綿矢りさ『ひらいて』への試論 感想とレビュー 『斜陽』との比較、恋と道徳革命・新たな関係性

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-初めに-
『かわいそうだね?』が第6回大江健三郎賞を受賞しました。ネット上の反応を見てみると、多くの方が綿矢りさの『かわいそうだね?』を評価しています。ここで私の認識と社会の認識にずれが生じていることが露見され、私は大きな動揺を感じました。私が社会とずれているのか、或いは私の見方と社会が見る視点がずれているのか、よくわかりませんが、一人の批評家であり、小説を書く人間としては、どうしても『かわいそうだね?』は評価できないと感じています。決してこれは作家への誹謗中傷ではありません。私の文学理論からすると、『かわいそうだね?』が理解できないということに他ならないのです。ファンの方にはその点を留意してもらいたく、これは匿名性の悪口ではありません。飽くまで一つの見解、見方として認知してください。

-綿矢作品と三角関係-
多くの読者さんはどのように感じるのでしょうか。少なくとも私には『かわいそうだね?』は評価できなくとも、『ひらいて』は大いに評価できる作品であると感じます。このような作品が評価されるべきではないかと、私は感じました。
「やみくもに、自分本位に、あたりをなぎ倒しながら疾走する、初めての恋―。」という帯の文句は、詐欺ではないかと思われるほどの内容に、読者は度肝を抜かれます。白が基調の装丁、純白、純粋、そのような言葉が連想されるような、甘い初恋のような雰囲気を纏っていながら、内実全く異なることに、読者は驚かされることでしょう。
恋愛を扱った小説は今まではいてすてる程あります。恋愛は、パターン化されるほどに、その話形は殆ど出尽くしてしまったと言っても良いでしょう。恋愛小説が既にあるあると化してしまった現在に、恋愛小説にどのような新風を巻き起こすのかという問題が生じてきているのだと、私は思います。
綿矢作品は三人関係の恋愛が多く存在します。一作前の『かわいそうだね?』の三角関係もかなり特異なものでした。しかし、これは私には理解できない境地にあり、そのため評価が出来ないと思うのです。それに比べて、今回の作品は、『かわいそうだね?』で恐らく表現し切れなかった部分を、彼女の本来の小説の場、つまり教室内へと持ち込むことによって、成功を収めたのだと考えることが出来ます。
綿矢さんの作品は、『蹴りたい背中』『インストール』共に、内側に閉じられた世界が小説の場となっていました。教室小説だと評論化の榎本教授は言っています。私は、綿矢作品が一旦その閉じられた世界から飛び出すことによって、新たな教室の存在を見出したのではないかと感じます。教室の中から出発した綿矢さん。しかし、それはまだ彼女のとって一元的な世界でしかないのです。社会人となって、教室から飛びぬけた彼女の作品は、飛び出したことによって、新たな教室のあり方や、存在を見出し、いわば相対化した教室へ再び戻ってきたのではないかと考えます。
そのため、今までにはなかった、精密な描写や、主人公の心理の正確さなどが際立って表現されています。

ルネ・ジラールが提唱した「欲望の三角形」は、今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げました。しかし、その三角関係も既に形骸化しているのではないかと、私は考えています。特に三角関係を描き、今回も新たな三角関係を創作した『ひらいて』には、その論理を当てはめることは不可能になっています。
この作品の三角関係は、愛、たとえ、美雪の特殊な関係を元に発展します。愛という主人公の視点で描かれる一人称作品。彼女の名前もまた、作品としては少々あからさまな動機付けが為されていると私は思いますが、主人公の性質を如実に現す名として登場します。愛は、たとえというクラスメイトのことが好きになります。しかし、そのたとえ君に近づいていくと、彼には中学時代から付き合っていた美雪という彼女がいることが発覚します。
そこで彼女はたとえ君を美雪から奪うのではなく、これならばルネジラールの法則が通用するのですが、逆に美雪へと感情の発露を方向展開するのです。一種の百合小説、レズビアン小説としても読むことが出来るこの作品ですが、おもしろいのは、それまでであれば愛がバイセクシャルで美雪との関係にあまり抵抗を感じないものが多く描かれてきましたが、今回は、あからさまな嫌悪感をもって美雪との性行為に望んでいるということです。
完全に論理が崩壊しています。愛はたとえ君が好き。しかし何故か自分でも制御しきれなくて、彼の彼女の美雪へと向かう。それでも美雪が好きなわけでも同性愛者であるわけでもなく、嫌悪感や憎悪を感じながらも彼女との関係を深めていかざるを得ない人間なのです。

