スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

夏目漱石 「三四郎」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その一

51TP8GDWWML.jpg

これから十数回にわたって連載する「三四郎」の記事は、文責を私が負いますが、この文章内容は高田教授の近代文学研究の講義メモを元に作られていますので、学問的見解はそれに従うことになります。
つい数年前まで1000円札にも使用されていた夏目漱石。日本でもっとも有名な作家は夏目漱石ではないでしょうか。しかし、実際に漱石の作品を読んでいるひとはあまりいないのかも知れません。「吾輩は猫である」は大変有名ですが、これを読破した人はあまり多くありません。というのも、内容自体は面白いのですが、これといった展開もなく、ストーリーもなく途中で諦めてしまうひとが多いのです。
「坊ちゃん」も大変有名ですが、これは中高大あたりの読み期を逃してしまうと永遠に読まないという人が多いようです。
そんななか、漱石の作品の中でも最も好まれて読まれるのがこの「三四郎」です。
大抵の会社が漱石の作品を文庫化するときには先ず三四郎が刷られるくらい、未だその人気は衰えません。安定して売れているのです。こんかいはその「三四郎」を読み解きます。ページ数、行数は新潮文庫の百四十五刷によります。同じ新潮文庫でも昨年になって文字の大きさが変化しましたから合いません。注意してください。

漱石の東京朝日新聞入社三番目の連載小説
明治40(1907)入社
明治41.9.1--12・28『三四郎』連載 東西両朝日
「三四郎」は漱石が朝日新聞社に入社してから三番目の連載小説です。一つ目は「虞美人草」、二つ目は「坑夫」です。
漱石は連載を大体3ヶ月くらい、約100回ほどで一つを終えるというような感覚で考えていたようです。
当時この「三四郎」は大変な人気を博しました。現在では考えられないかも知れませんが、当時はまだ娯楽が少なかった時代ですから、連載小説で新聞の売り上げが大きく変わったのです。

このとき、漱石は明治の年号と同じですから41歳になります。元々、漱石は学者を目指していました。文部省から留学の命令を受けたこともあります。しかし、勘違いしていけないのは漱石は一度も教授になったことはないということです。朝日新聞社への入社時には実は、教授になれる口があったのですが、その機会を捨てて新聞記者になったのです。
現在では朝日新聞の記者といえばなんだかすごいイメージがあります。しかし、当時の新聞記者の社会的な地位は低く見られていました。いかがわしいというイメージがあったようです。これを念頭においておきましょう。
さて、何故新聞記者にいかがわしいというイメージがあったかというと、ゆすりをする記者がいたということがあります。手に入れた情報を元に、お金を払わないとばらしちゃうぞという記者がいたのです。
反対に、文学者の中には記者である人間が数多くいました。尾崎紅葉などもその一人です。先ほど連載小説で新聞の売り上げが大きく変わるといいました。ですから新聞社側も必死になって売れっ子の作家を何とか自社に引き入れようとしたのです。ですから当時、漱石のような記者として新聞社に身をおいている人間は数多くいました。漱石が初めてではないということです。
また、漱石は原稿料と印税だけで生活したことはありません。安定した月給を会社から貰い、ボーナスもきちんと受けて、当時の編集長よりも多いくらいのお金を貰っていたといわれています。漱石門下の芥川もその一人ですし、森鴎外にいたっては陸軍の医者です。

当時、漱石が教授の口をけって新聞記者に入ったということは大変なニュースになりました。これは現在では想像できませんが、官と民という意識が強かったからです。官と民は上と下といった感じで、東大はもちろん国立ですから官。これを捨てて民である新聞社へ行ったのです。しかも、当時の朝日新聞はちっとも大きくありません。朝日新聞は大阪が本社ですし、東京朝日は赤字を出すくらいの経営でした。
ちなみに、毎日新聞も同じく大阪が本家、読売新聞は東京からでた会社です。
官から給料を貰うのをやめて民から貰うということは当時の人にとっては大変な事件であったようです。
漱石の待遇は出社しなくてもよし、しかもボーナスありでした。

物語の時間
「文芸協会の演芸会」 入鹿の大臣 ハムレット
P256ℓ5「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行って頂戴って」この演芸協会は注釈にあるように坪内逍遥が島村抱月と協力して創立した演劇団代です。
P314ℓ16「入鹿の大臣」P318ℓ4「ハムレット」 文芸協会がこの「入鹿の大臣」と「ハムレット」を公演したのは、M40年11月、第二回の出し物のときです。小説の中では12月となっていますが、断定はできないものの恐らく小説の時間は明治40年でしょう。
「馬券」 馬券販売解禁の東京の競馬 明治39・11末
      馬券販売再び禁止          41・10
与次郎が「今月(11月)の初め」に馬券を購入できたのは明治40年11月だけ
馬券ごときでどうして年数が特定できるのかと不思議に思う方もいると思いますが、ここには複雑な事情があります。与次郎が馬券を買ったのは11月の初めです。さて、賭博罪という法律により競馬は長らく禁止されていました。それが例外的に明治39年の11月末に横浜の根岸競馬場のみ解禁されました。しかし、これは法改正ではありません。ですから実際は法律違反なのに、黙認するという奇妙なことが起こりました。ですが、やはり反対意見が非常に多く、M41には再び禁止となってしまいました。結局後日競馬法が出来たのは1923年関東大震災があった年です。ですからこの短い競馬が許された時間の中で、11月の初めに馬券を購入できたのはM40ねんしかないという結論に達します。

