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夏目漱石 「三四郎」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十二

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丹青会展覧会で「兄妹の画」をめぐる会話
ほとんど今まで三四郎論では注目されてこなかった部分ですが、名刺と関連して注目しておきます。ここは美禰子が三四郎をさそって展覧会に行く場面。この画に注目しなければいけない理由は、この画が兄と妹による作品だからです。漱石レベルで、この画家のモデルとなった人物はすでに知られています。兄とその妻の妹という義兄妹の画家がいたことは確かですが、テクストレベルで考えた場合、どうして語り手が兄と妹の画家を出してきたのかということに注目します。
P228ℓ1~長い間海外を旅行して歩いた兄妹の画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所に並べて掛けてある。美禰子はその一枚の前に留まった。「ヴェニスでしょう」~黙って蒼い水と、水の左右の高い家と、倒(さか)さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とを眺めていた。すると、「兄(あに)さんの方が余程旨いですね」と美禰子が言った。~「兄(あに)さんとは・・・」「この画は兄さんの方でしょう」「誰の?」~「だって彼方の方が妹さんので、此方の方が兄さんのじゃありませんか」~「違うんですか」「一人と思っていらしったの」「ええ」と云って、呆やりしている。~「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ち留ったまま、もう一遍ヴェニスの掘割を眺め出した。先へ抜けた女は、この時振返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
ここで出てくる「兄さん」は明治期には「あにさん」と発音するのが正式でした。ちなみに、当時は「おまえ」も敬語として存在していました。子どもが親に対して「おまえ」と呼ぶことがあったそうです。「貴様」も同様です。
さて、展覧会に来た三四郎と美禰子ですが、三四郎は好きな美禰子と二人でデートしていることに現を抜かしてしまっています。ですから、画には集中していません。三四郎の美術に対する鑑識がどれほどのものであるかはわかりませんが、あまりはっきりとしたほうではないことは確かです。三四郎はこの画が二人の画家によるものだということがわかっていません。
それに対してP227ℓ7「随分ね」というセリフは、酷いのねというような意味がその後に省略されているものです。いまだと「ありえない」というような意味でしょうか。
ここで疑問になるのが、美禰子は妹というポジションなので、通常であれば妹の方を褒めたくなる心情であろうところを、兄さんの方を賛美する部分です。「兄さんの方が余程旨い」という言葉は翻していえば、「妹の方が余程落ちる」という意味になります。これをわざわざ口に出して三四郎に同意を求めたのは何故かということになるのです。
P228ℓ1「双方共同じ姓で、しかも一つ所に並べて掛けてある」ここから、フルネームが二つ並んでいるということがわかります。これに対して、美禰子と恭助は二人の名前が同時に並べられることのない関係性であることが、対比としてみることができます。
そうすると美禰子は名前が並んでいるこの画家の妹が悔しいのかという読みが生まれます。これは単純な読みです。今回はそうではなく、兄を褒めるという点に重きをおいて考えます。これは高田千波教授の考えです。
兄が結婚しようとすると、その前に妹を片付けてしまうという関係性に対して、この兄妹は画家として長期の旅行をしています。この兄妹の関係においては、妹の結婚を強いないのです。妹が画家であることを保障し、画家として生きることを認めている兄なのです。そうしてもし妹が兄と同じ、あるいはそれ以上の画力のある画家であったとしたら、こんどはその妹の特殊性が生まれてきます。つまり特別だから特別な生き方が許されるということです。しかし、そうではなくて、天才でも特別な才能のない妹でさえ、このような生き方が許されているということが、ここでは強調されているのです。
ですから、余程旨くない妹、特殊でない一般的な画家の妹に、自分を重ね合わせていると読むことができるのではないでしょうか。結婚を強いられる自分とは異なった、もう一つのありうる自分の姿をここに見出しているのではということになります。

