的簡単に言えるかも知れない。なぜなら学問が全くなくとも生きていくことは可能だからである。当然学問が出来たほうが、人生は変化してくるが。ところが、読書を否定することは出来ない。読書は全ての根幹となるものである。であるから、読書を否定するということは、言葉の獲得をしなくても良いということになり、つまるところ人間として、言葉の使用を認めないことになる。
読書は何も国語科の下に行うものではない。例えば読書ともっとも縁遠いと思われる数学であったとしても、数式を立てるのに、数字という記号だけで全て書き表すことが出来るだろうか。何かの証明をする際には、必ず言葉が補われているのである。
読書をするということは、言葉をできるだけ多く獲得することに繋がる。言葉を多く知っていれば、それだけコミュニケーションが豊かになる。ここで、「ことば」を獲得したことによって、コミュニケーション能力が高められ、人間世界を広げられた思想家を紹介する。聴力、視力、言葉を失った彼女は三重苦と呼ばれた。しかし、アン・サリバンのもと、絶え間ない努力と訓練のために、話せるようになった。晩年の彼女の映像が残っているが、そこに出てくるヘレン・ケラーは我々が想像するのとは全く違い、極めて雄弁に情熱的に私たちに話しかける女性である。
彼女は「物には名前がある。ことばの獲得は人生を豊かにする」と述べている。一体だれが、この言葉を否定することが出来るだろうか。ことばの獲得は人生を豊かにしないと言う事は誰が言えるだろうか。もし言える人物がいるとすれば、それはヘレン・ケラーであろう。しかし、彼女は言葉を獲得することによって、彼女の人生は豊かになったと、声高らかに宣言しているのである。

ただ、読書によるコミュニケーション能力の育成はそれだけに留まらない。例えば我々が使用している日本語。日本語という言語は、実に省略を好む言語であることは誰もが知っているだろう。日本語は主語や述語の省略を平気で行う。だからこそ、主語と述語の明確な英語などを母語とする人間にとっては、日本語は極めて難しい言語になる。
私たちは普段から、外国人であれば理解できないほどの省略をしながら話しをしている。日本の美徳は、多くを語らないことにある。それは空間的余白である。日本の美術も同様に、空白を大胆に提示してくる。聞き手がその空間を埋められるだけの能力があることを前提に、全てを語らないことによって、そこに感情や情緒、余韻を含めるのである。
寅さんの口癖は「それをいっちゃ、おしまいよ」である。全てを言わせてしまったら、それでおしまいではないか、そんなことを私に言わせるのかいという思想である。このような極めて複雑な言語を使いこなせているのは、読書によって、コミュニケーションの能力が育成されているからである。私たちは知らず知らずのうちに、このような空白を埋めるだけの力を得ているのである。

教育の面からもこのことは言える。もし言葉の獲得をせず、コミュニケーション能力を育成しなかったらどうなるかということである。少年院や、少年鑑別所の所長などによる本が多く出版されている。私は教職を目指しているということもあって、そのような本を多く読むのであるが、共通していえることは、そのような場所に送られてくる少年たちには、圧倒的に言葉が足りないということである。
語彙が貧弱なのである。人間の感情は至極複雑なものである。それらの複雑な感情に合致する言葉を我々はつねに捜し求めている。しかし、これらの少年にはそのような言葉がないのである。であるから、自分の思っていることを伝えたくても伝えられない。そのわだかまりに嫌気が差して、むしゃくしゃして言葉にならないことを、行動によって示そうとするのである。言葉の獲得はつねにし続けなければいけない。

