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オノマトペへの試論 1 他者との理解~言葉を用いることの意味

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他者との理解
私たちが生きていくうえで、重要になるのは他者との理解です。「人は一人では生きられない」という命題は、あらゆる分野の学問においてすでに立証されていると私は思います。他者との理解。私の究極的な命題はこれに尽きると思っています。
例えば学問をとってみましょう。理数系の学問は我々人類が住む地球、宇宙この世界の神秘を何とか人間が理解できるように説明しようという試みではないでしょうか。人文系の学問はその言葉がすでに人と文という文字で表されているように、人の内面を理解しようとする学問です。理数系は我々の外に存在する宇宙へ、人文系は我々の内部に存在する宇宙へと視野が向けられているだけであって、学問をすることは私たち人類を理解しようという根源的なテーマにかかってくることなのです。
芸術も同じことです。芸術は私たち内面の宇宙、形のない情念、流動的なエナジーのようなものに、人類が考えうる全ての感情、理性をもって形を与えてこの世界に表出するという行為にほかなりません。芸術全般は、自分の中にある形のないものに形を与えて、そうしてそれを媒体とすることによって他者との理解を深めようという欲求によりおこることなのです。ですから、何かしら人の手によって作り出された、或いは生み出されたものはそこにそれぞれの想いが込められています。私はそれを物語だといいますが、その表出された物語が、人の感情や理性というものを通り越して、人そのものの理解へと繋がるのです。
人が人とコミュニケーションをとる。全てはそこから始まるのです。動物は人のように脳が大きくありませんから、言葉という極めて高度な記号を用いて意思を通じることは出来ません。イルカや類人猿のようないわゆる高知能な生物になると、独自のコミュニケーションツールを有するようになります。それは身体の動作を踏まえた意思表示であったり、超音波であったりするわけです。
私たち人類の最も偉大な発明は何か、それは紛れもなく言葉です。「はじめに言葉ありき」と旧約聖書にもあるように、私たち人類は言葉を用いることによって、他の生物にはない極めて高度な意思疎通がはかれるのです。
言葉以外の意思疎通の媒体は上で簡単に述べました。言葉を使った意思疎通はどのように展開されるのかを見て行きましょう。ごく簡単に言語の歴史を振り返りますと、何かを指し示してそれにある言葉を与えました。ある言葉はそのものを示す記号として存在したのです。それが徐々に高度化してくると、一つの言葉に二つ以上の意味が込められたりするようになります。そうして言葉とモノとの一対一の世界から解き放たれて大変多義的な世界に広がりました。外界に存在する以外のものにも言葉が与えられるようにもなります。それは感情など、人間の内面や、あるいは形のない概念・思想などです。それらの言葉がある程度成熟したときに、それを何とか残しておかなければならないということになり、文字が発明されます。その文字の発明によりさらに高度な記号が次々と編み出され、言葉という人類最強の武器が出来上がるのです。
こうした高度な記号を通じて、私たち人間は他の人間との意思疎通をはかります。そこには愛の言葉が生まれたり、或いは人を傷つけるための言葉も生まれます。そうした言葉を通じて、或いはその他全ての記号と通じて、私たちは結局他者との理解を行おうとしているのです。もし、そこに何かしらの障害が生じると、それは何らかの病気や精神障害となって、他者との理解ができなくなってしまいます。少年院に入る子どもたちは言葉の数が非常に貧しいといわれます。他者との理解をするための言葉があまりに少ないのです。だから自分の伝えたいことも伝えられず、また他者のことも理解できないのです。そうした理解できないという不安やもどかしさから、行為で自分の感情を伝える、表現するという方法しかとれなくなってしまうのではないでしょうか。
私たちが生きるということは、他者との理解を目指すことであり、その理解の媒体としてその人にあった記号を習得していくことではないでしょうか。ある人は言葉に注目し、言葉を鍛錬して他者を理解しようとする。ある人は芸術に注目し自分の感情を例えば絵の具で、例えば音階にあわせて表象し、そうして他の人の表象された作品を通じて他者を理解しようとしているのです。私たち人間が生きるということは、他者を理解しようとする行為そのものなのです。