P228ℓ6「黙って蒼い水と、水の左右の高い家と、倒(さか)さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とを眺めていた。」
さて、ここではヴェニスの画がどのような画であるかの描写がされていますが、当然私たち読者はそこに書かれている限り、何か知らの意味があると考えます。事実だけを伝えているわけではありませんから、どうしてこのような画であるのか説明にも当然意味があるのです。少々無理がありますが、この画の描写と似ている場面を小説内から探して見ましょう。
P142ℓ12「向うに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつく処まで来て留った。『美しい事』と云いながら、草の上に腰を卸した。」
明治は、若い男女が二人で歩くことが今とは違って大変勇気のいることでした。それはまた後で述べますが、ここでは、画を見た際に態々話しかけていることを鑑みると、このことを思い出して欲しいのかと美禰子が考えているともとれます。
またこの二人で川辺に腰掛けている場面では、有名なシュトレイシープがはじめて出てくる場面と繋がります。
P147ℓ6~「迷子の英訳を知っていらしって~迷える子(シュトレイシープ)―解って?」
ここで踏まえておきたいことは、三四郎が東大の英文科の学生であろうということです。そうすると、当然迷子の英訳くらいは知っているだろうと考えられます。当然それは美禰子も承知のはずです。いくら三四郎といえども、三四郎がこのくらは知っているだろうと予想して美禰子は話しているのです。通常であれば、lost child になります。しかし、それを聞いているとは思わなかった三四郎は、質問の本当の意図が分かりません。ですから黙っていると、美禰子がシュトレイシープという言葉を発するのです。
さて、余談ですが旧約聖書はヘブライ語で書かれており、新約聖書はギリシャ語で書かれています。ちなみにエヴァンゲリオンはギリシャ語で福音書という意味です。英訳版の聖書には、このシュトレイシープという表現はされていません。漱石レベルで考えると、単に作者である漱石が記憶の間違えで書いたのかとも考えることができますが、きちんと知っていたとすると、聖書とは別のことばを美禰子が敢えて使用したのかも知れないという意味が出てきます。

美禰子の出した絵葉書
明治の絵葉書は2種類あります。絵が描いてあるものと、絵も自分で描くものです。現在ではどちらかというと、絵も自分で描くという方は少なくなってしまいました。漱石は、自分で絵を描くのが好きな人だったということが知られています。
美禰子の絵葉書は、P156ℓ10「机の上に絵葉書がある。小川を描いて、草をもじゃもじゃ生して、その緑に羊を二匹寐かして、その向こう側に大きな男が洋杖(ステッキ)を持って立っている所を写したものである。男の顔が甚だ獰猛に出来ている。全く西洋の絵にある悪魔(デヴィル)を模したもので、念の為め、傍にちゃんとデヴィルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何物かをすぐ悟った。」
ここからは、この絵葉書に美禰子の文字も書かれていないことがわかりますが、美禰子が出したものだとすぐにわかります。そうしてこの羊が美禰子と三四郎をあらわしているであろうこともすぐわかります。
しかし、この絵だけという不思議な絵葉書が何を意味しているのかは大変難しい問題になります。今まで多くの漱石研究者がこの問題を取り扱ってきましたが、今回の高田教授の見解では、恭助ネットワークという言葉を用いて説明します。
その前に、若い男女が並んでいるという光景は、今であればほほえましいことでありますが、当時はけしからんと考える人が多くいました。
P145ℓ15「ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の影から出て、何時の間にか河を向こうへ渡ったものと見える。二人の坐っている方へ段々近付いて来る。洋服を着て髯を生やして、年配から云うと広田先生位な男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるちと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨み付けた。その眼のうちには明かに憎悪の色がある。三四郎は凝と坐っていにくい程ば束縛を感じた。」
現在の感覚ではわかりにくいことですが、真昼間から若い男女が並んでいるというのは、何もしていなくともその構図自体がよろしくないと思われていました。
そこで、この絵葉書にあるデヴィルがこの二人をにらみつけた男であると解釈することは簡単です。しかし、象徴性は別にあるのではないかというのが今回の考えたです。デヴィルが誰か、どういうメッセージがあるのかという疑問は、端的にしぼれば恭助になると考えます。恭助が美禰子を虐待しているわけではありません。ただ、自分の結婚の前に、妹を嫁に出すという行為、美禰子の自由を束縛している存在としての、デヴィルなのではないでしょうか。