物語の始まり 東大に入学するため三四郎が汽車で上京(おそらく8月)
物語の終わり 翌年早春 「いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積もり」(おそらく3月)

変な標題(みだし) 「予告」
男性主人公のファーストネームだけの小説タイトルは画期的
現在にいたるまできわめて少ない
この小説の連載予告が新聞に載ると、そこにはこのように書かれていました。昭和41年八月十九日から三十日まで掲載「変な標題だと思って、どんな小説ですと訊くと作者曰く『~」
ここでどうして変な標題という文が出てくるかというと、男性ファーストネームだけの小説はそれまでにほとんどなく、しかもその後もなかったのですから、大変珍しいものだったのです。厳密に言えばないこともないのですが、長編ではこれが初めてです。

女性ファーストネームだけの小説タイトルは多い
宮本百合子「伸子」 野上弥生子「真知子」 志賀直哉「邦子」 堀辰雄「菜穂子」 古井由吉「杳子」
男性フルネームの小説タイトルは珍しくない
富田常雄「姿三四郎」 志賀直哉「大津順吉」 伊藤整「鳴海仙吉」 実名歴史小説
性にはセックスとジェンダーという意味があります。セックスは単純に性的に男か女かというものです。
ジェンダーとは社会的に作られた女性らしさ、男性らしさといったものです。三四郎の前には、女性ファーストネームだけの連載小説はかなり多くありました。明治になって「子」という名前を国民が使用できるようになってからは、名前に「子」を遣うことが非常に多くなりました。というのも「子」というのは、今まで皇族や貴族しか使用できない高貴な名前だったからです。この当時は「子」をつけることがブームになり、それは戦後あたりまで続きました。
現在ではあまり「子」が使用されることはなくなりましたが、当時は「子」をつけるのが新鮮でありモダンであったのです。今風に言えば「セレブ」といった感じがしたようです。1912年明治から大正へ移行した年、名前ランキングを見てみるとトップ1、2、3は「~子」でした。
小説でも同様、「子」がついた名前の小説が非常に流行しました。
対して、男性はフルネームであれば珍しくありませんが、ファーストネームだけというのは珍しかったのです。たまにファーストネームが乗っていたとしても「~の冒険」とか「~物語」といったようにそれだけでは使用されません。
「姿三四郎」のように、苗字一字名前三字というのは日本のヒーローの伝統のような名前です。このように、名前の苗字がセットになって両方出てくるものは多いのです。
これはジェンダーにおける非対称の例です。

三四郎の名字
P11ℓ15「三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都群真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いた」
後に小説の中で三四郎は小川さん小川さんと何度か呼ばれることもあり、三四郎の名字は小川であることがはっきりとわかります。ここも読者が読み落としやすい部分です。この部分では三四郎が「正直に書いた」とあるため信憑性が生まれるのです。そこに資料としての価値が生まれます。
福岡県京都郡(みやこぐん)までは実在し、真崎村というのは漱石のフークションです。
名古屋の宿帳記載の問題
宿側はどう解釈したか?
P12ℓ1で三四郎は変な縁で一緒に泊まることとなってしまった女性の名前を「已を得ず同県同群同村同姓花二十三年」と勝手に書いてしまいました。
後になって、下女が敷く布団が一枚しかないということで下女と少しもめますが、これは宿側の責任だけでなく、三四郎の責任もあるということがわかってきます。
通常住所も同じで、名字も同じ、年も同じの男女だとすると考えられるのは双子か夫婦しかありません。そうしてその二人が大して似てもいないのですから夫婦と考えるのが通常です。ですから、どうも読者は女が三四郎を誘ったといったへんな読みをしてしまいがちですが、これは完全に三四郎が宿帳に記載したことに責任があり、そのような読みは出来ないということになります。

東海道本線のスピード
朝名古屋を発って「その晩」東京着
当時の時刻表
名古屋09;30発 20;02新橋着
P14ℓ1~3までで三四郎は朝発の電車に乗ります。P24一章の最後に電車が到着します。
今考えると、名古屋から新橋まで10時間半もかかるというのはびっくりします。東京までやってくるのがいかに大変かということが伺えます。
P22で後に広田先生とわかる男性と三四郎は弁当を食います。ℓ1「浜松で二人とも申し合わせた様に弁当を食った」
調べると当時の時刻表では浜松は11;08となっています。11時すぐにお昼というのはちょっと早すぎやしないかとも考えられますが、次の静岡は1;43、そうするとやはり浜松で少し早く食べようということになったのだということがわかります。古い時刻表を見るとこういうこともわかるのです。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
263位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
18位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。