-小説内記号、名前と手紙-
愛という少女を考えるとき、先ずその名から考えてみたいと思います。愛という名前の特殊性について、彼女はインタビューでも答えていますが、愛(LOVE)という人間の感情をそのまま名前に出来るのは日本くらいしかありません。客観的に考えると、実は相当どぎつい名前であることがわかると思います。悪く言えば、一年中発情しているということです。こうした一方向性の極めて強力な情念が、この主人公には動機付けされているのです。それは高校生という少女の性質の本質を捉えたものなのかもしれません。不幸にも私は男性ですから、第二次成長期の少女の実際を体感していません。しかし、多くの作品と触れ合うなかで、第二次成長期の女性には非常に強力な、それこそ自分でもコントロール不可能な情念があると思うのです。ですから、そこに物語が生まれる。ありふれた力が色々な話をつくる。昨今話題となったアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』も、第二次成長期の女性の本質を突いた部分がありました。
この愛も、まさしく自分の力をコントロールできない少女なのです。この作品の後半で、最も盛り上がりを見せる場面の一つが愛が夕方の学校で、たとえ君を呼び出して彼の机の上に裸で坐っているという場面。これも、彼への屈折した愛情と、その形は非道徳的なものであったとしても、自分の傷つくことさえ怖れない裸という状態、純真無垢のような情念が表象されているのだと感じました。

http://www.shinchosha.co.jp/nami/tachiyomi/20120727_02.html
新潮社のインタビュー記事のなかで、綿矢さんが「太宰治の『斜陽』を読んで、手紙の文学っていいなと思っていました。美雪は、手紙によって、人のこころを温めようとしている。あまりにも古典的ですが、美雪ならそういうこともするだろうなと。愛という我の強い女の子の世界をずっと書いているなかで、美雪の手紙の部分のところにさしかかると、ようやくまともなことを書けるとほっとしました。」と言っている部分があります。
この作品の一面としては、現代には珍しい書簡小説であるということです。現在の小説を読み解く上で、ひとつ重要になるポイントは、登場人物たちが持つ連絡を取る媒体です。当然携帯がない時代は手紙がほとんど、時には電話も登場しました。しかし、20世紀の終盤からは、インターネットが発達し、パソコンやメールがそれに取って代わることになりました。『インストール』は、特に顕著で、インターネットを媒体とした小説であると言うことができます。
この作品は珍しく主人公たちが殆ど携帯を使用しないのです。たとえ君を呼び出すために、最後に愛は緊急用として美雪の携帯を使用してしましましたが、それを例外とすれば、この作品は書簡を中心に物語が展開していくことになります。
書簡という媒体。現在では使用されなくなってしまったこの媒体がなぜ選ばれるのか。作者のレベルで考えれば上に挙げた綿矢さんの心の問題があるでしょう。しかし、テクストで考える際に、書簡という媒体がもつ意味は、メールよりもより親密な関係性がそこにあるということなのではないでしょうか。手紙は、当然その人の直筆ですから、字体にも感情が表れます。字面だけ読むことが出来る私たち読者と違い、美雪とたとえの間にはそのような言葉では表現できない、繊細な感情の糸のようなものが今にも切れそうなほど微弱に伝っていたのです。
ただ、美雪とたとえの関係性は、それ自体全く発展のないものでした。P152美雪のセリフ「私たち、長く付き合ってきたけど、いつもどこか距離があったね。でも距離を埋めようとせずに、お互いの悩みを持ち寄って慰めあうことで、見て見ないふりをしていたね。これからはお互い、心をひらきましょう」
美雪は病気を、たとえは病的な父を持ったもの同志、仲間という意識のもとで関係性が築かれていました。その関係性において、たまたま二人が異性であるということから、二人の共感性や同情といった感情がごちゃまぜになって付き合うということに発展したと考えられますが、しかしそれは錯覚であって、恋愛感情から生まれた関係性ではなかったのです。