絵葉書の小川 恭助ネットワークの境界
この美禰子からの絵葉書は一体何を意味するのか、そこにはどんなメッセージがあるのか、この答えはかかれていませんから、断言することは出来ません。しかし、予想することはできます。三四郎を読み解いていく上で、恭助を真ん中にした人間関係があることがわかってきます。恭助ネットワークとこれを呼ぶことにしますが、このネットワークのなかの人間の共通項は、皆美禰子を恭助の付属物だと見るという点です。この点では広田や宗八、原口も共通しています。
さらにこの恭助ネットワークには、二種類あります。一つは、三四郎とつながりのある世界。P94ℓ14~「三四郎には三つの世界が出来た。~第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしている。あるものは空を見て歩いている。あるものは俯向いて歩いている。服装(なり)は必ず穢ない。生計(くらし)はきっと貧乏である。」三四郎はこちらの世界とは関わりがありました。しかし、三四郎の関わりのないところで、もう一つの世界があったのです。それがP286ℓ6~「金縁の眼鏡を掛けて、~髭を綺麗に剃っている」
ここで・無精ひげを生やした男のグループと・髭を綺麗に剃っている男のグループというふうに分けて考えることができます。無精ひげのグループは学問をする人で実利には疎い人たち、髭のないグループは金や出世を目指す人々と対比することができます。
P127で三四郎とよし子が話をする場面で恭助が法学士であることがわかります。法科大学を出た人間は、今で言う国家公務員、キャリア組みです。弁護士や銀行員など国家権力に携わる人々が多く排出されました。恐らく恭助ネットワークのひげのない男たちは、法学部出身の人間関係なのではないかと思われます。
一方で学問の人間と、他方で実利の世界とにネットワークを有していた恭助。美禰子の結婚相手は恭助ネットワークから選ばれました。この恭助ネットワークは美禰子のことを恭助の妹としか見ません。それに対して美禰子は嫌がっていたのです。それが名刺の女としての存在とも関わってきます。
先ほどのP126ℓ6「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」「ええ。御友達なの」の部分で、よし子でさえ、里見さんと言われて恭助をイメージします。ですから、裏返して言えば、里見さんといわれて恭助をイメージしない人のほうが珍しいのです。
ですから三四郎の価値は、恭助ネットワークの外にいるということにあります。異性として好きかどうか、友達としてなんとかではなく、価値はもっと別の場所にあるのではないかということです。この作品に恭助が出てこないということは非常に重要な意味があるのではないでしょうか。恭助に逢ったことにない唯一の存在として、三四郎がいるのです。

大学運動会の日
P183ℓ13「あなたは未だこの間の絵葉書の返事を下さらないのね」
ここは、今までラブレターの返事としての手紙をまだかえさないのかという意味だと考えられてきましたが、これまでのように考えて行くと、あの絵葉書の意味がわかったかという質問と、わかって欲しいという願いの意味だと読むこともできます。
美禰子の家を訪ねた日
P219ℓ15「とうとういらしった」
美禰子が三四郎を待ち構えていたという、魔性の女として解釈する読み方もあります。その後のP221ℓ11「馬券で中(あて)るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとなさらない呑気な方だのに」という部分は、ばればれの心の内面を見抜けない人という意味とも読めます。①どうして私が好きだということを理解できないのか?②どうして私が野々宮のことを好きだということを理解できないのか?
しかし、ここの部分はそうではなくて、何度も三四郎に対してテストを繰り返し、その真意を理解してくれるだろうかということを言っているのではと読めないでしょうか。

この日、丹青会展覧会で「兄妹の画」を巡る会話
P233ℓ6「これもヴェニスですね」と女が寄って来た。「ええ~さっき何を云ったんですか」「さっき?」~「さっき、僕が立って、彼方のヴェニスを見ている時です~用でなければ聞かなくっても可いです。」「用じゃないのよ」
P229ℓ7「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ち留ったまま、もう一遍ヴェニスの掘割を眺め出した。先へ抜けた女は、この時振返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
『三四郎』は三人称で書かれている小説です。その殆どが三四郎の眼を通して語られていますが、例外的にこの部分は美禰子の視点で描かれています。「三四郎は自分の方を見ていない」は、美禰子から見ています。この例外は、それだけ重要な部分だと考えることができます。
里見の家を恭助の家と見ない唯一の人物としての三四郎。しかし、恭助ネットワークからはずれた人物であるということの価値を三四郎は気がつきません。美禰子はそれを気がつかせるために何度もテストを繰り返しますが、見事に悉くそれをはずします。
P233で再びヴェニスの画だと言って近寄ってきた美禰子は、先ほど気がつくことができずに落ちてしまったテストの再試験だと考えられます。「さっき」という三四郎の指摘で会話は復活します。三四郎の問うた「さっき」は二つの箇所を指しています。①兄妹の画、画を巡る会話、②野々宮の前でのささやき。②の方ではだめなのです。①であれば、ヴェニスの画を通して、もう一度兄妹の関係性を考えることが出来る機会が得られます。もしここで、兄妹の画だと応えたら、美禰子からさらにその関係性を気がつかせるための応答がったかも知れません。しかし、「用がなければ可いです」というセリフで、完全に②の方を言っていたことが判明します。「さっき?」と美禰子が問い返す場面は、①を期待していたのではないでしょうか。
P235ℓ16「女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。」と感じます。ここまでは確かにあっているのですが、その次の行で、「―必竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。」と全く検討違いをしています。
美禰子の謎の耳打ちと野々宮の不快
「妙な連れと来ましたね」「妙なお客が落ち合ったな」
P229で展覧会場で野々宮たちと偶然出会う美禰子と三四郎。野々宮は二人をみて上のセリフを言います。今までの研究では、三角関係の理解からしかアプローチがなされませんでした。しかし、この時点ですでに美禰子の結婚相手の候補から野々宮は落ちています。恭助と仲が悪いならともかく、仲のよい二人です。定説では野々宮の二人に対する嫉妬と読まれてきましたが、もう一つの野々宮の「妙な」というセリフを考えてみると、別の意味が浮かび上がってきます。
P255ℓ3「妙な御客が落ち合ったな。入り口で逢ったのか」これは三四郎と一所に入ってきたよし子に向けて言われたセリフです。つまり、男女が二人で歩いていること自体が野々宮にとっては妙なのです。入り口かと質問している意味は、デートの有無を聞いているのです。入り口であれば偶々会っただけですが、それ以外ならデートかも知れないという意味での質問なのです。
ここまで踏まえて考えると、野々宮の不快は、兄恭助に無断でデートをしていることに対してではないかと考えられます。兄が他に働きかけて結婚相手を探しているというのに、当人は兄に無断で男とデートをしているのではないかという視点なのです。美禰子を恭助の妹としてみている視点です。