想像力・思考力をつける
読書とは、知識や楽しみを得るための一つの手段であると同時に、読む力のトレーニングでもある。読書をすると、想像力・思考力が身につくと言われるが、このことはのどのようなことなのだろうか。
想像力とは何か、考えてみよう。想像力は、目の前にないものを視覚的に頭に浮かべる力であり、なにもとっぴな空想をめぐらすことではない。一方、思考力とは、「考える」ということを行う力である。抽象的な文字を通して、意味や内容を考えることである。
ここからも、文字が基礎になることがわかるが、想像力と思考力とは共通の行為であることがわかる。何故なら文字を基礎にして行われているからである。この想像力や思考力は別個に身につくものではなく、互いに関連しあっている。
この想像力は、現実の世界で先を予想して計画を立てたり、様々な人とうまくコミュニケーションをとったりしていく上で必要な力である。そして、読書によって想像力や思考力は無意識のうちに身についている。しかし、裏返せば、読書をしないと、これらの能力の発達が遅れるということでもある。
本は文字によって書かれていると先に述べたが、文字とは、記号である。私たちは、超高度な記号の使用の仕方を知っているので、本が読めるのであるし、その訓練を本を読み続けることによって、獲得してきた。本を読まなければ、抽象的な記号が一体何を意味しているのか、わからない。だから、私たちは知らない文字を見た際に、これはなんだろうと感じるのである。
それに対して、本を読んでこなくて、記号の大部分が分からない人がいたとすると、本など読む気にもならない。なぜならそこに描いてあるものを読み解くことが出来ないからである。読書は、先ず第一義的に記号を獲得することが必要になる。これが上で述べた言葉の獲得と関わる。そうして、その訓練を続けるうちに、インクの染み、黒い線の羅列が、次第に色鮮やかな視覚的なものとして脳内に展開されるのである。あるいは抽象的な概念や考えを、言葉という記号のみによって理解することができるようになる。
想像力は特別な力ではない。ただ、生まれたときから備わっているものでもない。読むとは、イメージを描くことである。目の前になりものを思い浮かべること。読書が苦手な子どもの大半は想像力が身についていないのである。
想像力・思考力は人間に最も必要とされる力のうちの一つである。これらの育成に効果的だと、歴史的に考えられているのが読書ということになる。恐らく長い時間をかけてこのようなことが言われ続け、そうして大きな反対もないことから、個人差はあるとしても、読書がこれらの能力の育成を促す最良の方法であることは間違いないだろう。
読書をする意味の一つには、当然知識を得ることもある。しかし、今現在の社会において必要とされるのは、常識的な知識もさることながら、想像力や思考力である。本よ読み、これらの力が優れている人と、そうでない人と、どちらが豊かな人生を送れるのか、考える必要がある。

「本」の持つ働きとは=本を読んだ内容を通して
読者を愉しませる=別の世界に出会う楽しさ

一冊の本には一つ以上の世界がある・その世界は、読書にとってはじめて経験する世界であったり、過去に似たような経験をしたことのある世界だったりすることがある。読者は「ことば」を通してその世界に心を遊ばすのである。このことを「読者を愉しませる」という。
私の専門は文学であるが、この分野では特に「テクストの多義性」が重要視される。これは、一つの作品があったとして、どのように読めるか、考えることが出来るかということを論じるのである。文学の世界では、文学作品の読み方は、極端に言えば人口と同じだけの読み方が出来るということになる。では、どうして書かれていることは同じであるにも拘わらず、その内容が読んだ人によって異なるのかということになるが、それは本のメディアの特性でもあるだろう。
本は、最も読み手に依存した媒体である。本には強制力はない。読者が本をてにとって読もうとしない限りは本は読まれないのである。TVなどは、向こうから情報が提示されつづけられる。であるから、考えなくてもTVは流れ続ける。しかし、本はこちらから呼びかけないと働かないのである。意識がないのに本は読めない。本は読者に全ての委ねた媒体なのである。その代わり、読者の自由に読むことが出来る。速さもその一つである。ゆっくり読もうが、流し読みをしようが、或いは何度も何度もおなじ部分を読んだりすることが出来る。そうすることによって、10人10色の読み方が出来るのである。
イエラ・レップマンは「本は翼だ」といっている。本は子どもの狭い生活圏を鳥のように越え、子どもを未知の世界に飛翔させてくれるものである。読書をすることは、精神をその場から飛び出させることであり、精神の旅でもある。そうして、そのたびは、読む人それぞれによって、読書という行為を通じて創作されていく精神活動である。その人がしたいように旅をすることが出来るのである。当然旅をしなくても生きてはいける。しかし、旅を続けてきた人と、旅をほとんどしない人では、何かに出会った際に考えられる幅や、想像力の豊かさに差が出てくるのである。
また、豊かな旅をすることは、それ自体が楽しい行為である。自分が大好きな世界もあれば、時には自分が思いもよらなかった、全く未知な世界もそこには展開されている。そうした発見や出会いを通して、一義的な思想から、多義的な思想へと変容する。より多くの面から見ること、考えることが出来るようにもなるのである。