-終りに・『斜陽』との比較・新たな関係性の構築-
そこに関係破壊者としての愛が登場します。愛がした行動は不可解で、論理性の欠片もありません。全て感情の赴くままに動いている。しかもそれが第二次成長期からくる、抑圧から解放された爆発的なエネルギーであるため、私たちの把握するところにないのです。
ただ、愛の感情を説明できなくとも、その行為と結果を考えると、新しい何かが見えてきます。一旦美雪とたとえの関係を破壊した後、新たな関係を構築する。その際に自分の存在が介入できる新しい場所が作られたのは偶然でもあり、また破壊したのが彼女であるということから自然発生的に生まれでたのだとも解釈できます。このことは、実は太宰治の『斜陽』との連関性があると私は感じました。
綿矢さんは書簡小説としての側面を『斜陽』からアイデアを受けたと述べていますが、彼女が意識しているかどうかは別として、『斜陽』の主人公かず子の影響が見られます。

新潮文庫百二十五刷P134ℓ1「何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。~破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、立て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば。永遠の完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。~P136ℓ12人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」
太宰治の『斜陽』のなかで、主人公となるかず子は、P202ℓ3で道徳革命をしなければいけないと言っています。かず子にとってはこの道徳革命は、妻のいる上原という男の子どもを産むことだと読めます。すると、ここには今までの古い道徳を打ち壊し、新しい構造を構築しなければいけない、そのための革命であり、その革命の原動力は恋であるということになるのです。
このかず子の原動力と同じものが、愛に共通して見られないでしょうか。かず子は『斜陽』において道徳改革をする前の時点で小説が終了しています。それに対して、『ひらいて』は破壊した後の話まで続いているのです。つまり、道徳革命が遂行された後の世界まで描かれているのです。ですから、そこには古い道徳観念はありません。私たちの道徳とは異なった世界がそこに構築されたのです。この小説の最後は、最も難解な部分となっています。字面が読めても意味がわからないのです。言葉の意味が分かっても、それが一体なにを意味するのかがわからないのです。
そこで、私は綿矢さんがアイデアの発想を受けたという『斜陽』の道徳革命を持ち出すことによって、それが遂行されたのではという解釈を立ててみました。ですからここには、私たちが理解できる世界ではなくて、愛、美雪、たとえの三人の新たな関係性が構築されたのだといえます。
そうしてその関係性ですが、一つの言葉に表すとなると「ひらいて」になるわけです。三人の関係性は、御互いにひらきあっている状態になったのです。私たちの実感では分かりませんが、三人にはそれが新しい関係性、彼等のいるべき準拠すべき関係性が築けたということなのだと思います。

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まとめ【綿矢りさ『ひらいて』】

−初めに−『かわいそうだね?』が第6回大江健三郎賞を受賞しました。ネット上の反応を見てみると、多くの

「ひらいて」綿矢りさ

やみくもに、自分本位に、あたりをなぎ倒しながら疾走する、はじめての恋。彼のまなざしが私を静かに支配する――。華やかで高慢な女子高生・愛が、妙な名前のもっさりした男子に恋をした。だが彼には中学時代からの恋人がいて……。傷つけて、傷ついて、事態はとんでもない方向に展開してゆくが、それでも心をひらくことこそ、生きているあかしなのだ。本年度大江健三郎賞受賞の著者による、心をゆすぶられる傑作小説。 ...

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大好きな小説

高校の頃以来約三年ぶりにひらいてを読みました。今読み終えてもやはりこの作家は凄いなとため息をついてしまいます。最後の解釈は非常に難しく、三年前と同じく理解出来なくて、苦しくて、なにかヒントはないかと書評を検索した次第です。全て読ませていただきました。非常に参考になりました。
10代の間ずっと闘っていた大きすぎた自意識をそのまま思い出させてくれる私にとって非常に印象深い小説。またいつか読み返してしまうに違いない。その時この書評を頭の隅に置いて読んでみようと思います。
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