菊人形の日の空中飛行機をめぐる美禰子と野々宮の会話
アフラ・ベーン
菊人形見物へ行ったP131ℓ10~134ℓ3~の部分の会話は、読者は当然飛行機の話とは思いません。何かしらの比喩であると考えます。従来、安全優先かどうかという意味だろうと考えられてきました。恋に冒険するかどうかです。恋を巡る論争だろうと考えられてきました。しかし、今までのことを踏まえるともっと広く、女性が結婚して落ち着くのか、あるいはリスクを負ってでも才能や努力で生きるのかという話に通じてきます。
この作品に出てくるアフラ・ベーン。当時は誰が借りたのかわかるように、図書カードには借りた人間の名前が書かれます。P115ℓ7「閨秀作家」この閨秀という言葉は差別的で、女流、女性とその呼び名が変容してきました。閨秀ということばには、芸術は男性のものであり、女性は例外であるという意味があります。女流もそれに対応する男流がありませんから駄目です。当時は女性が芸術をして生きるということは例外でした。
妻になって母になるのが女性の生き方だという社会のあり方に、それではつまらない、女性として飛び立って生きたいという意味が込められた会話なのではないでしょうか。野々宮は恭助ネットワークのど真ん中の人物です。野々宮はそれどころか、恭助の代理として美禰子と話していたのです。ですから兄の代理ということで、兄に内緒でデートしていることにも不快になったのです。

美禰子の「難有う」はお礼か?
野々宮を訪ねる直前の唐物屋
「先達ては難有う」
三四郎のお礼状の返事に対する挨拶
「感謝以外には、何にも書いていない」
*羊の絵葉書に対する返事を、三四郎はついに送らず仕舞い
P251~252において、美禰子が三四郎に対して「先達ては難有う」という場面があります。そのままの文脈でとれば、感謝の意を示したものでしょうが、今までのことを踏まえた上で考えると、再試験に落ちた三四郎へ対する失望の現われではないかと読むことができます。三四郎は借金の礼状として、「感謝以外には、何にも書いていない」ものを出しました。ですから、終に美禰子は絵葉書の返事を貰うことができなかったのです。お金を貸してまで、何とか三四郎に自分の立場を察して欲しいというところで、三四郎はまだ気がつきません。それに対する美禰子の失望がここで窺えるのです。
結婚後の美禰子
美禰子は夫に連れられて二日目に来た
P334ℓ13で美禰子が夫に連れられてきたという記述があります。今までずっと『三四郎』という小説のなかで、主導権を持っていたのは美禰子でした。いろいろなところへ行くのにも、彼女が主体となって進行していました。今まで連れて行く側の人間であった美禰子は、連れてこられる女性へと変容しました。
ℓ14原口さんは「どうです」と二人を見た。夫は「結構です」と云って、~「御蔭さまで」と美禰子が礼を述べた。
展覧会にきた二人に対して、画家の原口は言葉をかけます。いつもであれば、美禰子が応えるはずのところを、夫しか応えません。自分がモデルであるにもかかわらず、美禰子は何も言わないのです。その後に「御蔭さまです」という言葉を発しますが、殆ど意味もないような言葉です。美禰子は結婚することによって、里見美禰子と書かれた名刺は無効になりました。名刺はもう使えないのです。名刺の女はもう死にました。ここに明らかな変貌があります。そうしてこの変貌の裏には、深い絶望による感情があるのではないでしょうか。

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