言葉を用いることの意味
言葉を用いるとは一体どういう意味を持つのでしょうか。基本的な文字媒体である本と、人間の思考という側面からその本質に迫って行きたいと思います。
言葉を用いることは誰もが行うことですが、それを何かしらに記憶しておかなければなりません。私たちの言葉という記号が高度になればなるほど、それは多用になり難しいものとなります。そうしたものを覚えているために言葉が生まれ、その言葉をとどめておくための最も基本的な媒体が言葉の集積箱、本ということになるのです。
本を読むということは文字を読むということです。その文字は言葉です。従って本を読むということは言葉を読むということです。「読む」とは言葉と言葉の関係を組み立てながら、そこに描かれている情景や様子、感情や考えなどを自分でイメージしていく行為です。そこに何が描かれていたのかを理解できたときに、その本を読めたと言うことが出来ますし、その本に書かれてある人の感情を理解することが出来るのです。
また、理解と同時に、私たちは新しい言葉に接します。話し言葉が文字になり、その文字が書き言葉として作られたのが本です。その本を読むということは、言葉の獲得をも意味するのです。そうして多くの言葉を獲得することは、多くのことを理解することと同じになります。読書が好きな人もまた、他者を理解することが好きであるということになるのです。
言葉を獲得するとどうなるのでしょうか。多くの言葉を獲得すること、必要最低限の言葉しか獲得しないことと一体何の差があるというのでしょう。最も明白なことは、多くの言葉を獲得していると、コミュニケーションが豊かになるということです。上で少年院に送られる子どもの言葉の獲得数の少なさを指摘しました。では反対に言葉を多く獲得するとどのような利点があるのでしょう。
三重苦の中から立ち直り、奇跡の人と呼ばれたヘレン・ケラーはこのように言っています。「物には名前がある。言葉の獲得は、人生を豊かにする」眼も耳も不自由ななかで、多くの言葉を獲得し、感情溢れる豊かな人となった彼女は、まさしく言葉による力によってすくわれた人でもあり、真に言葉によって人に感情を伝えることが出来た人でした。
言葉を自分の表象手段として扱う人間のなかで、その最たるものが小説家や詩人、評論化などでしょう。彼らは言葉を通じて他者との理解を図ろうと苦心する人間です。時には言葉が全くの無力であることを感じて絶望したりしながら、それでも一縷の奇跡を信じて言葉を使わずには居られない人々なのです。
外国語を学ぶ意義もここにあるのではないでしょうか。日本という島国では、他文化、他宗教、他言語との関係が良くも悪くも遠い存在になっています。よいこととしては、他の存在に介入されることなく、独自の文化や言語を発達し、極めて高度な文化体形を有するになったことでしょう。その証拠として、日本語が難しいと言われるのです。それだけ高度な言語を使いこなす民族であるということは、それだけ高度な意思疎通をはかることが出来るということにもなります。
負の面としては、他の存在とあまりにも離れすぎたために他者理解が難しくなっていることでしょうか。外国人が日本の言葉、文化、思想などを容易く理解できないように、私たちもまた外国の文化、言語、宗教などの理解に多くの労力を要します。外国語を学ぶことは、自分たちとは異なった文化、宗教、人類を理解しようとする行為なのです。全く自分たちとは異質なものを理解したい。怖れて忌避するのではなく、好奇心、知的探究心をもって、他者を理解しようという根源的な欲求に突き動かされている、純粋な行為なのです。
さて、そのように多くの言葉を獲得する意義はなんでしょう。想像力と思考力という側面から理解してみましょう。
想像力とは、目の前にないものを視覚的に頭に思い浮かべる力で、思考力とは抽象的な言葉を通じて、意味や内容を考えることです。想像力と思考力は共通の行為で、それはそれらの基盤になるのが言葉だからなのです。想像力と思考力はそれぞれ関連していて互いに育つものなのです。
この想像力、思考力は現実の世界で先を予想して計画を立てたり、様々な人とのコミュニケーションをとったりする上で必要な力になり、それらは言葉の獲得、読書や人との会話によって育成されるのです。

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