思索としての読書=自己改革=人間形成
読書によって、未知の世界の諸問題について、今まで以上に考えを深めることができる。つまり、読書によって、新たな知識や考え方を得ると、今まで持っていた知識や考え方を修正し、新しい知識や深い思考力を持った新しい自分を誕生させることが出来る。
読書をすれば人間は生長する。では、一体どういう仕組みで成長するのだろうか、考えてみよう。
読書をすることは、読むことである。であるから、読み取る能力が拡大、深化される。そうすると、読みの力がついてくるわけだから、より一層深い読みが可能になる。深い読みが出来るようになることは、人間形成の一端である。何か本を読めば、必ずそこに書かれてあることに対して心が動くはずである。共感もあれば、感動もあるだろう、時には否定したくなったり、わからないこともあるだろう。しかし、そうした過程を経て、また一つ成長するのである。図式すると、
読書→読み取る能力の拡大・深化→一層深い読みが可能→人間形成=読書は自己変革を生み出す原動力となる→「考えること」
このようになる。最初と最後を端的につなげば、読書をすることは考えることである。そこにかかれてあったものを読み、考える。そうして、この図は、最後から再び最初に戻るようになっている。つまり、また読書をすることによって、永遠とこのサイクルが繰り返されるのである。一方向的ではなく、循環したものなのだ。
だから、読書をすることは、常に終りのない、常に成長し続ける行為なのである。ここで、終りがないからやらなくても良いという論理を展開する人がいるが、そうは思えない。終りがないからこそ、人間は常に向上しつづけなければならないのではいだろうか。終りがあるのならだ、その地点へ辿り着いたら終りである。それに、向上しつづけるひとと、全く向上しようとしないひとの間には、時間が経てば立つほど差が広まっていく。そのひろまった差によって、一体人生がどのように異なってくるのか、それを考えなければいけない。

主体性の確立=情報を使いこなす
人間が情報化社会を生きる時、情報に流されないことが大切である。一つひとつの情報に右往左往していては、「主体的」とはいえない。主体的とは、自分の考えや行動を自分で決めることのである。情報から考えるヒントや新しい知識を得ることが多い。
考えることとは、形の定まっていないあいまいな思いを、論理やイメージとして明確「ことば」に置き換えようとすることである。
情報に対する主体性のない人ほど、本を読みたがらない。これは卵と鶏の論で、本を読まないから情報の選択ができなく、選択ができないからどの本を読んだら良いのか分からないというものである。そのためにも、その人にあった本を薦めてくれる人が身近にいることは必要であるが、とにもかくにも先ずは一つ読むことである。それでその作品が自分に合えば、それと似た作品や、その作品の作者の別の作品を読めばよい。その作品が肌にあわなければ別の作品を読めばよいのである。
本は、インターネットの情報とは異なり、それなりに人の目が通り厳選された情報である。であるから、そうした論理的で良識的な情報を得ることができる。それに対して、インターネットでは誰もが情報を発信できるようになった。そのこと自体は非常に良いことなのであるが、そのぶん情報の信憑性が落ちた。なかには論拠なき、かってな意見が情報として出回っていることさえある。そのように、質に差がある情報が横溢しているなかで、いかに自分が自分に必要で、しかも質のよい情報に辿り着くというスキルを獲得していかなければならない。
本を読むことは、良い情報を得ることと同時に、そのような論理的で質のよいものを見分ける力をも授ける。多くの本を読んでいれば、この情報は信憑性に欠けるということは、すぐにわかることである。
次に、そのようにして得た情報をもとに、考えることを考察してみよう。例えば、私たちは考える際に、頭のなかでどのように考えているかに気を払ったことはあるだろうか。私たちは普段からそれになれてしまっているから気づかないかも知れないが、私たちはものを考えるときには「ことば」を使用している。母語しか話せない人には、それはわかりにくいので、外人の例を挙げてみよう。日本語がとても上手な外国人がいるとする。その人に何かを考えてもらう。例えば選挙戦。そうした後で、何語で考えたかを聞けば、彼らの母語で考えたと答えるだろう。つまり、私たちは言葉を通じて考えているのである。たとえ言葉を読み書きが出来なかったとしても、ことばによって思考しているのである。

間接経験を豊かにする
人間にとって大切なことは経験である。そして、自分の経験・体験に基づいて決断しているといわれている。しかし、われわれが生きている間に直接に経験できることはわずかであり、過去のことや将来のことは経験できないが、読書はその未経験を補ってくれる。だから、多くの本を読めば、それだけ間接経験は増えるのである。
「本を捨てて、外へ出てほしい」というような趣旨をアンドレ・ジイドが述べている。「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山修司の作品もある(内容はあまり関係ないが)。確かに本ばかり読んでいて現実を見ようとしない人にとっては必要なことかも知れないが、読書を否定することは誰もできない。私たちがいくら町へ出て練り歩いたところで、身は一つであるから体験できることがらも限られてきくる。私たちは、この短い人生のなかで、一体どれだけのことを経験できるのだろうか。例えばヨーロッパ、欧米、中東、北極、南極、その他諸々の土地での生活や宗教、文化、風俗を体験することができるのだろうか。それは当然自分の目でみたほうが良いのは決まっている。百聞は一見にしかずだからだ。しかし、それらを体験することが出来るのはごくごく少数の人々であるし、それを体験したからといって、それだけで生きていくことができるわけでもない。だから、そうした直接体験できないことを、精神を解放することによって、読書で間接体験として得ることが出来るのである。
そうして、自分の体験と読書で得た間接経験とは、別個のものではなく、互いに結びついているものなのだ。例えば体験があったとする。しかし、その体験というのはあくまでも自分が体験した主観的なものであるから、その体験が周囲と比べてどうなのか、正当性のあるものなのか、どの程度の価値のある経験なのか、その他もろもろのことはわからない。しかし、その後間接体験として、本で同じような経験をすることが出来たならば、忽ちにして、一元的な体験が多元的な体験になる。多元的になった体験は客観性をもった体験ということも出来るだろう。
或いはその反対に、読書で得た間接体験が先にあったとする。その後にその体験に似た直接体験をした時、そこで以前間接体験したものだと考えられればそれも相対化されたわけであるし、間接体験の内容とは異なっていれば。他の間接体験を求めても良いし、直接体験のほうを優先させて考えても良い。
読書をすることは、ともかく一義的な世界から多元的な世界へと羽ばたくために必要な行為である。一つの硬く狭い世界に閉じこもっていることは時として安心できるし楽であるが、やはり人間はどうしても社会的生き物であるため、外へ働きかけなければいけない。そのための読書という側面もまた重要な視点である。

おわりに
読書は文化である。文化を否定することは現在の学問上不可能ではないだろうか。何かの文化を否定することはそうできることではない。文化相対主義の時代でもある。そのなかで読書という文化は、極めて普遍的に共通して見られる文化である。この人類が長い歴史のなかではぐくんできた、読書という文化を、個人が主観の問題だと言って否定したり、やらなくても良いということなど出来ないと私は感じる。当然、何を選択しどのように生きるのかは当人の自由である。読書は強制されるものではない。読書は、その媒体自体が読者によって成立し得るという特性も持つし、芸術という面もあるので、他人に強要できるものではない。しかし、読書が必要であることは、今までの説明から分かっていただけると思う。
日本の学生は、小、中、高と上がるにしたがって不読者の数が増えている。特に高校生は、一月に一冊も読まない生徒の数が50パーセントを越えている(第57回学校読書調査報告)。それに対して、一月の平均読書冊数は2冊弱であるため、読みの差が開いていることが窺える。簡単に考えれば、読まない半分の人間と、4冊ほど読む人間とに別れてしまっているのである。毎月4冊ずつの読みの差が開いていくとなると、一年で約50冊、10年では500冊ほど読んだ冊数の差が出来る。これだけ差が出れば、どのようなことが起こるかは、自ずと見えてこよう。
読書の必要性を、様々な視点から考えてみた。しかし、この情報でさえも、主体的に選択する必要がある。ただ、その主体性を鍛えるためには読書が、最良の手段であることは間違いないのだ。

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